2.クロスプリンド街道にて
現在――
風が巡る国ヴェルナリア王国
クロスプリンド街道 ヴェルナ森緑帯前
「くそッ、なんでこんな強い魔獣がッ!」
赤髪の若い剣士が愚痴をこぼしながら剣を構え直す。
彼の目の前にいるのは、血染め爪グリズリーと呼ばれる熊の魔獣だ。
突如現れた、血のように赤い凶悪な爪を持つその大熊は、駆け出しの流旅行者が適う相手ではなかった。
「ホープスッ!」
「オレが囮になるッ! お前たち三人は、クラウズさんを護れッ!」
「でもッ!」
「でももクソもねぇッ! 護衛対象の命優先だろうがッ!」
ホープスの仲間だろう少女は、それでも何か言おうとするも口を噤み、小さく謝りながら依頼人の元へと向かっていく。
それを見送る余裕などなく、ホープスは血染め爪のグリズリーが振り下ろす腕を何とか躱した。
そのついでに一太刀浴びせるも、まるで鉄の鎧を切りつけたかのような堅い手応えだ。
ちゃんとした一撃を浴びせても、ホープスの腕と剣では傷つけるに至らないだろう。
(パワーも、スピードも、明らかにオレより上……)
それでも諦められないホープスは素早く間合いを取り、剣に内候力を乗せ――
「走牙刃ッ!」
剣の切っ先を地面で滑らせるようにしながら振り上げる。
内候力と剣圧と混ざり合い、衝撃波となって地面を削りながら滑り行く。
それの直撃を受けた時、血染め爪のグリズリーは動きを止めるも、ややして何事もなかったかのように歩き出した。
(毛皮か皮膚が硬い上に、熊の魔獣だから、間違いなくタフネスもある……)
その様子を伺いながら、ホープスの顔には不意に笑みが浮かんできた。
「ははっ……勝ち筋も逃げ筋も見えねぇな……」
それでも、仲間と依頼人は護りたい。
彼女たちが離れるだけの時間は稼ぎたい。
王都シュト・スプリンドと貿易都市クロス・コーサーを繋ぐこの長い街道。
距離はあるものの、比較的に安全であり、護衛仕事の初心者向けの街道と呼ばれている場所だ。
この街道はヴェルナ森緑帯の脇に通っている。
ヴェルナ森緑帯は非常に広域わたる森で、深部は未解明。とはいえ、浅いところは人の手による調査がされており、安全とされる。
森は深部に行くほどに手強い魔獣は増えるが、強い魔獣ほど森の外に近づいては来ない言われていた。
だというのに、森の外で血染め爪のグリズリーと遭遇するだなんて、誰が想定するというのか。
この魔獣は、上級の流旅行者に討伐依頼が出されるような存在だ。
護衛の仕事もそうだが、同時に――このことをシュト・スプリンドなりクロス・コーサーなりに伝える必要がある。
自分はきっと助からないだろう。
それでも、可能な限り時間を稼げば、それだけ被害を抑えられる可能性がある。
死にたくは無いが、覚悟は必要だ。
「グルルルルルル……」
「ふぅー……どこまで出来るかなんて、考えるだけ無駄だよな」
持てるチカラの全てを賭しても、きっとホープスではこの魔獣に適わない。
だけど、それでも――
「だからって、諦める気もないんだけどさッ!」
通じないと分かっていても何度も何度も走牙刃を放つ。
当たれば足を止めてくれるのだ。文字通り足止めくらいにはなる。
そう判断したのだが――
「くっそッ」
連発しているうちに、血染め爪のグリズリーは防御態勢を取らなくなった。どうやら防御しなくても大したダメージではないと判断したらしい。
当たっても気にしないかのように、ズンズンと間合いを詰めてくる。
だからといって抵抗しなわけにもいかない。
ホープスは、熊が自分の間合いに入ってくると同時に、攻撃を仕掛けた。
「熊爪斬ッ!」
