第9話 御影先輩 冷たい…
朝の通勤路。スマホを見るふりをしながら、御影はふっと足を止めた。
目の前を歩いていたテシヲの背中が建物の角に消える。見えなくなったのを確認して、ひとつため息をついた。
(……バカじゃないの)
誰に向けたわけでもない呟き。
だけどその言葉には、苛立ちよりも呆れと、少しの照れが滲んでいた。
昨日の帰り。エレベーターでふたりきりになったときのことを、何度も思い出してしまう。
彼が妙に近かった。
無理に話しかけようとして、詰めてきて、距離が――近すぎた。
(……事故、だったとしても)
でも、普通あの距離になる? 詰めすぎでしょ。
肩なんて、普通触れる? というか、触れたわよね。絶対。
思い出すだけで、耳がじんわり熱くなる。
しかもその前後で、彼が佐倉さんと楽しそうに話しているのを、二日連続で見ている。
別に、何かあったわけじゃないけど、見ればそれなりに気にはなる。
(……別に、怒ってないけど?)
そう、言った。
でも。怒ってるって、言ってほしかったのかもしれない。
わかってほしかった。
理由は、自分でもわからないけど――ただ、そういう顔をしていてほしかった。
「おはようございます、御影先輩」
ビルの前で、彼が立っていた。
あ、と小さく声を漏らしそうになるのをこらえる。
手に紙袋を持っている。それを少し照れたように差し出してきた。
「昨日のこと……その……えっと、ちょっと、アレだったんで……」
アレって何よ、と思いながらも、言葉を待つ。
「……ごめんなさい。これ、よかったら」
渡された紙袋には、小さなケーキショップのロゴが印刷されていた。
知っている。職場の近くではそこそこ評判のスイーツ店。
……ふーん。
「……何のつもりですか? こういうの渡せば、機嫌直るって思ったんですか?」
顔は真顔で返す。でも、心の中では思わずニヤつきそうになっていた。
(覚えてたのね。ちゃんと)
彼が慌てて手をぶんぶん振る。
「ち、違います!そういうんじゃなくて、いやそういう気持ちもあるというか……とにかく、ごめんなさいっていう――気持ち!」
なにそれ、と口には出さない。
(……言い訳はいつも下手くそ)
でも、ちゃんと謝ってくれるのは悪い気がしない。
無言で紙袋を受け取る。中身は見ない。
「一応、受け取っておきます。でも、これで許されるなんて思わないでくださいね」
「そ、そうですよね、うん……」
彼が情けない顔で笑った。
(……そうやって笑っていられるの、今のうちだけですから)
*
午前中、デスクワーク。
目の前の書類には、たいして集中できていない。
引き出しにしまったスイーツが気になる。
(保冷パック……入ってた。しかもちゃんと凍ってるやつ)
本当に“冷やして食べる前提”で買ってきたらしい。
(……なんか、そこだけ気が利いてるの、ほんとに腹立つ)
さっさと許してやってもいいかな、と思った次の瞬間。
「御影さーん、これ、チェックお願いします」
彼の声。いつもより微妙に遠い。
振り返ると、書類を持ったテシヲが、なぜか一歩分くらい距離をとって立っていた。
(あー……意識してる。昨日の距離のこと、気にしてる)
思わず口角が動きそうになって、慌てて表情を引き締める。
「……別に、避けなくていいんですけど? 仕事なんですから」
「い、いや、うん……ですよね」
(そう。そういう素直な反応してれば、最初から怒ってないわよ)
でもそうは言わない。
まだちょっと、拗ねていたい。
*
昼休み。
冷蔵庫にスイーツを入れようと休憩室へ行くと、タイミング悪く、彼がいた。
「あっ、先輩もお昼?」
声をかけられても、無視。
黙って冷蔵庫を開けて、そっと箱を入れる。
彼の視線を背中に感じる。視られてると分かると、むしろ冷静になれる。
「……ぬるいガトーショコラなんて、食べられませんから。
冷やすの、常識です」
「あ、はい。うん、わかってました」
「わかってて買ってきたなら、まあ、ギリギリ評価しますけど」
そう言って、顔を見ずに冷蔵庫を閉める。
彼はぽかんとしたまま立ち尽くしていた。
(言いたいことがあるなら、言いなさいよ。
言ってくれたら、許すかもしれないのに)
でも、彼は何も言わず、ただ頷くだけだった。
*
夕方。
(食べるなら、今日中が賞味期限よね)
引き出しから箱を取り出し、そっと紙を一枚ちぎる。
文字を書くペンを持った手が、ちょっとだけ震えていた。
《冷やしてから食べてください。
……それでも許すとは言ってませんけど?》
書いた瞬間、顔が熱くなる。
何これ。
書く必要あった?
バカみたい。いや、あの人がバカなんだから、いいか。
「……はあ」
大きく息を吐いて、モニターの下にそっとそれを置いた。
帰り際、すれ違った彼に何も言わず会釈だけしてエレベーターへ向かう。
その背中に、何か声をかけられる気がした。
でも、振り向かなかった。
(……どうせ、またバカなこと言うに決まってるんだから)
静かに閉まる扉の中で、髪を耳にかける。
ほんのり赤くなった顔を誰にも見られないように。
(冷やしたいのは……私の方かもしれない)
目を閉じて、そっと笑った。
⸻