飛び立つ天使
「セロン様! 旦那様! 朝ですよー! 起きてくださーい!」
お玉とフライパンを手に持った侍女が、カンカンと耳障りな音を響かせてベッドに横たわる2人を叩き起こす。
(珍しい……。今日は、お寝坊さん……?)
ゆっくりと瞳を開いた天使は、クロディオがいるのに驚きを隠せなかった。
彼はいつも、セロンよりも早く目覚め――真っ先に寝台を出ていくからだ。
(わたしと、想い。通じ合わせて……。信頼してくれた、証……?)
彼の胸元に身を寄せたセロンは、嬉しくて仕方がない。
そばにいるのをいいことに、愛する人ぬくもりを堪能しながら口元を綻ばせた。
「うーん。旦那様が、これほど深い眠りにつくなんて……。どうしましょう……?」
『ボクが、叩き起こしてあげようか?』
「ペガサスは、駄目……。クロディオ、傷つける……」
ルセメルの隣にいた神馬がやる気満々の様子を見せれば、セロンはそれに待ったをかける。
その声を耳にした侍女は、大声で天使に助けを求めた。
「セロン様! 旦那様を起こすの、手伝ってくれませんか!?」
「ん……。どう、すれば……。いい……?」
「熱い抱擁が駄目なら、聖女天使のキスを……」
「わかった……」
「へ!? 今のは、冗談――」
侍女もまさか、セロンが真に受けるなど思いもしなかったのだろう。
慌てて先程の言葉を撤回したが、一度動き出した天使は止まれない。
(唇を触れ合わせるのは、全部終わったあと。そう、約束した。でも……)
いつ終わるかわからぬルユメール王国との戦争を待ちきれなかったセロンは、もぞもぞと小さな身体を動かす。
その後、彼の頬を両手で掴み、唇を重ねようとして――。
「ふぐぐ……」
その口を、大きな指先で覆われてしまった。
くぐもった声を出しながら目を丸くするセロンは、彼と視線を交わらせる。
そして、クロディオと口づけを交わし合うのを諦めた。
「あれだけ大声で、騒がれたら……。どれほど疲れていたとしても、眠ってなどいられん……」
「ぷは……っ。クロディオ……! おはよ……」
「ああ。おはよう。ここは、まだ駄目だと言ったはずだが?」
「待ちきれなくて……」
「俺だけの聖女天使がかわいすぎるのも、問題だな……」
セロンの唇を塞いでいた手を離した彼は、天使の銀髪を手櫛で梳きながら優しく瞳を和らげた。
その姿は、残忍酷薄な辺境伯と呼ばれていたのが嘘のように穏やかだ。
「クロディオの、穏やかな表情……。至近距離で、見られるの。わたし、だけ?」
「ああ。俺の顔なんか見たって、面白くないだろうが……」
「うんん。特別って、感じ。する。想いを通じ合わせた、証拠……。ここ、ぽかぽか、あったかい。これが、幸せ……?」
「そうかもしれない」
2人は口元を綻ばせて微笑み合うと、ベッドから身体を起こす。
「朝っぱらからいちゃついている暇は、ないはずなんですけどねぇ……。ご馳走様です!」
『クロディオとの仲を認めたのは、失敗だったかもしれないな……』
呆れの色を隠せないルセメルと、ペガサスの声を聞きながら。
天使は当然のようにクロディオの膝上に跨り、朝食を楽しむ。
「旦那様! 今日はとっても、忙しいですよー。騎士団の訓練に参加。姿絵の確認、書類整理。それから……」
「ああ。ロスした分の時間は、あとで取り戻す」
「今までずっと、働き詰めでしたから。セロン様と想いを通じ合わせて、安心してしまったんですよね?」
「そうだが……」
セロンはオニオンスープとパンをもそもそと自分のペースでのんびりと食べ進めていたが、クロディオは時間に追われているせいからか。
食事を味わって食べるという習慣がないらしく、5分と立たずに食事を終えた。
(クロディオの、足。引っ張ってる……。もっと、早く。食べなきゃ……)
天使がパンを頬張り、必死に胃袋の中へ押し込もうとしていると――その時間を有意義に活用するためか、侍女と辺境伯は雑談を始めた。
「旦那様はセロン様が現れてから、本当に変わりましたねぇ。昔は、恨み言の一つや二つ……」
「わざわざセロンの前で、俺の好感度を下げる話をするな」
「やっぱり旦那様は、こうでなくちゃ!」
「ご、ち、そう……。さま、でした……」
「はい。お粗末さまでした! それは、食器を下げて参ります!」
ルセメルは満面の笑顔を浮かべて食べ終わった皿を回収すると、あっという間に姿を消した。
「言い逃げか……」
クロディオが苛立ちを隠しきれない様子で侍女の去りゆく姿を見つめる。
その姿を目にしたセロンは、不思議そうに彼へ声をかけた。
「まだ、ルセメル。苦手?」
「そうだな。あいつは、どうしようもない……」
「手を焼いてるクロディオも、素敵」
「そう、か……?」
「ん。好きだって、自覚してから。ね? あなたの、全部。愛おしくなった……」
「セロン……」
金色の瞳が優しく緩められ、愛する天使を見つめる。
(こんな、幸せで……。いいの、かな……?)
