一方的な婚約者宣言
「ルイザ・バズドント……」
「それが、君の名前かい?」
「どこ……?」
「僕は、この国の第一王子。フラティウス・べグリーさ」
緊張してうまく話せなかったセロンは、瞳を潤ませて義姉の居場所を問いかける。
すると、それを聞いた青年は口元を優しく綻ばせて自己紹介をした。
(王子、様……?)
俗世に疎い天使にも、彼が偉い人だと言う知識くらいはある。
(この人なら、きっと……)
フラティウスを信頼できる人だと認定したセロンは、バルコニーの上に落ちた髪飾りを拾う。
その後髪留めに傷がついていないか確認したあと、両手に乗せて差し出した。
「これ。渡さなきゃ……」
「君は、一体……」
「頼まれた、から……」
天使の拙い主張を聞いて訝しげな視線を向けていた王太子は、ようやく少女の言いたいことを理解したのだろう。
胸を張った彼は、セロンに優しく笑いかけた。
「バズドント伯爵令嬢の元へ、案内してあげるよ」
「駄目……」
「どうして? 自分で、渡さないと……」
「わたし、外に出たら。本当は……」
セロンは悲しそうに眉を伏せ、俯く。
そんな天使の姿を目にした彼は、少女の不安を取り除こうと顔を覗き込み――。
「ああ、なんて綺麗な……熟した桃のような、おいしそうな瞳をしているんだ……」
恍惚とした表情を浮かべたあと、こちらを安心させるように微笑んだ。
「何か、理由があるんだね」
「うん……」
「そうか。よくわかった」
「じゃあ……」
「交換条件だよ。それを届ける代わりに、僕の願いを叶えてほしい」
唇が触れ合いそうなほど近い距離に、年頃の異性と近づくなど初めての経験だったからだろう。
セロンはどこか気まずそうに視線を逸したが、彼はそれを許さなかった。
何度も天使の瞳を追いかけてしっかりと目を合わせた王太子は、懇願する。
「――婚約者になってくれないか」
灰色の目に嘘偽りのない感情を宿すと、真剣な眼差しで天使を求めた。
「わたし、が……? どう、して……」
「君の神々しい姿を見た瞬間、ピンと来たんだ。僕の妻は、君しかいないって……」
まさか今日、初めて出会ったばかりの異性から求婚されるなど思っても見なかったのだろう。
困惑の色を隠せぬセロンに、彼は瞳を潤ませて懇願する。
「でも、わたし……。聖女、天使で……」
「心配いらないよ。僕はこの国の王太子だ。君を神殿になんて――奪わせない。守ってみせると、誓うから」
王太子の告白を受けた少女は、疑心暗鬼に陥った。
(この人は本当に、信じられる人……?)
甘い言葉を囁き、聖女天使を手中に収めようと目論む悪人の可能性も否めない。
「君だって、よくわかっているはずだ。このまま1人でいたら、危険だって……」
「だけ、ど……」
「どうか、僕を選んでほしい」
「わたし、は……」
天使は今すぐ王太子の手を取りたい気持ちでいっぱいになりながらも、最後の一歩を踏み出せなかった。
(この手を取って。殿下と一緒に暮らす資格、わたしには……ない……)
バズドント伯爵家の娘セロンは、存在してはいけないからだ。
少女は自らの名を名乗ることもできず、後退る。
その直後――。
「な……! なぜここに、聖女天使が!?」
王太子の背後から素っ頓狂な声を上げた老紳士が、天使を凝視して叫び出す。
(見つかっちゃった……)
少女は真っ青で全身を震わせながらもどうにかフラティウスに義姉の髪飾りを握らせ、再び彼と距離を取った。
「殿下! 何をやっているのです! 今すぐ彼女を、捕らえないと!」
「騒がないでくれ」
「しかし……! 神殿の悪行が、神に知られては……!」
王太子は大騒ぎする老紳士に声を落として語りかけるが、男性は不穏な言葉ばかりを口にする。
(逃げなきゃ……)
この舞踏会には、義姉だけではなく父親も参加しているのだ。
こんなところで鉢合わせたら、何を言われるかわかったものではない。
「これ、渡して」
「あ……っ! 待ってくれ……! どこにいたとしても……! 僕は君を、見つけ出す! だから!」
身の危険を感じたセロンは王太子の静止を振り切り、再び翼をはためかせて浮上する。
「忘れないでくれ! 今日から君は、僕の婚約者だ……!」
フラティウスの一方的な婚約宣言に頷くことなく――バルコニーに、1枚の羽根を残して……。
「今すぐ、近衛兵を呼べ!」
「大事にするなと言ったのが、聞こえなかったのか!?」
「弓や拳銃で、彼女の翼を――」
「やめろ! あの子は未来の王太子妃だぞ!? 傷つけるなんて、僕が許さない!」
「しかし……!」
舞踏会の会場では、聖女天使が現れたと大騒ぎになっていた。
しかし、どれほど人間が慌てふためこうとも――王城の喧騒を背に大空へ逃げ出したセロンには関係のない話だ。
(どうしよう。このまま、帰ったら。かあさまに、怒られる……?)