熊相手に熊の名を関した武候技を使わざる得ないなんて、どんな皮肉なのだろうか。
胸中で毒づきながら、ホープスは内候力を込めた剣で逆袈裟ぎみの横薙ぎを放つ。
本来の刃のみならず、それに追随するように内候力によって作り出された二条の光刃が放たれる技だ。
力強い斬撃が三発同時に繰り出されるというホープスの手札の中では最高威力の技なのだが――
「傷一つ付かねぇのかよ……ッ!」
ホープスが呻いた時、血染め爪のグリズリーはその腕を乱暴に振り下ろす。
「ぐあぁぁ……ッ!」
咄嗟に身をよじるが、右肩に爪が掠った。
それだけで肉が抉れ鮮血が迸るだけでなく、腕力によって起きた衝撃波によって、ホープスは吹き飛ばされる。
「一撃で、これか……」
時間稼ぎもクソもない。
死ぬまでのカウントダウンは、もう十を切っていることだろう。
それでも――
「簡単にッ、行かせるかよ……ッ!」
右肩が痛くて持ち上がらない。
だが諦めないホープスは左手で剣を握って、血染め爪のグリズリーを睨み付ける。
最悪、熊がホープスを餌として食事を始めくれれば、自分が死んでも時間は稼げるはずだ。
ホープスがそう考えた、その時――
「その意気、悪くはないわね」
不意に、少女の声が聞こえた。
「え?」
彼の横を通りすぎて、血染め爪のグリズリーの前に立ちはだかったのは、黒髪の少女だ。
「お、おい……ッ!」
自分と同じか少し上。
十代後半だろう少女は、左手に鞘に納めたままの東方式長剣を携えて、血染め爪のグリズリーと睨み合う。
風に揺れるのは腰まで伸びた長い黒髪。
どこかの学校の制服を思わせる上着と膝丈スカート。
肘当てと膝当てという最低限の装備に、恐らくは鉄板が仕込まれているだろう流旅行者向けの無骨な編み上げブーツ。
だけど一番目を引くのは、鞘を握る左手だ。
彼女の装備の組み合わせを考えると、些か不格好な大きめのガントレット。その甲で輝く白い天候石は立派で、あれだけで貴族の屋敷ぐらいのものを庭ごと買えそうな希少品に見える。
「ねぇ、熊はこの一匹だけ?」
「あ、ああ……他には見てない」
「そ」
瞬間、少女の姿がブレて消えた。いや、ホープスの目にはそう見えただけだ。
実際は彼女は身を低くして地面を蹴った。それだけだ。
(疾い……ッ!)
ホープスがそう思った直後、少女は飛び上がり、その右膝で血染め爪のグリズリーの顎を蹴り上げた。
(単純な速さもそうだけど、内候力を練り上るのも速いッ!)
見た目には、長身なれど少女は少女。
その体躯では全体重を乗せようとも、血染め爪のグリズリーの顎をかちあげるなど不可能に近い。
それを可能にしているのが、内候力。それを用いて放たれる攻撃――武候技だ。
一見すればただの大道芸にも見える技も、内候力を用いて武候技へと昇華させていれば、立派な必殺技となる。
もっとも、武候技といえどもその性能は使い手次第。
ホープスが同じような膝蹴りをしたところで、血染め爪のグリズリーの顎をかちあげることは出来ないし、逆に膝当てもろとも膝が壊れかねない。
「虎昇連蹴牙」
そして、少女の技は、顎を蹴り上げるだけでは終わらない。
膝蹴りを放ちながら血染め爪のグリズリーよりも高く飛び上がり、蹴りを放った足を天へと真っ直ぐに伸ばすと、今度は落下の勢いを乗せて振り下ろし、カカト落としを繰り出した。
文字通り頭を凹ませる勢いで振り下ろされた少女の美脚に、本能的な危険を感じたのだろう。熊はその身を強引に捩ることで、頭へのダメージを避け、右肩が砕けるだけで済ませる。
着地した少女は、狙いが外れたことなど微塵も気にせず、すぐに右足に内候力を集めると熊へ向けて突き刺すような蹴りを繰り出した。
