ペガサスと辺境伯
「あなた……」
美しく光り輝く真っ白な四肢。
空に向かってピンと伸びる、2つの馬耳。
背中から生えた大きな翼を窮屈そうに小さく折り畳んだのは――神馬であった。
「ペガサス……?」
天使の呼びかけに応えた神獣は小さく頷くと、セロンの脳内に直接語りかける。
『セロン』
機械音にもよく似た不思議な声音を響かせながら、ペガサスはテレパシーを使って人間の言葉を発した。
「お話、できるの……?」
背中に翼を生やせるもの同士、通じるものがあるのだろう。
天使は不安そうにペガサスへ問いかけ、会話を試みた。
『ああ。ボクはずっと、神様と一緒に空から君のことを見守っているだけのつもりだった。けど……。もう、我慢できない』
神馬は苦しそうに胸の内を吐露すると、天使の胸元へ頬擦りをしながら――セロンを神界へ誘う。
『これからはボク達と一緒に、天界で暮らそう』
「お空、で……。一緒に……?」
『そうだよ。君には、その資格がある』
ペガサスから思ってもみない提案をされたセロンは困惑の色を隠せぬまま首を傾げる。
そして、神馬の主張に耳を傾けた。
『あそこには、薄汚い欲望をいだく人間なんて存在しないからね。セロンからしてみれば、楽園のように思えるはずさ』
「天界……。楽園……」
ペガサスの言葉を耳にした天使は、迷っていた。
(この子の手を取れば、わたし……。今度こそ、幸せになれる……?)
何度も期待して裏切られた経験を持つセロンは、臆病になっていたからだ。
(本当、なのかな……)
ペガサスの甘い誘惑を受け入れた直後――それが夢に終わった場合のリスクを鑑みると、彼の誘いは受け入れ難いものだった。
クロディオに自ら手を差し伸べた時のような強い怒りと絶望に苛まれていない天使は、神馬に戸惑いの視線を向けて黙り込む。
「だ、駄目ですよ! セロン様は、旦那様と手を取り合ったのですから! は、離れてください!」
会話を盗み聞きしていた侍女は、このままでは神聖なる天使が神馬に天界へ連れ去られてしまうと恐れたようだ。
ようやく視力が回復したルセメルは勢いよく立ち上がると、ペガサスをセロンから引き剥がしにかかる。
『ボクに触るな! 薄汚い女狐が……!』
「きゃあ……っ!」
先程までの、天使を慈しむような姿はどこへやら。
地を這うようなドスの効いた声を響かせた神馬は、侍女を蹴飛ばして土の上に転がした。
「ルセメル……」
『ふぅ……。これで邪魔者は、いなくなったね。さぁ、翼を広げて。ボクと一緒に、天界で暮らそう?』
ペガサスはひと仕事終えたとばかりに息を吐き出したあと、背中へ翼を生やすように促した。
「セロン、様……! 待って……! 旦那様を、信じてください……!」
倒れ伏す侍女が言葉を紡ぐ姿をぼんやりと見つめていたセロンは、神馬へと視線を移す。
(わたしは、ずっと……。翼を生やせる同類と、暮らしたかった……)
ペガサスの誘いを受け入れるかのように――背中に美しき翼を生やした天使は、胸元から離れて行った神獣の身体にゆっくりと触れる。
その後、自らの意思で胸元に抱き寄せようとしたが――。
「セロン!」
聞き慣れぬ男性の声で名を呼ばれ、神馬へ触れる前にその手を引っ込める。
(今の、声……)
彼が自身の名を呼ぶなど、初めてのことだった。
なのに――。
その声音だけは、忘れたくても記憶にこびりついて離れない。
(だって、彼は……)
何度倒れても再び立ち向かい、剣を振るう彼の姿を目にした。
そのおかげで、すべてを消滅させてしまいたいと願うほどに強い憎悪に支配されていたセロンは正気に戻り、こうして心穏やかに生きていられるのだから……。
「俺の許可なく、聖女天使を横取りしようとするなど……」
ペガサスに天使の指先が触れるよりも早く。
天使の小さな身体を背中からすっぽりと抱きしめ、マントの中に隠した辺境伯は――。
「神の使いの、風上にもおけんな」
背中に背負っていた大剣を片手で引き抜き、神馬に向けて切っ先を突きつけた。
「旦那様……!」
「ルセメル。よく粘った。感謝する」
「はい……っ!」
彼女はもう、無理に起き上がってペガサスと天使の間に割って入る必要はないと認識したからだろう。
だらりと四肢を土の上に投げ出すと、動かなくなった。
「死にたくなければ、今すぐ去れ」
セロンが侍女の姿を心配そうに見つめていれば、クロディオはペガサスに怒気を孕んだ声で凄む。
「それが嫌なら……この場で八つ裂きにしてくれる」
神馬は静かに怒り狂う彼の姿を目にしても、一切動じる様子を見せなかった。
むしろ、受けて立つとばかりにやる気を見せている。
(止めないと……)
虚空に手を伸ばしてクロディオの胸元を掴んだ天使は、そのまま身体を覆い隠すマントからひょっこり顔を覗かせる。
その後、身体を反らせた。
そして彼を見上げ、懇願する。
「ペガサスを、虐めないで」
「俺の所有物を奪おうとする輩に制裁を加えることの、何が悪い」
苛立ちを隠せぬ様子で天使を見下した辺境伯の口から紡がれた内容を耳にしたセロンは、不思議そうに問いかけた。
「わたしは、あなたのもの?」
「そうだ」
天使は何度も、その言葉を脳裏で反芻する。
(道具扱いされるのは、やっぱり、悲しい……)
セロンはクロディオの胸元から手を離すと、悲しそうに目を伏せた。
このまま彼を見上げ続けていれば、泣き顔を見られてしまうと危惧したからだろう。
(泣いたって、何も解決しない……)
天使は必死に唇を噛み締め、潤んだ瞳から涙がこぼれ落ちないように耐え続けた。
『こんな奴、やっぱりセロンの伴侶にはふさわしくないよ』
「でも……」
そんな少女の姿を目にしたペガサスは、クロディオに敵意を向ける。
「わたし、あなた達が争う姿……。見たくない……」
セロンが独り言を口にしたと、勘違いしているのだろう。
辺境伯はセロンに訝しげな視線を送ると、天使に問いかける。
「なんと言っているんだ」
「あなたと一緒に、いるべきではないって……」
「黙れ」
神馬の伝えたい言葉を耳にした彼は、大剣を握る手に力を込めた。
(このままじゃ、駄目だ……)
1人と1匹の睨み合いは、今もなお続いている。
このまま放置し続ければ、いつかは争いに発展するだろう。
「剣を、収めて」
「俺よりも、神の使いを選ぶのか」
「まだ、考え中……」
「いつかはこいつの誘いを受け、天界へ飛び立つのなら――生かしてはおけん」
怒りを露わにしたクロディオは、本気で神馬を傷つけようとしている。
(それだけは、絶対駄目……)
ペガサスは神の使いだ。
天使を傷つけ苦しめるのと同じくらいに、罪が重い。
クロディオがいだくく獣に対する敵意を落ち着かせるため、セロンは彼の背中に両腕を回した。




