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エアープランツの彼女

プロローグ


 春は心地よい季節だ。人にとっても植物にとっても。生きることに希望を膨らませながら、芽吹く息吹き。ペンを片手にふと、物思いに耽るとつい、あの頃のことが今、目の前に現実として思い出される。懐かしい感じ。決して忘れないし、これからもずっと忘れない。


 忘れていないよ。君との約束。


第一章


 私が、初めて彼女に出会ったのは、春の初めの次第に暖かくなりかけてきた頃で、とあるホームセンターの園芸コーナーだった。彼女の買い物カゴには、購入予定の小さな観葉植物が何種類もあったが、まだなお、店頭に並んでいる植物を一つ一つ丁寧に手に取っては眺めていた。その日は平日で、客はまばらだったが、入荷したばかりの植物たちに心がわくわくするのを感じた。彼女は、手に持ったテーブルヤシをカゴに入れると、別の方向へ向かっていく。エアープランツが置いてある所で立ち止まったまま、不思議そうにそれをしげしげと観察している。私は無意識のうちに少しずつ彼女に近づいていた。そうして、少し距離を保ったまま、エアープランツ売り場で彼女と並んで立った。私がすぐ隣にいることに、全く気がついていないくらい、集中して見ている様子で、何だか可笑しかった。


「エアープランツって不思議。なんかおもしろい。」

 

 彼女は、ぼそっとつぶやく。独り言のようだろうが、はっきり聞こえるので、つい私も答えてしまった。


「そうですね。不思議な植物だ。水やりは、あまりしなくていいみたいですね。」

 

 その言葉に、彼女はびくっとなって私を見た。やっと私の存在に気がついたようだ。


「ごめんなさい。つい、独り言が出てしまうんです。」

 

 彼女は、小さなえくぼをくりっとへこませて、いたずらっぽくはにかんだ。


「植物っていいですよね。ほっとするっていうか。」


「そうそう。私、ホームセンターの園芸コーナーって大好きなんです。なんだか落ち着くんですよね。」


「自分もです。」

 

 そして、しばしの沈黙が流れた。


「観葉植物見てたら、なんだか可愛くて、こんなになっちゃった。」


 彼女は、左手に持っていたカゴを私に見せて、たくさん買いすぎでしょと、恥ずかしそうに笑った。テーブルヤシ、クワズイモ、モンステラ、コンシンネ、パキラ、コーヒーノキか・・・・・・。どれもみんな15センチから20センチくらいの小さなものばかり。


「私はこれです。」

 

 私も恥ずかしかったが、持っていたカゴを見せた。


「ほー。サボテンですか〜。いいですね〜。個性的。」

 

 彼女は、サボテンをじっと見てから、微笑んで私を見つめた。私は自然と彼女との、この清らかな時間を出来るだけ引き伸ばしたいと思えてくるのと同時に、今頃になって、急に緊張し出した。そうすると、もう勇気を出して一歩踏み出してみた。


「エアープランツ、試しに1個買ってみようかなー。」

 

 たくさんあるエアープランツの中から、大きめで形の良さそうなものを選んだ。彼女は、少し驚いた顔をしていたが、早速一つ一つ丁寧に吟味して、その中から元気の良さそうなものを選んだ。彼女は、微笑んだ。私も思わず頬が緩んだ。


「すみません。独り言だったのに、話しかけちゃって。」


「いえいえ。独り言が大きかったのは、私の方ですから。」


第二章


 私が、エアープランツとサボテンを購入したのは、単に私が植物の世話もろくにできないほどの不精の人間だからという理由だけではない。もちろん、サボテンはあまり世話が必要ない初心者向きだと思って買ったのは事実である。引っ越してきて1年になる小さなマンションの部屋に、男1人で暮らしていると、少しくらい部屋に緑があった方が、気持ちも違うだろうと考えてのことだった。しかし、エアープランツは予想外の買い物だった。偶然、その生育条件というか、特徴が、ちょうど私に合っていただけのことだ。このエアープランツこそ、彼女との出会いの象徴であり、彼女の部屋にも同じ(共通の)物があると思うと、心が晴れやかに、うきうきした気持ちになるのである。この、水を()()()()必要としない不思議な植物を見るたびに、彼女のことが頭から離れなくなっていた。きっと、彼女にとっては、通りすがりのおじさんとしか思われていないだろうけど。

 