セロンは彼から与えられる愛情にどこか困惑しながらも、まんざらでもない様子でそれを受け取ろうとして――。
「あの、ね。わたし……。クロディオが……」
『セロン!』
愛する彼に、想いを告げようとした直後。
ペガサスが自らの名を紡ぐ声を聞き、何かに誘われるようにして窓の外を見つめる神馬の視線を追いかける。
そして――あり得ない光景を目撃した。
「あれは……」
窓の外では翼をはためかせた聖女天使の大群が、天界に向かって羽ばたいている。
(野良聖女天使、珍しい存在。束になって羽ばたけるほど、聖女天使を集めていた国……。ルユメールだけ……)
彼女達がどこからやってきたのかを瞬時に悟ったセロンは、切羽詰まった様子で最愛の人に命じた。
「どうした」
「クロディオ……! 窓、開けて!」
愛するセロンが声を荒らげるなど、始めてのことだ。
彼は困惑の色を隠せぬ様子を見せていた。
「何が……」
「早く……っ!」
しかし、天使に促されてただ事ではないと異変を察知したのだろう。
彼は少女の細い身体を抱き上げ、重い腰を上げた。
『ボクは、様子を見てくるよ!』
「あ、待って! わたしも……っ!」
クロディオが窓の施錠を解除して開け放てば、純白の翼をはためかせてペガサスが大空へ羽ばたく。
神馬のテレパシーは人間に聞こえないようだが、聖女天使達とは意思疎通が可能だ。
なぜ少女達が集団で浮遊しているのかは、すぐにわかるはずだ。
(あの子にだけ任せきりは、悪いから……っ)
セロンはクロディオの腕に囚われ、ここで待っていればいいとわかっていても――。
異変を見て見ぬふりなどできず、彼の手から逃れようとしたのだが……。
それを愛する人が、許すはずがない。
「どこに行くつもりだ」
低い声でセロンを呼び止めたクロディオは、先程までの上機嫌な様子などどこへやら。
苛立ちを隠せぬ低い声で、天使が己の腕から抜け出ていかぬようにきつく抱きしめた。
「あの、ね? 集団で、聖女天使。浮遊していて……。ペガサス、様子、見に行った」
「そうか」
「わたし、も……」
「行かせない」
「クロディオ……」
「セロンは、俺と一緒にいるんだ。誰にも渡さないし、手放さない。絶対に……」
天使に対する強い独占欲と執着心を見せつけた彼は、瞳を潤ませて懇願するセロンの望みを棄却する。
2人は長い間、永遠とも呼べる無言の言い争いをしていたが――。
「辺境伯! いらっしゃいますか!」
執務室に姿を見せた第三者によって、その無駄ないざこざは終わりを告げた。
「ああ。ここにいる」
「し、失礼いたします!」
クロディオから入室の許可を得た男性は、休憩室に足を踏み入れた瞬間に声を大にして叫ぶ。
「報告が2つございます!」
「ああ」
「ルユメール王国の神殿より、捕らえられていた聖女天使が一斉に解放されました!」
「なんだと?」
「その後、上空から彼女達とともに国境へ姿を見せたバズドント伯爵令嬢が、セロン・バズドントに会わせろと怒声を響かせておりまして……!」
その報告を耳にして驚いたのは、クロディオだけではなかった。
義姉の名を聞いたセロンは、呆然と呟く。
「ねえ、さま……?」
「やはり君は、バズドント伯爵家の……」
彼の思わせぶりな発言を耳にしたセロンは、父親の手によって存在を秘匿されていたため、自らの家名を名乗らずにここまできたことを思い出す。
(うっかりしてた……)
――どれほど悔やんだところで、バレてしまっては仕方がない。
天使はクロディオの腕に爪を立てると、最愛の人に向かって淡々と事情を説明する。
「うん。わたし、存在しないことに、なっている……。混乱、させたくなかった。ごめんなさい……」
「いや。君から直接説明を受けなくとも、ある程度予想していた展開だ。責任を感じる必要などない」
「そう……?」
「ああ」
怒られると怯えていたせいで、不安そうに瞳を揺らしていたが……。
彼の肯定を受けて、ほっと胸を撫で下ろす。
(よかった……。クロディオ……。優しいままだ……)
ピリピリとしていた2人の空気感が穏やかなものへと変化して、セロンが肩の力を抜いた時のことだった。
聖女天使の事情を聞きに行っていたはずのペガサスが、勢いよく純白の翼を広げて戻ってくる。
『セロン! みんなから、事情を聞いてきたよ! 君の義姉が、彼女達を解放したそうだ! ルイザは、君に会いたがっているって!』
神馬は先程男性がクロディオに報告した内容とほとんど同じ言葉を口にすると、天使を外へ連れ出そうとする。
「こちらの準備は、万全とは言えんが……。あちらにとってもこの展開は、予想外だろう。神殿の対応に追われている今、奴らは隙だらけだ」
そんなペガサスと最愛の少女を視界に捉えたクロディオはどこか遠くを見つめ、金色の瞳に残忍酷薄な辺境伯と謳われる剣呑な表情を覗かせた。
「ルユメール王国、滅ぼす……?」
「ああ。セロン。俺のそばに、いてくれるな?」
「ん。いいよ。わたし、クロディオと……。ずっと、一緒……」
指先を絡め合って手を繋いだ2人は、確かな決意を胸に――。
ついに、自国に復讐すべく行動を開始した。




