第六話 雨宮雛子【三】
とうとう、雛子と無口な青年との二人っきりになってしまった。
四人から二人となり、また一段と場が広くなったような気がする。最初から殺風景な場所だったが、人がいなくなっていく度にこうも心細くなるものなのか。昔、母に怒られて押し入れの中に閉じ込められた経験があるが、これはその比ではない。少しでもこの場所にいたら発狂してしまいそうだった。
いや、むしろいっそのこと、発狂してしまった方が楽になれるのではないだろうか。檻からは出られず、だれかが助けに来る兆しもなく、いつ殺されるとも知れない恐怖に耐え続けなければならないなんて、頭がどうにかなってしまいそうだ。
せめて、気が紛れるものがあれば。壊れてしまう前に、だれかとなんでもいいから話ができたら。
そう思い、雛子はちらっと隣りにいる青年の姿を見やる。
正直、知らない男性(しかもお互いに裸)に話しかけるのは躊躇うものがあったが、、背に腹は代えられない。それに運ばれてしまった二人に比べれば、落ち着いて話ができそうだ。
「あ、あの……」
少々声を震わせながらも、雛子は思い切って隣りにいる青年に声をかけてみた。
「あなたは、怖くないんですか……?」
「…………」
雛子の質問に、男はなにも答えなかった。それどころかこちらに目もくれず、以前として瞑目したままだった。
ひょっとして、聞こえなかったのだろうか。声も少し嗄れているし、聞き取り辛かったのかもしれない。
そう考えて、今度は発声に注意しつつ、
「わたしは、すごく怖いです。怖くて怖くて仕方がないです。突然知らない人に誘拐されて、地下室みたいなところに連れて行かれたと思ったら、次はこんなところに監禁されて。この先どうなってしまうのか、運ばれていった人がどうなってしまったのか、考えただけで体の震えが止まりません。あなたはどうですか? なんだか平気そうにしていますけど、怖くはないんですか?」
「…………」
と、再度問いかけてみるも、やはり青年は閉口したままだった。今度こそ聞こえなかったはずはないと思うので、意図的に無視したのだろう。勇気を振り絞って話しかけただけに、落胆は大きかった。
子供である自分なんかと話すつもりはないということなのだろうか。まあ、今さらなにを話したところで助かる見込みが生まれるわけでもないのだが、けれど、せめて相槌くらいは打ってくれても罰は当たらないのに。
「私は」
などと、内心不満に思ったその時、不意に隣りから声が聞こえてきた。
「私は覚悟の上でここにいます。恐怖など、元より皆無です」
「…………、え?」
てっきり返事してこないものとばかり思っていたので、雛子は一瞬遅れて反応してしまった。
一応身を丸めて大事な部分を隠しつつ、おずおずと隣りに視線を向けてみるも、青年はまっすぐ正面──つまり扉がある方に体を向けていて、こちらに話しかけてきたような様子はまったく見受けられなかった。
だが、あれは聞き間違いなどではなかった。どういった意味で「覚悟」と口にしたのかはわからないが、確かにこの青年は雛子の言葉に答えてくれたのだ。ただそれだけの事実が、雛子にとっては嬉しく思えた。
そういえば、人と話すのってどれくらいぶりなんだろう……。
日数で言えば、まだ一週間と経っていないはずだ。なのに、なぜだか遠い昔のように思える。最後に話したのはだれとだったっけ。いつもは気にもしないその記憶が、どうしても霧がかったように曖昧模糊としていて、すごく悲しい。
いや、感傷に浸るのはまた後にしよう。せっかく言葉を返してくれたのだ。いま一つ青年の心情が読めないが、会話をしてくれるつもりがあるのなら、雛子としてもありがたい。ほんの少しだけでも、人と話しているだけで気が紛れるのだから。
「えっと……。それはどういう意味なんでしょうか?」
横目で青年を窺いつつ、そう問いかける。
そしてまた、少しの時間を置いて、
「そのままの意味です。深い意味はありません」
と、どこか達観したように青年は答える。
「私のすべては来見お嬢さまの物。来見お嬢さまのためならば、私はどんなことでも叶える所存です」
「…………?」
やはり、言葉の意味がわからない。というか、来見お嬢さまとはだれのことなのだろう。話を聞く分には、来見お嬢さまとやらにいたく心酔しているようだが、詰まるところ、その来見お嬢さまという人のためにここにいるということなのだろうか? たとえば件の来見お嬢さまが人質に取られていて、復讐かなにかで犯人の言いなりになっているとか。
いや、それは飛躍し過ぎか。もしも犯人の言いなりになっているのなら、もっと人質の安否を気にするはずだ。だと言うのに、まるで取り乱した様子もない。いくらなんでも不自然過ぎる。
なにか、雛子には窺い知れない事情があったりするのだろうか。譜面通りに受け取るならば、恋愛感情とも言えない気もするが、果たしてどうなのだろう。小学生とはいえ雛子も女の子なので、恋愛に対して並々ならぬ興味はあるが、所詮他人でしかない自分がそんな下世話なことを訊いていいのか、どうにも戸惑うものがあった。
なんて、このまま会話を続けていいものなのか逡巡していると、
「だから」
と予想に反して、青年が先を繋いだ。
「来見お嬢さまが犬になれと仰るなら、私は喜んで犬になります。椅子になれと仰るなら、私は喜んで椅子になります。死ねと仰るなら、私は喜んで死にます。私の存在価値は、来見お嬢さまのためだけにあるのです」
死。
