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第十二話 雨宮雛子【五】



 もうダメだ。ここでわたしは死んでしまうんだ。

 目の前のクローゼットの扉がゆっくり開かれた時、雛子はそう自分の死を覚悟した。

 そもそも、なぜ雛子がこんなところにいるのかというと、単純に人目を避けるためであった。当初の作戦通りに固定電話を探している最中、階下がにわかに騒がしくなってきたのを感じ、たまたま近くにあった当直室へと逃げ込んだのだった。運の良いことに鍵は開いていたし(そういえば、不思議なことに他の部屋もちょくちょく鍵がかかっていない時があった)、人目を忍ぶのにちょうど良かったのだ。

 そうして、しばしドアの隙間から様子を窺っていたのだが、通りから男女の話し声のようなものが聞こえてきて、慌てて雛子は奥に引っ込んだ。

 男女がここに来るとは限らない。単に近くを通りがかった可能性だってある。が、もしも雛子の脱走が露見し、自分を捕まえようとここまで来たのなら、この当直室だって捜索しようと考えるはずだ。そうなれば当然、雛子の身も危うくなる。このままなにもせず姿を晒していれば、なおさらに。

 どこかに身を隠さねば。体に巻いた真っ白のシーツを握りしめて、雛子は当直室を見渡す。

 幸いなるかな、隠れるところに困ることはなさそうだった。だが物陰とかではすぐに見つかってしまう。できたら全身を隠せるところがいい。

 それで最初に目に付いたのが、このクローゼットだった。他にもっと良い場所があったかもしれないが、話し声もだんだんと近寄って来ていたし、とっさに隠れるのにここぐらいしか思い付かなかった。

 そんなわけで慌ててクローゼットの中に隠れて、当直室に来ないことを切に願いながら息を潜めていたのだが、その願いも虚しく、ドアが開かれる音が雛子の耳に届いた。ぶるっと身震いしつつ、必死に身を丸めて気配を消すことに努めた。

 入室してきたのは、案の定近くの通路で会話をしていた男女のようで、一言二言言葉を交わした後、途端に静かになった。

 どうやら女は浴室の方に向かい、男は雛子がいるリビングに留まったようだった。なにぶんクローゼットの中に隠れていて外の様子は窺えないので、緊張と恐怖が全身に走る。バクバクと心臓が脈動する音だけでも、相手に気付かれてしまうのではないかと不安に押しつぶされそうになる。

 正直自分でも、クローゼットの中というのは安直過ぎたかとも思ったが、もうここに隠れてしまった以上、見つからないことを願うしか他なかった。

 少なくとも、すぐにクローゼットへと向かいはすまい。その間に打開策を──こんな追い込まれた状況で無事に逃げられるだけの策が浮かぶかどうかはわからないが、とにかく助かる方法を思い付かねない限り、雛子に未来はない。

 そう考え、必死に打開策を練ろうとしたところで──



 まっすぐ、クローゼットへと近付いてくる足音が聞こえてきた。



 まさか一直線にこちらへと向かってくると思わなかった雛子は、内心パニックを起こした。思わず悲鳴を上げかけて、口を塞いで無理やり息を呑み込む。

 どうしよう。どうしたらいい。一瞬刃向かってみるという案も頭を掠めたが、小学生の自分が大人相手に敵うはずもない。よしんば、ほんの少しだけでも隙が作れてその場から逃れられたとしても、まだ奥に一人仲間が控えている。そうなれば雛子は挟み撃ちにされ、高確率で捕まってしまうことだろう。どう考えても完全に詰んでいた。

 やがて十秒とかからず、足音がクローゼットの前で止まった。そして、キィィと金具が擦れるような音を立てて、目の前の扉がゆっくり開かれる。

 零れてくる光の束にぎゅっと瞼を閉じて、雛子は震える肩を抱いた。

 瞼の裏が真っ白に染まった。扉が完全に開かれた証拠だ。だが、その正面に立つ人物を直視する気にはなれない。瞼を開く勇気すら持てない。なにもしなければ、ただ捕まるだけだと言うのに。