「閃洸蹴」
熊の腹部へと突き刺さったつま先から、強烈な光と衝撃波が放たれて熊を吹き飛ばす――かに見えた。
だが熊は転ぶことなく、地面を滑るだけで耐えきってみせる。
足下を見れば、熊の両足に沿ったような轍が二本作られていた。
僅かに遅れて、衝撃波で広がった少女の髪もはらりとゆれて落ち着いていく。
「すげぇ」
自分では傷一つ付けることが出来なかった血染め爪のグリズリー相手に、剣を抜かずに圧倒する少女。
そして、見るからに高威力の武候技を受けても、耐えきる血染め爪のグリズリー。
そのどちらに対してもホープスは賞賛する。
いずれ自分もたどり着きたいと思う憧れの領域。
そんな領域に既にいる、自分と同世代と思われる少女。
(……そういえば、恐ろしく強い黒髪の女流旅行者の噂があったな……)
ことここへ至って、ホープスの脳裏に噂が過ぎる。
「……ふつうの血染め爪よりも強いわね。頭もいいようだし。
もしかして、森緑帯の深部の方から出てきたの?」
探るように口にする少女。
だが、血染め爪のグリズリーはそれを答える術を持たない。
「まぁいいか。
蹴って倒せないだけなら、斬るだけよ」
告げて少女は、左手で握っていた剣の柄に、右手を翳した。
(ん? 抜かないのか……?)
ホープスが疑問に思った直後、最初の蹴りの時よりも速く、少女が動く。
(……そうか、思い出した……ッ!)
美しい黒い髪をたなびかせ、少女は熊の目の前まであっという間に詰めていき――
蹴り技を得意としている為『蹴り姫』とあだ名を付けられた女剣士。
冷めた態度で淡々と仕事をこなしていく姿から『冷姫』と呼ばれている女流旅行者。
黒髪と黒い双眸を持ちながら光属性の攻撃を得意とすることから『黒閃姫』とも称されている竜殺し。
それらの情報と、目の前の姿が、ホープスの中で一致する。
「肢閃抜刀・落首一迅」
――シャラァァァ……ンという音と共に、技の名前の通り、白刃が一閃……光って見えた。
だが、そう見えたと思えば抜かれた刃はすでに鞘へと戻っている。
血染め爪のグリズリーは身構えたままで、動かない。しかし、斬られた様子もない。
ホープスは、何が起きたかわからないでいると、少女はくるりと向き直り、こちらへと歩いていく。
ようやくちゃんと見た顔は、やや鼻は低いが眉目秀麗という言葉を体言しているかのようようだった。
クールで淡々とした雰囲気が、彼女の容姿を冷たく引き立てている。
「大丈夫?」
「あ、ああ……助かった」
少女は、はらりと前にこぼれてきた前髪を右手で軽くかきあげ耳にかけながら、訊ねてきた。
それにホープスがうなずいた時だ。
ゴトリと、音が聞こえた。
何事かと思って血染め爪のグリズリーの方を見れば、その頭が地面に落下した音だったようだ。
(いやまて、落下……なんで……)
遅れて、ぐらりと身体が傾いて地面に伏す。
(もしかして、さっきの技で斬っていたのか……?
熊自身が斬られたコトを理解してなかったのか……ッ!?)
彼女の背後に見える光景にホープスが驚いていることなど気にしてなどないかのように、傷用のポーションを手渡してくる。
「これ、使って」
「あ、ありがとう……助かる」
ホープスはそれを素直に受け取り、自分の肩に振りかけながら、改めて少女を見た。
ようやく、名前を思い出したホープスは、思わずそれを口にした。
「シグレ・トネザキ……」
「ええ、そうよ」
それを誰何と判断したのか、少女――シグレ・トネザキは気怠そうにうなずくのだった。
次話も準備が出来次第投稿します٩( 'ω' )و