 会社から、半強制的に指定された有給休暇を取った後、再び仕事に忙殺されるようになる頃には、彼女のことはすっかり頭から消えていた。ただ、部屋にサボテンやエアープランツがあるだけで少し心が落ち着く感じがした。来週の金曜日に行われる会議の設営の最終確認、会議資料のチェックと取引先への挨拶回り、懇談会の準備など、まだまだやるべき仕事が山積みだった。私の体は、ついに悲鳴を上げた。その日、目覚ましの音で起きようとするのに、体が鉛のように重くて起き上がれない。頭は仕事の準備をするよう命令を出しているのに、肢体は言うことを聞かない。突然、酷い目眩(めまい)と吐き気が襲ってきた。すぐに、トイレへ駆け出したが、間に合わなかった。嘔吐物の始末を終えて、会社に休むことを伝えた。しばらく、休養を取ることになった。

 

 少しずつ体力も持ち直してきたある日、久しぶりに近所の図書館に行った。自宅のマンションから、1キロほどのところにある県立図書館だ。自転車をこいで15分くらい、くねくね曲がった小道を抜けていくと、山を少し崩したような高い所に図書館はある。図書館の裏手には、手入れされていない雑木林が広がっている。

 

 私は、すっかりお馴染みになった手指消毒を済ますと、館内に入った。1階には、新聞を立ち読みできるコーナーとトイレ、共有スペースがある。中央の階段を上がっていくと、専門書や洋書などが置いてある。3階には、たくさんの小説が並んでいる。私は、もちろん真っ先に3階へと向かった。日頃から小説を読むのが好きだし、最近は自分でも書いてみている。単なる趣味で始めたことだし、そもそも私に文才はないのだから、誰かに見せることを意図していない。今日は、1日ぼーっと何か心を爽やかにしてくれるような素晴らしい本を読もうと思っていた。平日の9時くらいだから人はまばらだった。“おじいさん”と思われる人が、ちらほらいるくらいで、時折聞こえる咳の音がやけに響いて大きく感じられるほど、館内はひっそりとしていた。

 

 本棚と本棚の間に入って、本の背表紙のタイトルを一つ一つ見ていく。これがいつもの私の癖である。一つ一つ見逃さないよう確認していかないと気が済まない。作者の名前が、あいうえお順に並んでいるが私は気にしない。タイトルを見て何かを感じたら、その本を手に取りページを繰っていく。これでもない。再び元の場所に戻す。この繰り返しだ。かなりの時間、この動作を繰り返していたので、目が疲れてきた。別の書架へ行く。それは、近現代の小説を集めた特集コーナーだった。夏目漱石や芥川龍之介、太宰治・・・・・・。数々の文豪の作品がずらりと並んでいた。私はどちらかと言うと、こういった昔の小説が好きなのだ。なんだかしっくりくると言ったら変だけれど、時代も背景も全く異なる筆者が書いた世界観は、すごく新鮮で、粋で魅力的なのだ。再びその場で、例のルーティーンをしていると、すぐ隣に誰かがいるのを感じた。ちらっと横を向くと、それは彼女だった。エアープランツの彼女。目と目が合うと、驚きと恥ずかしさが入り混じった表情で、少し節目がちにぺこりとあいさつした。私も驚いたが、急に恥ずかしくなって、ぺこりとおじぎした。


「こんにちは。」


「こんにちは。・・・・・・あの、覚えていますか?×××ホームセンターの園芸コーナーで会った・・・・・・。」


「ええ、もちろんです。なんだか驚いちゃいました。・・・・・・びっくり。」

 

 明るいグリーンのワンピースにグレーのパーカーを着て、スニーカーを履いた彼女は、またあのえくぼをへこませてはにかんでいる。なんだか、とても爽やか。


「本好きですか?よくここに来るんですか?」

 

 彼女の方から質問してきた。


「ええ、本はよく読みますね。こういう昔の作品って、特にいいなって思っていて。今とは時代が違うから、状況を想像するのは大変だけど、逆に新鮮っていうか。」


「私もです。夏目漱石の『こころ』は、高校の時、国語の授業で初めて読んでから、はまってしまいました。あと、川端康成の短編小説が好きです。それと、この前読んだ本で感動したというか、すごい本だと思ったのが、堀辰雄の『風立ちぬ』。・・・・・・私、ジブリが好きなんです。それで原作を読んでみたら、これがまた色々考えさせられて。儚い愛のカタチとか・・・・・・、ごめんなさい。うまく言えないですけど、表現一つ一つがお花のように繊細で美しいんです。」