 そんな雛子に対し、人影のようなものがわずかに動いたような気がした。いや、実際に動いている。その証拠に、明るかった瞼が急に暗くなった。さながら、雛子に覆いかぶさるかのように。

 悲鳴を上げることすら忘れて、溢れる涙と漏れ出る嗚咽とで身を硬直させていると──



「しー」



 と。

 どこかで聞いたことのある声が、耳元のそばで響いた。

「なるべく静かにしててね。まだ向こうに人がいるから」

 その声に、雛子は「え……?」と嗚咽を止めて、恐る恐る薄目を開けた。

 そこには誘拐犯が、鼻と鼻が触れ合いそうな距離で目の前にいた。その事実に、雛子は両面を見開いて驚愕する。

 誘拐犯がここにいるという時点ですでに驚きなのだが、それ以上にまたしても雛子を助けようとしているその行動が、不可思議に思えてならなかった。

 とりあえず雛子を捕まえる気はないようだが、本当にこの男は一体なにを考えているのだろうか。檻から出しただけでなく、こうして仲間を呼ぶこともなく雛子を庇おうとしている。まるで目的が見えない。

 油断はできないが、ひとまず危険はないと判断して胸を撫で下ろす。

「いいかい? 僕らが出ていくまで、ずっとここにいるんだよ。それで僕らが出て少し経ってから、周りに人がいないのを確認して、この部屋を出るんだ。でないと、いずれ夜勤の人間がここに来るだろうかね」

「ど、どう、して……?」

 声を極力抑えながら、雛子はずっと気になっていた疑問を投げかける。

「わ、わたしを助けるの……?」

 それは、誘拐しておきながらなぜ急にこんな真似をしているのかという疑問も言外に含んでいたのだが、そんな雛子の戸惑いを飄々と受け流すように、

「さあ。なんとなくかな?」

 と、誘拐犯は爽やかな笑顔を浮かべてそう答えた。

「まあ、それは一旦置いといて、この部屋から出たら三階の元いた場所に戻るんだ。あそこは調べ終わったところだし、空になった檻も片付けてあるから、しばらく人は来ないはずだよ。まさか逃げ出したところにまた戻るとは思わないだろうしね」

 つまり、盲点を突く作戦だね、と誘拐犯はにっこり微笑んで言う。

「それで今日一日はやり過ごせるはずだよ。その後のことはまた別途考えよう。大丈夫。僕もその内合流して一緒に考えるから。僕が絶対に助けてあげるからね」

 その言葉に、雛子はぽろぽろと瞳から大粒の涙を流した。

 なぜだろう。自分を誘拐した憎い相手であるはずなのに、説得力もなにもないはずなのに、「助けてあげる」と聞いただけで、胸の中に希望の光が灯った。

 あろうことか、誘拐犯から後光が差して見えるくらいに。

「月城さん。浴室の方にはおりませんでしたわ」

 と、女性と思われる声が奥の方から聞こえてきた。

「おっと。そろそろ閉めないとね。それじゃあ、手筈通りに」

 にこやかにそう告げて、誘拐犯は言葉通りクローゼットを閉める。

 その際、誘拐犯がはみ出したシーツをクローゼットの中に素早く押し込むのが見えた。どうやら、あれのせいで雛子がここにいるとバレてしまったらしい。こんな致命的なミスをしていたなんて、自分の愚鈍さが嫌になる。一歩間違えれば死に直結するような大失態になるところだった。

 自分のミスを恥じつつ、聞き耳を立てて誘拐犯ともう一人の動向を窺う。

「月城さんの方はどうでしたの?」

「一通り見てみましたが、リビングにはいなさそうですね」

「そうなんですの? ではキッチンの方でしょうか?」

「ああ、あそこなら戸棚がたくさんあって子供でも隠れられそうですよね。一緒に行ってみましょうか」

「そうですわね。すぐに見つかってくれたらいいのですけれど」

「そこは神様にでもお願いしておくしかないですね」

 二人の声が徐々に遠退いていく。会話にあった通り、キッチンへと向かったようだ。

 その後、誘拐犯とその仲間が当直室から出て行ったのは、しばらく経ってからのことだった。



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