戦場の天使(クロディオ)
「くそ……っ!」
――ここは、戦地のど真ん中。
劣勢に追い込まれたパロニード辺境伯の騎士団達の誰もが、死を覚悟した時――上空から勢いよく飛来してくる、謎の人物が現れた。
「おい! なんだ? あれは……!」
「こっちに向かってくるぞ!」
勝利を確信した敵国の騎士達が口々に囁き合う姿を目にした男――パロニード辺境伯騎士団の指揮を取るクロディオは、最後の力を振り絞って剣を振るう。
そうして、敵を屠っている最中……。
――背中に美しい翼を生やした1人の少女が、戦地に降り立った。
「な……っ! 聖女天使だと!?」
敵国の騎士が彼女を役職名で呼んだのが気に食わないのか。
絹糸のように光り輝く銀髪を腰元まで長く伸ばし、生気の灯らない女性らしい桃色の瞳を不愉快そうに歪める。
「わたしを捨てた国など、滅びてしまえばいい……」
天使は苦虫を噛み潰した表情で吐き捨てると、両翼を勢いよく羽ばたかせた。
「やめろ……!」
それが聖なる加護を授ける合図だと知っていたクロディオは、力いっぱい叫び声を上げて、それを阻止しようと試みた。
しかし――。
「わたしの敵は、あなたじゃない……」
苦しそうにか細い声で告げた少女は、その静止を聞かず――自らの力を、解放した。
(何が、起きている……?)
クロディオは呆然と目を見開き、天使に訝しげな視線を向ける。
――彼はよく、知っていた。
たとえ信じられない出来事に直面したとしても、戦場で長時間我を失うなどあり得ないと。
(彼女に気を取られている場合ではない。これは、最後のチャンスだ……)
1人でも多くの生存者を残すためにも。
騎士団の指揮を取る者として――クロディオは真っ先に剣を振るう必要があった。
「感謝する」
男の謝辞に、彼女は何も答えなかった。
感情の籠もらぬ瞳でその場に留まり続ける天使が何を考えているのかなど、クロディオには知る由もない。
(一つ、確かなことがあるとすれば――)
敵国の出身と思われる聖女天使が、彼らの味方であることだけだ。
「パロニード辺境伯騎士団に告ぐ! 総員、突撃! 聖女天使の加護を、無駄にするな!」
「うぉおおおお!」
彼女の聖なる力を受け取ったクロディオ達騎士団の面々は、先程まで地面に突っ伏していたのが嘘のように力を漲らせると――敵を退けた。
「か、勝った……」
誰かが呆然と呟いた瞬間、騎士達は抱き合い泣き叫ぶ。
「うおおお!」
「俺達、生きてるよ……!」
「聖女天使、万歳!」
喜びを噛みしめる部下達の姿を目にした彼は、尻尾を巻いて逃げ出した敵陣の去りゆく姿を見送り――安全が確認されたあと、ようやくその場に佇んでいた少女に視線を移す。
(疑問は尽きないが……。こんなところで質問責めにしても、いいものなのか……)
ルユメール王国で生まれた聖女天使は、本来であれば神殿で厳重に管理される。
神聖なる存在だ。
ロセアガンム国出身のクロディオが気軽に話しかけられるような存在ではなかったのだが……。
(このまま彼女を置き去りにするわけにも、いかんだろう……)
辺境伯は四方八方から攻撃を受ける、危険な戦地のど真ん中だからだ。
(聖女天使を傷つけ、神に恨まれても困るからな……)
彼は失礼を承知の上、重い口開く。
「なぜ、敵に塩を送るような真似を……」
彼女はクロディオの疑問には、答えなかった。
ガラス玉のような感情の読み取れない桃色の瞳を彼に向けると、こてりと首を傾げて告げた。
「あなたはわたしを、必要としてくれる?」
天使の奥底から純粋に沸き起こった問いかけを耳にして、どう答えるか悩む。
(彼女達は、誰もが喉から手が出るほど欲しがる宝石だ)
神に愛されし愛し子の住まう地は、永遠の富と平和を約束される。
(どのような理由で人里まで降りてきたのかはわからんが――)
パロニード騎士団は、天使の加護がなければ壊滅状態に追い込まれていたのだ。
彼らにとって彼女は、いわば命の恩人。
無下に扱うなど、許されない。
「君が俺達に、勝利を齎してくれるのなら」
クロディオの返答を耳にした天使はコクリと小さく頷き、鈴の音が鳴るような美しい声を響かせた。
「――あなたと、一緒に生きたい」
先程まで物言わぬ骸のように淀んだ瞳をしていた彼女は、いつの間にかその目に強い意志を宿らせる。
(彼女はなぜ、俺を頼る……?)