「へー。その本はまだ読んだことがなかったな。」

 

 確かに、ジブリ映画でそんなのがあったような。私は自然と「ほ」を目で追っている。しかし、棚の「へ」と「ま」の間には「ほ」が何もなかった。すると、彼女が「あった」と本棚の「も」のところから目ざとく見つけてきて、私に差し出してくれた。ちょうどその時、12時を示すオルゴールの音楽が館内に流れた。


「もし、良かったらお昼どうですか?お茶でも。近くに良い喫茶店があるんです。・・・・・・あっ、もし、この後予定があれば無理にとは言わないです。どうぞ、ご予定を優先させてください。」


「いえ。ぜひ、行ってみたいです。」

 

 私は、カウンターでその本を借りた後、彼女と一緒に外に出た。

 

 私は、今の職場に勤める前まで、あらゆる会社をことごとく辞めて回ってきた。最初の職場では上司からのパワハラ、陰湿なイジメなどで、精神的に参ってしまい、大体半年くらいで辞めた。2度目の就職では、精神の回復が時期尚早だったためか休みがちになり退職。やっと回復して、満を辞した再出発だったのに、再び時間外労働と上司からの過大な圧力のため、途中で倒れてしまった。今の職場は、4度目の正直でなんとか続けていかないと、年齢的にももう再就職は難しいだろうと覚悟していたから、上司には事情を説明し、週4のパートタイマーとして勤務している。

 

 この街に来て5年くらいだが、図書館の近くに喫茶店があることを知ったのはついこの前だった。喫茶店は図書館から歩いて5分くらいのところにあるのだが、一見すると、古い空き家だ。平日だから、お昼時でも空いているだろう。

ドアについている鈴が、「チャリン」と鳴る。

 

 薄暗い空間に間接照明がオシャレに下がっていて、黄色い光が落ち着いた雰囲気を醸し出している。店内の壁やカウンター、机や椅子は、木目調の焦茶色。レトロっぽくて品がいい。レコードが回っていて、黄金に輝いた蓄音機から、『ビートルズ』の『ヘイ・ジュード』が流れている。私たちは、窓際のボックス席に着くと、すぐ店員がお水を2つコップに入れて運んできた。


「素敵なお店ですね。こういうところに来てみたかったんです。」

 

 彼女は、うっとりした表情を浮かべた。相当喉が渇いていたらしく、コップの水をゴクゴクと飲み干して、気持ちよく「プハーッ」と言った。彼女の表情は、生き生きと生命力に溢れていた。それだけじゃない。仕草や雰囲気全てが可愛らしくて、魅力的に思えた。店のオススメという和風ハンバーグを彼女は注文した。私は、それほどお腹が空いていなかったけれど、彼女と同じものを注文した。食後に紅茶を飲んだ。彼女が「ふう〜」とゆっくり息を吐いた後、こう言った。


「お互い、自己紹介まだでしたよね?」

 

 まあ、名前も知らない相手とよく食事までしたものだと、よく考えれば驚きだ。それに、彼女にしてもよく一度会っただけなのにここまで来てくれたと思うと、その度胸というか、無邪気さにこちらが心配してしまうほどである。


「あっ、そうでしたね。なんだか、不思議と一緒にいるのが自然すぎて、忘れていました。」


「私も。・・・・・・、私、×××ケイです。よろしくお願いします。」


「私、〇〇リョウです。よろしくお願いします。」

 

 しばらく、喫茶店にいたものの、自己紹介した後の恥ずかしさにお互い少々戸惑って、沈黙が流れるようになった。

「そろそろ行きましょうか」という私の提案で、彼女もこくりとうなずいて、再び図書館の方へゆっくり歩き出した。図書館のところまで来たところで、突然彼女が私に向き直ってこう言った。


「エアープランツ元気ですか?」


「えっ?・・・・・・はい、たぶん。」


「週1回は水で霧吹きしてあげてますか? 1ヶ月に1回はお水に浸してあげてますか?」


「えっ? あれって、水をやらなくても良いんじゃなかったっけ?」


「いいえ。植物だから、全く水をあげないと死んでしまいます。水やりは必要ですよ。」

 

 彼女は、少し強張った表情で、かつ低くてくぐもった声でそう言った。


「家に帰ったら、すぐに水を張った容器に浸してください。」


「あっ、はい。・・・・・・、忘れていたなー。そうだ、水やりは必要だったんだ。」

 

