第16話 空調のせい、だから…
朝の打ち合わせが終わった直後、オフィスの空調が止まった。
「……寒っ」
思わず口に出してしまった声に、周囲の同僚たちも同意のうなずきを見せる。
何人かが自席へ戻りながら上着を羽織りはじめる中、俺はひとまず自分の席に戻って膝を擦った。
背後から、足音が近づく。「カツーン、カツーン」と、ヒールの硬い音。
「……止まったわね、完全に」
御影先輩だった。
腕を組みながら、ほんのり震えるような仕草で肩をすくめている。
「急に止まりましたね。暖房」
「こういう時期がいちばん厄介なのよ。エアコンが冷房モードに切り替わるギリギリで、まだ“寒い”のよね……」
言いながら、御影先輩は自分のスカートの裾を軽く握った。足元の冷えが気になるらしい。
確かに、今日は風も強くて気温がぐっと下がっている。
「……先輩、上着持ってないんですか?」
「うちの秘書課のドレスコード、基本“ジャケット無し”だから。今日もブラウス一枚よ。さっきまで暑かったから」
見れば、確かに薄手のブラウスにひらりとした膝丈スカート。
そりゃ寒いだろうな……と思った瞬間、俺は自分の椅子に掛けてあったパーカーを手に取った。
「……よかったら、これ使ってください」
御影先輩が瞬時にこちらを見た。
「……は?」
「え、あの、寒いですよね? ブランケット無いですし……」
「……別に、借りなくても我慢できるけど」
そう言いながらも、御影先輩はちらっとパーカーに目をやった。
受け取るか、断るか、数秒だけ悩んで——
「……ありがとう」
意外と素直に受け取った。
*
御影先輩はパーカーを軽く振ってから、ゆっくりと袖を通した。
俺より少し小柄な体に、ゆったりしたサイズ感。袖が余って、手の甲まで隠れている。
「……ちょっと、大きいわね」
そう言いながらも、御影先輩はパーカーの前をそっと握って、きゅっと引き寄せた。
その動作がどこか子どもっぽく見えて、不覚にもどきっとした。
「すみません、男物なんで……。でも、そっちのがあったかいですよ」
「……ふん」
素直には頷かないけど、文句も言わなかった。
*
午後、昼食前に会議室での資料整理を手伝っていたときだった。
空調が復旧せず、部屋の中は冷えきっていた。
それでも作業は進めなきゃいけないから、二人して肩をすくめながら黙々とファイルを並べていた。
ふと横を見ると、御影先輩が俺のパーカーの袖を両手で握っていた。
「……先輩?」
「……なに?」
「いえ、その……やっぱ寒いんだなって」
「……別に。袖が長いだけ。持て余してるだけよ」
と言いつつ、手はそのまま離さない。
むしろ、指先をちょっとだけ袖の中に引っ込めていた。
その仕草が、なんというか——反則だった。
「……先輩、それ、ちょっとかわいいですよ」
「……っ、はあ!? かわいいって、なにがよ!!」
一瞬にして、顔が赤くなった。寒さのせいではなさそうだ。
「い、意味わかんないこと言わないでよ! ほら、作業、さっさと続けなさい!」
「はい、すみません……」
照れてる御影先輩を見て、俺も顔が熱くなるのを自覚した。
なんだこれ。
今日、距離感おかしい。
でも——悪くない。
*
作業が一段落して、御影先輩が時計を見た。
「……そろそろお昼ね。食堂行く?」
「はい。俺もお腹すきました」
二人で部屋を出ようとしたそのとき。
「……あ、ちょっと待って」
御影先輩が立ち止まり、パーカーの袖に手をかけた。
「これ、返すわ」
「まだ寒いですよ? もうちょっと着てていいですよ」
「……別に。これ以上甘えてたら、調子に乗りそうだから」
そう言いつつ、パーカーを脱いで俺に差し出す。
受け取ろうと手を伸ばした瞬間——
指先が、ふと重なった。
「あっ……」
一瞬だけ触れた、御影先輩の手はまだ少し冷たかった。
でも、それよりも——そのまま、手を引っ込めるまでの“間”が、やけに長かった気がした。
「……ほら、行くわよ」
先に歩き出した御影先輩の背中に、どことなく気まずさのような、照れのような雰囲気が漂っていた。
*
昼休憩の間に空調は復旧した。
職場が徐々に暖かくなっていく中で、さっきの出来事を何度も思い出していた。
パーカーの袖を握る手。
小さく怒鳴る声。
それでもどこか、うれしそうな表情。
御影先輩の“いつもと違う部分”が、今日は少しだけ多かった気がする。
でもたぶん——それは全部、
「……空調のせい、だから」
さっき、先輩がそう言ってた。
それは、照れ隠しの常套句。
でも俺は、ちょっとだけ信じてない。
*
その日一日、ほんの少しだけ、御影先輩が近く感じた。
それが勘違いでも、気のせいでも。
……いや、むしろそうじゃない気がしてる。
それもこれも、空調のせいにしておけばいい。
*
昼食を終えて戻るとき、同僚の一人がふと声をかけてきた。
「テシヲくん、あれって……御影さんにパーカー貸してたの?」
「あ、はい。寒そうだったんで……」
「へえ〜、なんか意外だな。御影さんってそういうの断りそうじゃない?」
「いや、まあ……そうですね。たまたまタイミングが合っただけで」
笑ってごまかす俺の隣で、御影先輩がぴたりと足を止めた。
「……何か問題でも?」
「い、いえっ、何でもないです!」
同僚が慌てて笑いながら逃げるように去っていく。
御影先輩はと言えば、口を真一文字に結んで、そっぽを向いたまま。
「……別に、感謝してるとかじゃないから」
「え?」
「あなたが勝手に貸してきただけ。私は仕方なく借りただけ。……それだけ」
言葉は相変わらずだけど、耳までほんのり赤い。
そんな背中を見ながら、俺は小さく息を吐いた。
本当は、ありがとうって言いたいんだろうな。
*
その日の帰り道。
更衣室でパーカーを手に取った瞬間、微かに香る柔らかい匂いがした。
御影先輩の……香水か、柔軟剤か。なんだかよく分からないけど、少しだけ胸がざわついた。
振り返ってみれば、今日は一日ずっとその空気の中にいた気がする。
なんでもない時間、なんでもない仕草。
それらの一つ一つが、なぜか忘れられない。
もしかしたら——ほんの少しだけ、今日の距離は近かったのかもしれない。
*
ふと、以前のことを思い出した。
同じように空調トラブルがあった日——
そのとき俺が差し出したカーディガンを、御影先輩は即座に断っていた。
「自分のことで精一杯なのに、他人にまで気を遣わないでよ」って。
あれから、何が変わったのかはわからない。
でも、少なくとも——今日の御影先輩は、あのときとは少し違って見えた。
*
一緒にいる時間が増えたからかもしれない。
それとも、俺の見方が変わっただけかもしれない。
でも、変わらないふりをして、変わっていくものってある。
御影先輩の“ツン”の奥にある何かを、少しだけ感じ取れた気がして——
俺は、なんだか妙にうれしかった。
*
そういえば、帰り際に彼女が言っていた。
「今日は、空調のせい。だから、特別じゃない」
……でも、俺にとってはちょっとだけ特別な一日だった。
その程度の誤差なら、覚えておいてもいいだろう。