義姉とだけ会話をしてさっさと帰るつもりが、たくさんの人に背中へ翼を生やしているところを目撃されてしまった。
顔を覚えられていた場合、このまま行方を晦ましたところで捕まるのがオチだった。
(伯爵家に戻っても、いいことなんて、何もない……。このまま、同胞と一緒に、神殿で暮らしたほうが……)
夜空の下で翼をはためかせて浮遊するセロンは月夜に照らされながら、長い間逡巡する。しかし――。
最終的にはバズドント伯爵家へ、戻る選択肢を選び取った。
(衣食住、しっかり。安全に暮らせる。その保証がない限り、あそこにいたほうが……。きっと……)
行き倒れて命を落とすよりは、義家族から虐げられるほうがいいと考えたからだ。
(あの人……。迎えに来てくれるって。わたしの婚約者だって、言った……)
いつか再び、彼と巡り会える日を信じて。
(もし、再会できたら……。わたしはあの人と、結婚する……)
期待に胸を膨らませながら頬を赤らめた天使は、こうして素直に伯爵家へ戻った。
*
――舞踏会の会場から無事にバズドント伯爵家に戻ったセロンは何事もなかったかのように地下室へ閉じ籠り、いつも通りの生活を続けていた。
そんな、ある日のことだった。
「ここを抜け出したのか!?」
ノックもなしに怒鳴り込んできた父親の姿を目にして、娘は目を丸くしながら読んでいた本をぱたんと閉じた。
「神殿に認可されていない聖女天使など、お前以外には考えられない……!」
「と、う、さま……っ。い、痛い……っ!」
「お前はなぜ、私の言う事を聞かないんだ!? 今よりもっと苦しく、悲しい思いをしたいのか!?」
「わ、たし……っ。そんな、こと……っ」
「父親の許可なく、王太子の婚約者になるなどあり得ない……!」
娘の両肩を掴んで怒声を響かせる父親に目を丸くしたセロンが、必死に頭を振って否定をする。
すると――。
悲しそうに眉を伏せた彼は、低い声で天使を脅す。
「娘は、誰にも渡さん……。もう一度私の目を盗み、外へ出ようとするならば……。手足を縛りつけて、ここにも鍵をかける」
「とうさま……!」
「これ以上酷い目に会いたくなければ、大人しくしていろ! わかったな!?」
鬼の形相で娘に言い聞かせた彼はセロンの両肩を離したあと、苛立ちを隠せない様子で踵を返す。
その後、地下室を出て行った。
(かあさまとねえさまに、言えばいいのに……)
天使が舞踏会の海上に向かったのは、義母の命令に逆らえば何をされるのかわかったものではなかったからだ。
(どうしてとうさまは、再婚なんてしたんだろう……)
セロンは壁に飾られた実母の姿絵をじっと見つめ、悲しそうに眉を伏せる。
(お母さまが、生きていれば……)
父親は実母を、娘以上に深く愛していた。
もしもセロンと引き換えに命を落としていなければ、天使は義家族に虐げられることもなく――実母の庇護を受け、幸せに暮らしていただろう。
(わたしがこうして苦しみ、悲しむ必要も……なかった……)
天使は膝を抱えて丸まり、瞳を閉じた。
(お母さまに、会いたい……)
叶わぬ願いを、胸にいだいたまま。