天使と今日初めて出会ったばかりのクロディオは、彼女の考えていることなどさっぱり理解できなかったが――。
目の前にいるのが、得体の知れない化物であったとしても……。
クロディオの答えは決まっていた。
「君がルユメール王国に、強い恨みを持っているのなら――俺は、君を信じる」
彼は差し出された小さな手に、自らの指先を絡め合う。
離れないように、強く。
「やった」
彼女は無表情のまま嬉しそうな声音で言葉を紡ぐと、繋いだ指先に力を込めて握り返す。
その後、背中の翼を消失させた。
(聖女天使の羽は、自由自在に出し入れができるのか……)
クロディオは物珍しそうな視線を、彼女に向ける。
(たとえどれほど神聖なる存在だと崇められていたとしても、所詮は背中から翼を生やし、聖なる力が使えるだけの少女か……)
辺境伯は天使が普通の人間となんら代わりのないか弱き存在だと認識し、心の中で彼女に対する庇護欲が芽吹くのを感じる。
(俺が、守らなければ……)
残忍酷薄な辺境伯と呼ばれる彼はたとえ女子どもが目の前で酷い目に遭っていようが、気分が乗らなければ見殺しにするような人間だった。
(美しい声と可憐な容姿に、惑わされている場合ではない)
脳裏に過った自分のものとは思えぬ思考を打ち消し、固い表情で天使を見下す。
その後――重たい口を開く。
「俺の名は、クロディオ。年齢は18。パロニード辺境伯の当主だ」
「わたし、セロン。多分……15歳、くらい。これから、よろしく」
彼女は家名を名乗らぬまま、自らの年齢さえも正しく認識できているか怪しいと言わんばかりのおっとりとした口ぶりとともに、真顔で挨拶をした。
(首が痛いな……)
その様子をじっと観察していたクロディオは、2人の身長差が40cm近いせいか。
彼女と目を合わせると、身を屈めるか見下すしかないと気づく。
(手を繋いだのは、失敗だった。身体に負担がかかる……)
表情筋が死んでいるセロンの一投足をいちいち首を痛めてまで確認するのは面倒だ。
クロディオは彼女の手を離し、天使を軽々と抱き上げた。
「このほうが、歩きやすい」
「わたしも、楽ちん……」
セロンは一瞬驚きで、目を見開いたが……。
彼に身体を預けていれば、すぐさま自分の脚で歩かなくて済むと考え直したのだろう。
彼女は気持ちよさそうにゆっくりと目を瞑った。
(まるで、猫のようだな……)
自らの腕の中で身を丸めて眠る天使の姿を目にした辺境伯は、セロンが野良猫に見えて仕方がない。
「辺境伯!」
クロディオが彼女を慈しむような視線を向けた直後――己を後方から呼び止める者が現れた。
騎士団を代表して部下が、今後の指示を仰ぎにきたのだろう。
「よく耐えたな。ゆっくり、身体を休めろ」
「はい……?」
1に訓練、2に鍛錬。3に僅かな休息、4に戦争――。
いつだって彼らに休む暇を与えなかった残忍酷薄な辺境伯が、部下達に向け労りの言葉を口にしたのだ。
当然騎士は驚き、聞き返す。
「俺は彼女と、先に戻る」
「へ、辺境伯!?」
クロディオは同じ内容を二度も命じるほど、心優しくはない。
辺境伯は部下の呼び止める声を無視すると、自らの治める領地へ戻った。