第14話:あと一駅、だけど…
午前八時二十七分。
中央線のドア付近、揺れる車内。
朝のラッシュアワーという名の戦場に、私は巻き込まれていた。
「……なんで今日に限ってこんなに混んでるのよ……」
小声でつぶやいたその瞬間、斜め後ろからふと感じた気配に、心臓が跳ねた。
視線をやや横に動かすと、そこにいたのはテシヲさんだった。
「……っ」
一瞬で背筋がこわばる。
こんなタイミングで、しかもこの距離感で顔を合わせるなんて。
しかも彼は、いつもの白いカッターシャツの上に黒のジャケットを羽織っていて、なんだか妙に“大人っぽく”見える。それがまた腹立たしい。
「あの人、気づいてるのかしら……」
ちら、ともう一度横目で覗く。
……気づいてる。絶対。
だって、ほんの少しだけ顔がこっち向いてるもの。
いや、こっち“見てた”よね?今。絶対。
でも、私は気づかないふりをした。
その方が楽だから。
彼との距離は、あと拳一つ分くらい。
車内が揺れるたび、そのわずかな距離がどんどん詰まっていく。
「あの……ちょっと……っ」
人波に押されて背中が前に押され、私の肩がテシヲさんの腕に軽く触れた。
反射的に身体を引いたけれど、すぐに別の乗客のバッグが私の背中に押しつけられる。
「もう……!」
身動きが取れない。
視線は正面に固定したまま、それでも気になってしかたがない。
テシヲさんの腕。
さっきちょっとだけ触れたその感触が、思い出せてしまう。
……意外と、筋肉あるんだ。
いや、何を考えてるの私。
頭を振って意識を切り替えようとした、その瞬間――
「っ……あっ!」
急停車。
体がぐらりと揺れ、私はバランスを崩した。
とっさに右手を伸ばすと、そこには――テシヲさんの胸元。
「や、やだ……っ」
さらに最悪なことに、前傾姿勢になった私の胸元が、テシヲさんの腕に触れてしまう。
下着のライン、見えてないよね……?
咄嗟に身体を戻して姿勢を正したけど、さっきの接触の感触がまだ残ってる。
テシヲさんは、何も言わずに前を見ている。
その無言が……腹立つ。
なんなの、なんで黙ってるのよ!
ちょっとくらい、「大丈夫?」とか「ごめん」とか、言えないの?
それとも――
「……どんな感触でした?」
言ってから、我ながら信じられなかった。
なに言ってんの私!?
すぐに言い訳が口から飛び出す。
「ち、違いますっ、確認っていうか!……ほら、急ブレーキだったし……っ」
熱が顔中に広がってる。
耳の裏まで、ぽっぽと熱い。
恥ずかしさで消え入りそうなのに、彼は何も返さない。
……でも、少し笑ってた気がする。
ほんのちょっと、口元が動いたような……?
次の駅で、ドアが開いた。
私はすぐに降りた。
でも、心臓の音は全然落ち着かない。
歩き出すと、すぐ隣に彼の気配。
同じように降りていたらしい。
無言で並んで歩く数秒間。
なんだか、空気が……熱い。
近い距離。肩がかすかに触れて。
言葉はなくても、息遣いが伝わってくる。
「……っ」
もうダメだ、このままじゃ。
ちゃんと、言おう。
「……さっきは、ありがと。……助かったから。」
それだけ言って、私は視線を前に向けたまま歩き続けた。
でもきっと――耳は真っ赤だったと思う。
あと一駅。
ほんの数分の出来事。
……だけど、心臓の高鳴りは、会社に着いてもまだ、収まらなかった。