 私は、彼女の変化に動揺していたから一人でぶつぶつ言って、白けた場をなんとか取り繕うようにしていたが、彼女の方は終始怒っているような不満げな表情のままで、一言も言わずに並んで歩き続けている。


「私、そろそろ帰りますね。今日は本当にありがとうございました。お昼もご馳走していただいて。」

 

 彼女は、またあのキラキラした笑顔に戻っていた。「それじゃあ」と彼女は、くるりと向きを変えて歩き出していた。私は焦って小柄な背中に叫んでいた。


「あの、また会えますか?」

 

 彼女は、背中を向けたまま立ち止まって、「まだ、生きていればね」という言葉を残して、また歩き出した。その時、彼女は右手を大きく高く上に伸ばして振った。そして、先の曲がり角で見えなくなった。


 まだ生きていればね。

 

 どういう意味だろう。

 

 私は、まっすぐ自宅に帰った。あの薄暗い図書館に戻るのは嫌になったからだ。部屋に入ると、デスクの前にある壁掛けに掛かっていたエアープランツは埃をかぶって、干からびそうだった。すぐに、水を張った容器にじゃぶんと浸した。大丈夫かな・・・・・・。

不安だった。彼女との共有物が瀕死の状態にあるのだ。もし、植物が死んでしまったら、彼女にはもう会えなくなるかもしれない。本能的にそんな気がした。

 

 しばらく水に浸けていたら、生気を取り戻したのか、緑色の葉がツヤツヤしてきた。私はほっとした。これからは、きちんと水をやろうと心に決めた。と同時に、私は人生最大の失態を犯してしまったことに気がついた。彼女に会いたくても連絡先も住所も知らないのだ。どうしてあの時、聞いておかなかったんだと、心底自分に腹が立った。あまりに腹が立って、夜9時半狭い部屋の中を行ったり来たりしてモヤモヤしていた。ただ、どうしようもなく自分にイライラした。後悔と怒りとやるせなさと焦りが束の間消えてくれると思って。そして、彼女にまた会えることを心の底から願って、日付が変わった頃やっと布団にもぐり込んだ。


第三章

 

 次の日から、私は心を入れ替え、エアープランツをしっかりお世話するようになった。もう、しおらせないぞ、と。そもそもそれほど世話が必要ないのだから、大したことをしたわけではない。世話と言っても、今まで掛けていた場所を暗かったデスク前から、日の光が入る明るい窓の近くに移動させ、週に1度の霧吹き、月1回水に浸すということを行うようになっただけだ。こんな私を突き動かしたのは、もう、彼女に会えないという焦りだった。

 

 彼女に再び会ったのはそれから3ヶ月経ってからだった。月曜日。朝から雨が降っていて気持ちも少しブルーだった。私はスーツに身を包み、会社に向かう混み合ったバスの中でぼーっとしていた。通勤時間の車内は、人でごった返している上に、梅雨時のせいで蒸し返すような暑さだった。シャツが皮膚にじっとりまとわりついて気持ちが悪い。バスはいくつかの停留所で停まっていく。ふと、あるバス停に彼女を見つけた。私はとっさに、つり革を持っていた手を離して彼女に振ったら、彼女も私に振り返した。でもバスはスピードを緩めようとしないので、私は慌てて「降ります!」と叫んで駆け降りた。彼女は、水色の地に白の水玉模様の大きな傘をさしていた。


「これ、渡したくて。」

 

 彼女は、左手で持っていた大きな巾着袋を私の手に預けた。ずっしりと重さが手に伝わってきた。


「お弁当。手作りしてみたんです。良かったら食べてください。」

 

 そう言うと、彼女は忙しい朝の雑踏に消えていった。私は、会社までの道のりを歩き始めた。

 待ちに待ったお昼休み。彼女がくれた巾着袋の紐を解いて中を出してみると、タッパーに入ったお弁当と折り畳まれた1枚のカードがあった。カードを開く。


「リョウヘ

エアープランツにお水をちゃんとやってくれてありがとう。お日様が見えるところに置いてくれて嬉しいよ。きっと、その子、喜んでいるよ。頑張っているね。でも、そんなに毎日水をやらなくても大丈夫だよ。ありがとう。お弁当作ってみたから、食べてみて。お仕事頑張って。

ケイ」

 