そのワードに、雛子はぞっと血の気を引かせた。
つまりそれは、この先死ぬとわかっていて尚、この青年は喜んでここにいると──そう言っているのだろうか。
青年の言う来見お嬢さまとやらの命令で、刃向かうこともせず、それも嬉々として。
そんなもの、どう考えたって狂っている。異常だ。雛子を誘拐した犯人たちと同じくらい、どうしようもなく壊れている。
この青年も、自分と同じ被害者だと思っていたのに。同じ辛さを共有できる仲間の一人だと思っていたのに。
でもこの青年も、異常者の一人でしかなかった。仲間なんて、雛子の思い込みでしかなかったのだ。
もう青年と話す気にはなれなかった。それは向こうも同じようで、再び口を開くことはなかったのだが、ここに来て完全に心が折れてしまった。
ここにはもう、狂った人間しかいない。執事服の男に連れて行かれた二人も、誘拐犯たちに殺されて胃の中に入っているに違いないのだ。まともな人間なんて、きっと雛子以外にだれもいない。
別段、隣りにいる青年が今にも襲ってくるわけでもない。というより、檻の中に閉じ込められているので襲いようがないのだが、この青年の狂気とも言うべき思想に触れてしまい、目に入るすべてが恐ろしいものにしか映らないようになっていた。
いつまでこんな狂った世界にいなければならない。いつになったら解放される。一体どれだけ耐え続ければ……。
その時、突然ギイィィと扉が開き始めた。三人目の犠牲者を連れに来たのだ。
もはや、執事服の男の姿を直視することはできなかった。ぎゅっと瞼を閉じて、顔を俯かせる。
靴音は聞こえないが、だれかが近づいてくるのだけは気配だけで察した。距離的にはまだ隣りにいる青年か雛子の元に向かっているかはわからないが、どちらかが連れて行かれるのは確実だ。換言すれば、青年が死ぬか雛子が死ぬか、その二択しか残されていていない。
青年か、雛子か。
数分ともせず、その結果がわかる。
体が極寒の地にでもいるかのようにガタガタと震える。心臓が突き出そうなほど脈打つ。そのせいか呼吸が上手くできず、息苦しい。
やがて、ガシャガシャと鉄格子が鳴るような音が鼓膜に響いた。
選ばれたのは──青年の方だった。
そのことに気付き、そっと薄目を開けて隣りを覗いてみると、執事服の男が檻を動かす順番をしていた。その間、青年はなんら抵抗する様子を見せない。さながら斬首刑を粛々と受けようとしている武士のごとく、毅然と檻の中で座していた。
まるで、それが自分の天命だと言わんばかりに。
しばらくして、執事服の男は黙々と青年を運び始めた。
そして、互いに口を開くこともないまま、二人は監禁部屋から静かに出て行った。
それを密かに見送った後、雛子は体中の空気は排出するように深く吐息を漏らした。
助かった。どうにか生き延びることができた。自分は死なずに済んだのだ。
そう胸を撫で下ろすも、すぐにまた不安に駆られた。
確かに、今回は生き延びることはできた。だが、後はもうない。自分が最後になってしまった以上、次に執事服の男が来た時、すなわち雛子の死を意味する。
そう思い直した途端、先ほど止まったばかりの震えが再度襲ってきた。なにかに縋るように周りを見渡しても、ここにはもう、雛子しかいない。雛子以外だれもいないのだ。
突如、雛子は喉も裂けんばかりに泣き喚いた。
とっくに嗄れたはずの喉が、それでも声を絞り出そうと腹の底から咆哮を上げ続ける。
ここに来て、雛子はようやく理解した。だれもいなくなった薄暗い密室の中で、雛子一人だけ取り残される心細さを。狂いたくなるような寂寥感を。
人の気配がしなくなっただけで、こんなにも心が壊れそうになるなんて。青年と一緒にいた時よりも、段違いに恐怖を感じる。あれだけ彼の狂気に恐れていたのに、今ではあの青年でもいいからそばにいてほしいと願う自分がいた。昔はあれだけ人見知りだった自分が、知らない人でもいいから……誘拐犯たちでさえなければだれでもいいから一緒にいたいと切望するほどまでに。
一時置いて、すすり泣くような声だけが耳元に届いた。
それは、叫ぶのに疲れてすすり泣くことしかできなくなった自分の嗄れ果てた声だった。
しかしまだ涙は出るようで、次々と頬を濡らしては顎を伝って滴り落ちていく。それを拭うこともなく、雛子は抱き込んだ両膝に顔を埋めて嗚咽を漏らした。
こんなのあんまりだ。あんまり過ぎる。どうしてこんな酷い目に合わなければならないのだろう。なにも悪いことなんてしていないのに。決して善行ばかりしてきた人生ではなかったけれど、こんな仕打ちを受けるような覚えなんて微塵もないのに。
こんな絶望しかないところで、自分は一人で耐え続けなければならないのか。刻一刻と自分が死ぬ番を待ちながら。
もう嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。神さまでもなんでもいい。だれか助けて。早くここから出して。いつもの日常に帰して。
そうして、しばらく泣いている間のことだった。
カツ、カツ、カツ、という靴音のようなものが、不意に扉の奥から聞こえてきた。
執事服の男のものではない。あれが歩いている時は、こんな音はしなかった。音を立てるのを嫌うように、さながら忍者のごとく静々と歩いていたはずだった、
だったら、この靴音はだれのものなのか。
使用人か。はたまた誘拐犯たちの内の一人か。それとも……。
やがて、扉がゆっくりと開かれて──




