第15話 御影先輩、やけに優しい日
「……顔色、悪いわよ」
朝、デスクに座るなりそう言われた。
御影先輩が、こっちをじっと見つめていた。腕を組んだまま、ほんの少し眉をひそめている。
「え? あ、そうですか?」
とぼけたつもりだったけど、声が妙にかすれていたせいで、即バレだった。
「……やっぱり。声も変。体調、悪いんじゃない?」
「いや、大丈夫ですよ。ちょっと寝不足なだけで」
「寝不足って、何時に寝たのよ」
「……3時、くらい?」
御影先輩の目が、静かに細くなる。
「あのね……そういうの、ちゃんと自分で管理しなさい。社会人でしょ?」
「はい、すみません……」
いつもなら、ここで怒られて終わり――のはずだった。
でも今日の御影先輩は、少し違った。
「……後で、温かいの淹れてくるわ。ほうじ茶でいい?」
「え?」
思わず顔を上げると、御影先輩はそっぽを向いたまま、そそくさと席に戻っていった。
ツンツンしてるようで、どこか優しい。そんな背中を、ぼんやり眺めていた。
──それから三十分後。
御影先輩が、静かに俺の席にやってきた。
手には社内備品のマグカップ。立ちのぼる湯気と、香ばしい香り。
「ほら、ほうじ茶。熱いから気をつけて」
「……ありがとうございます」
俺が受け取るとき、一瞬だけ指が触れた。思ったよりも、その手は冷たかった。
「……先輩のほうが冷えてません? 手、冷たいですよ」
「私は冷えても大丈夫なの。そういう体質だから」
そんな理屈あるのかな、と思いながらも、何も言えなかった。
御影先輩は何か言いたげにこちらを見ていたけど、結局何も言わずにそのまま自分の席に戻っていった。
*
昼休み。
いつものように、御影先輩は自席でお弁当を広げていた。
静かに箸を動かしながら、時折スマホをチェックしている。
そんな様子を遠目に見ながら、俺はコンビニのおにぎりをかじっていた。
「……それだけ?」
突然、御影先輩が声をかけてきた。
「え?」
「お昼、それだけなの? おにぎりとお茶?」
「いや、まあ……今日はちょっと食欲なくて」
「……そう」
それきり何も言わなかったけど、お弁当の蓋を閉じたあと、なぜか小さな個包装のチョコを1つ、俺の机に置いていった。
「……糖分、足りないと頭まわらないでしょ。集中できなかったら意味ないから」
照れ隠しなのか、すぐに背を向けて自席へ戻る。
その背中を見つめながら、そっとチョコを手に取った。
甘かった。けど、それ以上に、胸がじんわり温かくなった。
・
昼休み終了時。
小さくくしゃみをした瞬間、背後から気配がした。
「……はい、これ」
渡されたのは、グレーのブランケット。社内で仮眠用に使っている備品のやつ。
「これ、先輩のじゃ……?」
「使ってないから。返すときはちゃんと畳んでおいてよね。汚したら許さないから」
言い方はツンツンしてるけど、それでも俺のためにわざわざ持ってきてくれたことが、ちょっと嬉しかった。
*
午後。
熱はない。でも少しだけ頭がぼんやりしていた。
それでも、御影先輩は何も言わなかった。
さっきから何度か視線を感じていたけど、目が合うたびにすっと逸らされてしまう。
俺のほうも、なんとなく話しかけるタイミングを逃していた
*
終業チャイムが鳴る。
今日は定時で帰れる日だったけど、俺はまだ少し仕事が残っていた。
ふと顔を上げると、御影先輩がこっちを見ていた。
「まだ終わらないの?」
「あとちょっとで終わります。先輩は?」
「……私は、もう終わったわ」
その言い方には、どこか“待ってる”空気が混じっていた。
でも、それを確認する勇気がなかった。
「じゃあ、お先に失礼します」
そう言って、御影先輩は自席に戻った……ように見えた。
でも、それから五分後。
「まだ終わらないの?」
また来た。
「ええと、あと……三分ください」
「……はあ、わかった」
そっぽを向いて、小さくため息。
それでも、隣に立ったまま、俺の作業が終わるのを待っていた。
*
帰り道。
エレベーターを降り、ビルのエントランスまで来たところで、御影先輩が不意に立ち止まる。
「……少しは、感謝してくれてもいいのよ?」
「えっ」
「今日の私、いつもよりずっと優しいと思わない?」
たしかに、そうだった。
でもそれを口にした瞬間、きっと彼女は“ツン”を出してごまかす。
だから俺は、少しだけ間を置いて、言った。
「ありがとうございます。すごく助かりました」
御影先輩は、一瞬だけ固まったあと、目を逸らした。
「……べ、別に。そういうんじゃないのよ」
「いや、でも優しかったですよ。正直、ちょっとびっくりしました」
「うっさい……!」
*
駅へ向かう途中、空を見上げる御影先輩がぽつりと言った。
「……明日、雨らしいわよ」
「えっ、マジすか」
「天気予報くらい見なさいよ。ほら、アプリあるでしょ?」
「あるにはあるけど、あんまり開かないですね……」
「はあ……。ほんとに、もうちょっと自分に興味持ちなさいよ」
「それ、褒めてます?」
「褒めてない!」
そんな何気ない会話も、今日は少し楽しかった。
無理に繋ごうとしなくても、自然と交わせる言葉がある。
そういう時間が、なんだか嬉しかった。
そのあと、駅までの道を一緒に歩いた。
沈黙が続いたけど、嫌な空気じゃなかった。
駅に着く直前、信号待ちのタイミングで、御影先輩がぽつりと言った。
「……本当に、大丈夫?」
「え?」
「体調、悪いのに無理してない?」
「ああ……大丈夫ですよ。先輩のおかげで、なんか元気出ました」
そう言った瞬間、御影先輩は顔を背けた。
「……ふん、ならいいけど」
そして、声のトーンを少しだけ落として。
「……ちょっとだけ、心配したんだから」
それは、風に流されそうなくらい小さな声だった。
*
その“ちょっとだけ”が、どれくらいなのかは分からない。
けど俺の中では、きっとそれは“すごく”に等しい言葉だった。
御影先輩の“優しさ”は、気まぐれみたいに見えるときがある。
けど、そうじゃない。
たぶん、彼女なりにすごく考えて、勇気を出してくれてるんだと思う。
普段の言い方や態度がツンツンしてる分、ちょっとした気遣いが余計に心に刺さる。
言葉じゃなくて、行動で伝えてくれる人。
照れ隠しに怒鳴るくせに、隠しきれてない人。
そういうところが、俺は――
「……何、こっち見てニヤニヤしてんのよ」
「え? あ、いや……なんでもないです」
「……気持ち悪い」
そう言いながらも、御影先輩は俺と同じ方向の電車に乗った。
帰るタイミングなんていくらでもずらせたはずなのに。
同じ車両、同じドアの側。
並んで立つその距離が、今日はなぜか少し近かった。
*
電車に揺られながら、さっきの言葉を思い出す。
「……ちょっとだけ、心配したんだから」
あの小さな声。
本当に聞き取れたのかさえ怪しいほどだったけど、たしかに届いていた。
俺の中で、ちゃんと残っていた。
いつもより少しだけ、優しかった一日。
だけど、その“少し”が、たぶん一番嬉しかった。