存在意義
『妻が死んだ。コーヒーは泥水の味がするでもなくいつも通りに美味い。そんな自分が口惜しい』
決して広いとは言えない店内に、午後の日差しが差し込む。柱の脇で葉を茂らせているパキラは、太陽の光を受けてはしゃいでいる。
ひっそりと佇む街角のカフェには穏やかな時間が流れていた。
その片隅、窓際に置かれたテーブルには一冊のノートがある。罫線も引かれていないシンプルなものだが、訪れた客が自由に書き込めるささやかな交流の場となっていた。
誰でもSNSで簡単に繋がれる時代に、昔のゲームセンターに置かれていたようなコミュニケーションノートなど古臭いだけだ、と言う人間もいるだろう。
けれど、古臭くて野暮ったいノートが、氾濫する言葉に疲弊しながらも、誰かの声を求めずにはいられない人の癒しになると、ボクは信じている。
それこそがボクの、ノートの存在価値なんだと。
そう自分を納得させながらも、綴られた悲痛な言葉に何も返せないことがもどかしい。
時折店を訪れては、コーヒーとサンドイッチを頼んでいた男。彼は今日、初めてボクの表紙をめくった。それ自体は嬉しいことだったけれど、無力感は降り積もる。
ボクの真っ白なページは、何一つ彼の救いにはならないのだった。
それからも代わり映えのない日々が続いた、ある日。
今までに見たことのない女性の客が訪れた。
乱雑に化粧が落とされていて、少し充血した目をした彼女を、マスターはボクのいる席に案内する。
ボクはただの紙切れにすぎないけれど、不思議とボクを……いや、ボクを通した何かを必要とする人間が、この店に集まってくる。
紅茶とチョコレートケーキを注文した彼女は、待っている間、ぼうっと外を眺めていた。
ボクに手を付ける様子もなくて、少しがっかりする。
けれど、マスターがわざわざこの席に案内したのは、間違っていなかったようで。
彼女がケーキを食べ終えて、ティーポットに残った紅茶が全てカップに移された時、ついにボクに手が伸ばされた。
ぱらぱらと、いかにも手慰みといった様子でめくっていた彼女の手が、あるページで止まる。
乱雑な走り書きに、少し赤みがかった目が縫いとめられていた。
大きく空いた余白に、新たな文字が刻まれる。
『私は母が亡くなりました。でも、ここのチョコケーキは美味しかった。薄情かもしれないけどそれが生きてるってことなんだと思います。あなたの飲むコーヒーが、この先も温かくて美味しいものでありますように』
丸みを帯びた丹念な筆跡は、ぽっかりと開いたそのページの物寂しさを消し去った。
その翌日のこと。
偶然にも、あの日憔悴した様子で心の内を吐き出していった男が、再び現れた。
「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」
「いや、ここはいい店ですね」
顔を覚えられていたことに照れたのか、彼は頰を書きながらマスターの挨拶に応えた。
「ここでいつも流れてる曲が好きなんですよ。父の趣味と似ていて、幼い頃によく聞いていたものが多くて。今流れてるのも、ええと、何だったかな」
男は記憶を辿るように、ふっと宙へ視線を彷徨わせる。
「ああ、これはチープ・トリックの甘い罠ですね」
「そうだったそうだった」
この曲は、ボクも知っていた。かつてマスターが邦題について愚痴っていたのだ。
人から求められることを求め、『俺を必要としてくれ、俺を愛してくれ』と繰り返される歌詞は、甘い罠というにはあまりに切実だと。
懐かしげに微笑み、窓際の席に着いた彼は、久方ぶりにボクを手に取った。
彼はあのページを開き、返事があることに驚き、照れ、そして読み終えた時には、静かに目を伏せた。
店内に流れる先ほどの曲は、cryin'cryin'と繰り返し歌っていた。
それに引き摺られるように、彼の眦から雫が溢れる。
「こんなしょっぱいコーヒーははじめてだ。」
言葉しか綴れないはずのボクの一ページに、言葉にならない思いが、小さなシミとして残された。