誤解を解いて
パロニード辺境伯の拠点となる領城の執務室に連れ戻されたセロンは、再びここで暮らすようになった。
(クロディオのことは、まだ……。ちょっと、苦手……。でも……)
――天使は信じたかった。
彼の腕の中に抱きしめられた時、心地いいと感じた自分の感情を。
『どうしてセロンは、人間なんかに頼るんだ? 誰だって、同じだよ。心の奥底には、一物かかえ込んでいる。この男だって、きっとそうに違いない』
クロディオに心を許し始めていると知ったペガサスは、それに納得ができないようだ。
どうにか彼を嫌いになってもらえないだろうかと、言葉を重ねる。
「決めつけは、よくない」
『ボクは事実を述べたまでさ』
「ベガサス……」
『彼はここに君を連れてきてから、一切セロンを気にする様子がない』
「それは、お仕事だからで……」
『こんな奴と一緒にいたって、なんのメリットもないよ。ボクと一緒に、天界へ行こう!』
床の上に座って静かにペガサスと会話を試みていたセロンの首元を引っ掴んで勢いよく振り上げた神馬は、背中に少女を乗せて上空へと羽ばたく。
「ま、待って……」
か細い声を上げた天使はすぐさま背中に翼を生やし、空中へと浮かび上がって天界行きを拒絶した。
『どうして、嫌がるの?』
「まだ、答え。出てない……」
『そんなの、考える前から決まっているじゃないか! 僕達がこうして翼を広げても、こちらを見ようともしない! セロンは、大事にされてないんだよ!』
ペガサスの叫びを耳にしたセロンは、悲しそうにクロディオの頭部をじっと見つめる。
確かに彼は不愉快そうに眉を顰めながら書類とにらめっこしており、こちらを見ようともしなかった。
(それは聞いてみなくちゃ、わからない……)
辺境伯が不機嫌そうにしているのも無理はなかった。
『そばにいてほしい』
そう自分から願ったくせに侍女とともに無断で外出し、彼に連れ戻されたのだ。
きっと、内心怒り狂っているに違いない。
(対話、大事……)
セロンは翼をはためかせてクロディオの背後に浮遊すると、彼の耳元で囁いた。
「わたし、いらない?」
こてりと首を傾げて告げたセロンは、辺境伯の様子を暫く空中に浮かんだまま観察する。
彼は天使の声を耳にした直後、書類からぴたりと両手を離し――こちらを振り返る。
そして、重い口を開く。
「それは君の意見を聞いてから、伝えるとしよう」
「わ……っ」
クロディオは少女の腰元に逞しい腕を回して引き寄せると、自らの膝上へ向かい合わせの状態で座らせた。
『セロン……!』
「いいの。平気……」
ペガサスはすぐさま2人を引き離そうとしたが、天使は首を振って神馬を制する。
(わたしのお願い。ちゃんと、聞いてくれる……?)
少女は不安で堪らなかった。
しかし、そんなこちらの考えを見透かしたのだろう。
天使に迷惑をかけるわけにはいかないと判断した獣は悔しそうに鼻を鳴らしたあと、大人しくなった。
(よかった……。あとは、クロディオと……。お話すれば、いいだけ……)
ペガサスが床に降り立ち、不貞腐れたように辺境伯を睨みつける姿を横目にしながら。
セロンは彼の胸元を握りしめ、クロディオを見上げた。
(不満、そう…………?)