 変な手紙だと思ったけど、それ以上は考えなかった。ただただ嬉しかった。この時、なぜ彼女が私の植物の世話の状況をいちいち知っていてアドバイスしたりするのかは、不思議と全く疑問に思わなかった。お弁当は、卵焼きにタコさんウインナー、唐揚げ、ブロッコリーとトマトのマヨネーズかけ、そして海苔弁当。色も味も栄養もバッチリなお弁当をほおばった。こんなに食べることが幸せで楽しいことなのかと、この時初めて知った。

 

 私は、エアープランツの世話を欠かさず行ったし、彼女としょっちゅうメールしたし、デートもした。彼女と付き合ってもう3年目になる。そろそろ、結婚の申し込みをしても良い頃かなと考えていた。薬を飲まなくても良いくらいに健康は回復していたし、仕事も順調になったから、将来のことを考えパートから正社員になった。そして、今回、部長に昇進したのであった。部長職になって少し経った頃のことだった。仕事がやけに多くなり、残業続きになった。彼女は、そんな私の健康をとても心配してくれていた。


「ねぇ、リョウ。そんなに頑張りすぎなくてもいいんだよ。大変そうだよ、もう少し仕事、調整した方がいいんじゃないかな?」

 

 私は、彼女のために将来一緒に暮らすために、今頑張っているんじゃないかと強く言ってしまった。少し言いすぎたと思った。それは分かっていたけど、私は彼女の気持ちを顧みず、毎日遅くまで働き続けた。休日にデートする約束だったのに、急に仕事が入ってしまい、ドタキャンしてしまうことも何度かあった。その度に、彼女は「仕方ないよね。頑張って」とメールを返してくれた。だんだん、私はエアープランツの世話もしなくなり、彼女とのメールも億劫になっていった。ケータイに何通も彼女からのメッセージが入っていたけど、もう見る気力がなくなっていた。気分が重くなり、憂鬱で何もしたくなかった。

 

 そんなある日、仕事帰りに近くの公園の前を横切った時、女性が1人ブランコにぽつんと座っているのが目に入った。誰かと思って目を凝らすと、それは彼女だった。気まずくて会いたくなかったけど、そのまま素通りすることもできなかった。近づいていくと、彼女と目が合った。寂しそうな目をして、顔を赤くして私を見つめた。すぐに無邪気な笑顔を見せた。すると、今度は目から涙がぼろぼろ流れてきて、彼女は公園の入り口に向かって走り出した。私は、急いで跡を追った。彼女の足は驚くほど早かったが、私も負けじと追いつき、後ろから抱き止めた。彼女はしばらく脚をばたつかせて暴れたが、私は離さなかった。感情がコロコロ変わっていく彼女はもう、わーっと泣いていた。周囲の人がこちらを不審そうに見ていたが、私は気にしなかった。


「ごめん。ごめん。ごめん・・・・・・。」

 私はずっと繰り返した。彼女は何も言わない。でも、ぎゅうっと抱きしめられたまま、つぶやいた。「ごめんね」と。そうしたら、彼女は潤んだ目をキラキラさせて言った。


「・・・・・・、リョウ。私のために今まで頑張ってくれて本当にありがとう。私はとても幸せだった。ううん、幸せっていう言葉じゃ足りないくらい。だから言うよ、リョウ。もういいんだよ。私のためにそこまでしなくても。あなたは本当に優しくて、素敵な人だった。出会えて本当によかった。私は忘れないよ、ずっと。もう、行かないといけないけど・・・・・・。幸せな時間を過ごせたこと、忘れない。ねぇ、だから約束して。これからは、あなたの時間をあなたらしく生きると・・・・・・。」


「ケイちゃん!どういうことだよ!もう、行かないといけないって!」


「ね。約束して!」


「分からないよ。僕のことが嫌いになったのか?」


「違う!お願い、これからはもっと自分と大切にするって約束して!」

 

 私は混乱していた。今度は彼女が、パニックになった私を冷静になだめる母親のようである。頭を優しくなでてもらうと、自然と安心して気持ちも落ち着いてきた。


「・・・・・・、約束する。」


「ありがとう。・・・・・・、ありがとう。」

 

 彼女は、どこか遠くの方を見ているようだった。私はもう、その手を離すしかなかった。彼女は一度も振り返らず、静かに去っていった。雲一つなかったはずの空は、いつしかどんよりと一面が雲で覆われていた。前にも増して重くなった体を引きずるようにしながら、公園にふらふらと戻った。けれどもう、そこには空虚感と1月の寒い風だけしか残っていなかった。


