第13話 御影先輩、ビビって椅子から落ちた。
静まり返ったオフィスの空間に、キーボードを打つ音がカチカチと響いていた。
夜の十一時。ビルの上層階にある開発フロアは、ほとんどの社員がすでに退勤し、人工照明に照らされた空間には、今や一人だけ。御影の姿だけがあった。
「……っ、ん、もう……」
肩を回し、コリをほぐしながら軽く伸びをする。その動作一つで、ブラウスの胸元がふわりと動いたが、今この場所にはそれに気づく男など誰もいない。
「……なんで、あんなの見ちゃったんだろ……」
昨夜。何の気なしに再生してしまった、サムネイルだけは可愛げなホラー映画。どうせコメディ寄りだろうと甘く見たその内容は、思いのほか本格的で、ベッドに潜っても眠気が来るまでスマホを握りしめていたほどだった。
「まさか……出るわけないよね。うん、ここって結構人出入りあるし、清掃もされてるし……」
独り言が、心細さの裏返しであることに自分でも気づいている。でも止められない。
御影は眼鏡の位置を直して、もう一度画面へ目を戻す。
そのとき——
カツーン……カツーン……
廊下の奥から響く、金属的な足音。
「……っ!」
心臓が跳ねた。
外回りに出た誰かが戻ってきただけ。理屈では分かってる。だが、この無人の時間帯に響く音は、あの映画の亡霊そのものに思えて仕方がない。
(だ、誰か、来た? え……え、まさか、さっきの……!?)
怖い。でも、見たくない。でも、確かめないと気が済まない。
ガタッ——
御影は思わず立ち上がる。その動作が中途半端だったせいで、椅子の脚が引っかかり、タイミング悪くドアが開いたその瞬間、
「きゃっ!?」
背中を支えきれず、見事に椅子ごとひっくり返った。
「え!? だ、大丈夫ですかっ!?」
現れたのは、外回りから戻ってきたテシヲだった。
彼は驚きと焦りで駆け寄り、床に尻もちをついた御影を見下ろす。
「……っ!!」
スカートの裾がわずかに乱れ、ブラウスの胸元もわずかに開きかけたその姿。だが、それ以上に、御影の顔は赤い。怒りでも羞恥でもなく、恐怖の余韻が混じった複雑な赤み。
「て、テシヲさん!? な、な、なによ、いきなりぃ!」
「いや、こっちのセリフっすよ! いきなり椅子から落ちるとか……」
「ち、違っ……これはその、椅子が……ちょっと、滑っただけで……!」
「いやいや、悲鳴あげてたじゃないですか……」
テシヲは手を差し伸べるが、御影はワタワタと自分で立ち上がり、スカートのしわを手早く整えた。
「……別に、怖くなんてなかったんだからね!」
「……は?」
「び、びっくりしたのは、あんたの足音が変な響き方してたからで……その……」
御影は目を逸らす。頬の火照りがまだ引いていない。
「……あの、昨日……ちょっとだけ、ホラー映画見ちゃって……」
小声だった。まるで、恥ずかしさを押し殺すように。
テシヲは吹き出しそうになるのを堪えた。
「そっか。怖かったんすね、御影先輩」
「う、うるさいっ……言ったら殺すから……」
そんな脅し文句さえ、耳が赤いせいでまるで効いていない。
そのまま気まずい空気が流れる中、御影はそそくさと席に戻る。
パチッ、パチッと数回キーボードを叩く。
「……んんっ、はい、終わり!」
明らかに強引なテンションで作業をまとめに入った。
「え、終わってないんじゃ……?」
「いいの! 終わったの!!」
ツンの中に何かを振り切るような勢いが混じっている。
「……あのさ」
御影が鞄を手に取り、扉の前で振り返らずに言った。
「今日は、その……一緒に、帰ってくれない?」
その声は微かに震えていた。さっきまでの強がりとはまるで違う。
「え、マジっすか。先輩から誘うとか、珍し……」
「い、いいから!! ……つべこべ言わずに、来て!!」
頬を赤くしたまま、足早にエレベーターへ向かう御影。
それを追うテシヲの口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
──オフィスの自動ドアが閉まると、二人の間に一瞬の沈黙が落ちた。
肩が触れるか触れないかの距離。
カツン……カツン……と、御影のヒールが夜の歩道に響く。
「……さっきのは、忘れて」
「え?」
「……なんでもないっ!」
ほんの少しだけ速くなった足取りを、テシヲは笑いながら追いかけた。