辺境伯の金色の瞳に隠された感情を読み取ったあと、どんな言葉をかけるべきかと迷う素振りを見せていたからか。
クロディオはセロンの腰元に太い腕をしっかりと巻きつけて固定し、身を屈めた。
その後、自らも身を屈めて桃色の目と視線を覗き込み、低い声で凄んだ。
「なぜ逃げた」
辺境伯から強い口調で凄まれた天使は、悲しそうに眉を伏せる。
瞳をかち合わせたままでは、その恐ろしさに震え上がって泣いてしまうかもしれないと怯えたからだ。
セロンは何度か鼻を啜って涙を流さないように耐えながら、ぽつりと言葉を吐き出した。
「わたし、逃げてない」
「俺が嫌で、出ていったんだろう」
「違う」
「嘘をつかなくていい」
「どうして、聞いてくれないの」
自分の考えを拒絶されるなど思いもしなかった。
桃色の瞳には、じんわりと涙が滲む。
(このままじゃ、事実を受け入れてもらえない……)
苦しそうに唇を噛み締めて透明な雫が溢れ落ちるのをぐっと堪えたセロンは、再びそう感じた理由の補足説明を行う。
「わたし、ペガサスに呼ばれた……。迎えに行っただけ……」
「農園の果実をもぎ取り、街へ散策に繰り出したくらいだ。俺に一言断る時間はあったはずだろう」
「許してもらえないと、思った……」
「なぜ、俺を信じられないんだ」
彼は呆れてものもいえないとばかりに、セロンの腰元に回した腕に力を込めた。
(押し潰されそう……)
小さな身体をきつく抱きしめられた天使は、圧迫感に眉を顰める。
彼の胸元を握りしめる力を強め、苦しそうに自らいだいた気持ちを吐露した。
「手のかかる子どもって、言った……」
「それは……。君の常識の無さに、呆れただけだ。セロンのせいではない」
「利益を齎せないのであれば、出て行ってもらうって……」
「そんなことを、気にしていたのか……」
どこか遠くを見つめて呆れたように語るクロディオの姿が、気に食わない。
セロンは心外だと言わんばかりに頬を膨れさせ、ぷんすかと怒りながら強い口調で彼に凄む。
「とっても、大事なこと」
「ああ。そうかもしれんな。俺にとっては、どうでもいいが……」
だが、そんな姿ですらも彼にとってはかわいらしい小動物のようにしか見えないのだろう。
クロディオは安心させるように銀の髪を手櫛で梳きながら、小さく頭を下げた。
「俺には他人を、思いやる視点が欠如している。不快にさせたのであれば、謝罪しよう。すまなかった」
「ごめん、なさい……?」
「俺の言い方が悪かったのは、明らかだ」
2人は謝罪をし合うことで、不毛な言い争いを続ける気はなくなったようだ。
「クロディオ。わたし……」
「すでに君は、俺に利を齎している」
何か言いたげな少女の声を遮った彼は、セロンに思いもよらない話をする。天使は不思議そうに首を左右に振り、それを否定した。
「うんん……。わたし、クロディオを苛つかせてばかり。背中に羽を生やすこと。人を癒やすこと。それしかできない。利益なんて……」
「――それで充分……。いや、俺は君を、誇らしく思う」
「どう、して?」
クロディオは言いかけた言葉を途中で取り止め、セロンを褒める。
天使に促された彼は、優しく目元を綻ばせながら事実を告げた。
「神馬を手懐け、人々から一目置かれるようになった」
「それって、いいこと?」
「ああ」
家族以外との関わりがほとんどなかったセロンにはどうにも、それが本当に素晴らしいことであるかの判断がうまくつけられない状態だったようだが――。
「わたし、あなたの役に立てた?」
「それは誰にも、できることではない。誇っていいぞ」
「よかった……」
彼から素直に受け入れるべきだと促されると、ようやく実感が湧く。
天使も嬉しそうに口元を緩めると、ほっと胸を撫で下ろした。
「君は、俺達の想像を絶するような体験をしてきたかもしれん。普通の人間として産まれていればと、後悔したことも数え切れないほどあるだろう」
「うん……」
「だが、俺は……。セロンが聖女天使として産まれたおかげで、こうして君と巡り会えた。それを、神に感謝している」
セロンが生まれ来なければ、母親は生きていた。
父親が義母と結婚することもなく、義姉と家族にはならずに済んだ。
(ぜんぶ、わたしのせい……)
そう自分を責めていた天使にとって、クロディオの言葉は砂漠を潤す一滴の水みたいに、心の奥底へと染み渡る。
「君と出会えなければ、俺はこうして、セロンに触れ合えなかった。騎士団は全滅し、この辺境伯も――ルユメール王国のものになっていただろう」
もしもの未来を思い浮かべた彼は淡々と言葉を紡ぎながら、声を発することなく大人しくしているペガサスへと視線を移す。
「そいつの存在は、正直に言うと気に食わん。神々からしてみれば、聖女天使を虐げ一箇所に監禁するルユメール王国のやり方に疑念をいだき、君達を天界に誘おうとするのは当然かも知れんが……」
「うん……」
「今までセロンが傷ついた分だけ、俺が君を幸せにしてやればいいだけのことだ」
「クロディオ……」
「無理をすれば、いずれがたが来る。ありのままの君を、俺は愛したい。そう、最初から……。伝えておけば、よかったのかもしれんな……」
苦しそうに目元を緩めた彼は今までの態度を反省したように懺悔すると、全身から力を抜いた。




