第10話 御影、冷静さを失う午後。
備品倉庫の扉が閉まった瞬間、電子ロックの「ピッ」という音が小さく鳴った。
「……え?」
御影はわずかに眉をひそめ、振り返った。扉の前には、まだテシヲが立っていた。手にはカードキー。だが、扉は開かない。
「……あれ? ちょっと、反応しないですね」
彼がカードをかざす音がまた「ピッ」と鳴る。だがロックは解除されない。
(ちょっと待って。こういうの、ドラマの中だけにしてくれない?)
御影は腕を組み、ゆっくりと息を吐いた。
「それ、ちゃんと挿してるんですか?」
「いや、挿すんじゃなくて、かざすタイプで……」
「知ってます」
睨むように言い返す。だがテシヲは慌てる風でもなく、「あはは」と笑ってカードキーを何度もかざしている。
(最悪。なんで“こいつ”と、こんな密室に……)
場所は社内の備品倉庫。壁際には古いPCや季節家電、文房具が詰まった段ボールが積まれていて、人ひとり通るのがやっとのスペースしかない。
当然、椅子もなければ窓もない。スマホを取り出すが――圏外。
(はぁ……)
溜息をつく。午後一番の備品を取りに来ただけのはずだった。ついてくると言ったのは彼の方だ。なのに今、なぜかこの状況の責任まで押し付けられそうで腹立たしい。
「御影先輩、ちょっと……暑くないっすか?」
「うるさいです。黙っててください」
彼はジャケットを脱ぎ、さらにシャツのボタンに手をかける。
(待って。何してんのよ)
思わず視線を逸らす。
「ちょ、ちょっと。脱ぐなら、背中向けてください」
「え? あ、ごめん……いや、シャツは脱がないですけど」
「そういう問題じゃなくて……!」
声が裏返りそうになって、慌てて咳払いでごまかす。
(落ち着いて。こっちは冷静。冷静……冷静なはず)
でも意識するなという方が無理だった。狭い空間。立っているだけで腕が触れそうな距離。
しかも、なんかちょっと……いい匂いするし。
(……ちょっとだけ。ほんの少しだけ、こういうのも……嫌いじゃない、かも)
一歩だけ距離を取ろうとした瞬間、後ろの棚にヒールが引っかかって、軽くバランスを崩した。
「うわっ――」
とっさに伸びた腕が支えてくる。肩に手が触れた。そして――おでこが、ごつん。
「いって……」
「……っ!」
沈黙。顔が近い。
テシヲが「す、すみません!」と一歩引く。御影も顔を背けたまま、耳まで真っ赤になっているのを自覚していた。
「……あと3センチ近づいてたら、殺してました」
「ヒィ……ごめんなさい」
(バカ。なんでちょっとドキドキしてんのよ)
数分後、外から声が聞こえ、ようやくドアが開いた。
「すみません!ロック不具合みたいで……」
清掃スタッフらしき人が平謝りしている。その背後で、テシヲはほっとした顔で笑っていた。
御影は、最後に一言だけ言い放った。
「……今日のことは全部、なかったことにしますから」
「え?」
「全部、です。何一つ、覚えてなくていいです。じゃ」
背中を向けて歩き出す。でも胸の鼓動は早いまま。
(忘れてくれなくても、いいけど。……ほんと、バカ)
そして――
廊下の突き当たりで、御影は小さく立ち止まる。
誰も見ていないことを確認してから、そっと頬に手を当てた。
(……こんなに顔、熱くなるなんて。ほんと、冷静じゃない)
彼女の頬は、真っ赤に染まっていた。