第四章


 自宅に戻ってみると、エアープランツは押入れの中で完全に干からびて死んだ色をしていた。微かな希望も虚しく、水の中に沈んだ植物はもう、元には戻らなかった。ついに、彼女との関係は終わってしまったんだ。彼女は死んでしまったんだ。私は、彼女自身がエアープランツだったのだとやっと理解したのだ。もう、遅かった。私のせいで、彼女は死んだんだ。そう自覚した瞬間に、極度のめまいと疲労感に襲われた。次の日は、仕事だったのに私は死んだように眠りつづけた。

 

第五章


 古くなったカレンダーをめくる。もう、今年は私も50か。独身男の生活とはなんと(わび)しいものか。まっ、いつも通りか。いつの間にか白くなった頭髪をなでて苦笑する。

 

 彼女と別れた後、私は色々考えた。植物を大切にできなければ、人を幸せにすることもできないのかな。もっと、彼女の気持ちを考えていればよかった。一緒に過ごす時間をもっと取っていれば良かったと。私にはやっぱり植物を育てたり、人を幸せにしたりする資格はないのだ。私は、仕事も恋愛も、植物を育てることも続かないダメな人間だから。でも、時間が経つにつれて、大切なことを彼女から教えてもらったんだと分かるようになった。もっと自分を大切にするのは、簡単なことじゃない。でも、自分の心と体の声に耳を傾けて、それが望むことをすることが大事なんだ。怖くて怖くて逃げ回ってきた私は、ようやく大切にしなくちゃならないものが見つかった気がした。

 

 私は、今も同じ職場で働き続けている。また、パートに戻ったけど今度こそ逃げないぞと決心した。

 

 そして、誓った。

 今度こそ、大切な宝物を手放さない、と。

 

 それから数年経ったある日、私の足はホームセンターの園芸コーナーに向かっていた。私の足はうずうずして軽やかだった。

 ああ、春が待ち遠しい!


 君に誓う!

 エアープランツの君をいつまでも忘れない、と。


エピローグ


 結局、彼女には二度と会うことはなかった。70代になった私の安住の住まいには、植物園と見紛(みまが)うほどの、多種多様な観葉植物と多肉植物、サボテン類が生育している。現在、園芸センターで臨時の職員としてたまに働いている。店頭に並ぶ植物の世話を手伝ったり、植物の育て方をお客さんに教えたりしながら、細々とやっている。小さな講習会は結構評判が良いらしくて、また開いてほしいと依頼された。若い頃よりも、今の方が健康になったような気さえするのがまた不思議である。植物の生命力を分けてもらっているせいなのだろうか。そして今も、本を書いている。もちろん趣味だが。

 

 ある日、エアープランツのコーナーに1人の少女がじっと真剣な顔で植物を見つめていた。私が、近づくと、少女は私に気がついたが、少し緊張した様子だった。


「面白いでしょう。お水を()()()()あげなくても育つんだよ。」

 

少女は、恥ずかしそうにしながら、「へー、すごい」と言った。えくぼが可愛らしい少女だった。


「全くお水をあげないと枯れちゃうから、週1回くらいは霧吹きで水をあげるんだ。おじさん、実は昔ね、水を全然やらなくてもいいんだって思って、枯らしてしまったことがあるんだよ。」


「えー、おじいちゃんが?」

 

 少女は、私の作業着の胸ポケットに付けてある大きな“植物博士”のバッジと私を見比べた。このバッジは、子供向けの講座をするようになってから、特別に作ってもらったものだ。そうか、もう私は“おじさん”じゃなくて、“おじいちゃん“か。


「ずっとずっと昔のことだよ。」

 

 私は、ハハハと笑った。少女はうなづいて、エアープランツの中から1つ取り出し、「これ、育ててみる」と言った。しかし、それは、小さくて弱そうなものだったから、「こっちの方がいいよ」と言って、大きくて葉もしっかりしているものを差し出した。自分の持っていたエアープランツと私のものとを見比べて、こくりとうなずいて交換すると、観葉植物コーナーにいた母親に駆け寄った。レジで会計を済ませた後、少女は母親に何か楽しそうに話をしている。私は微笑(ほほえ)ましく思った。すると、少女はふと、こっちを振り返って、にっこりと笑顔で、右手を大きく高く上げて振ったのだ。懐かしい記憶がふわっと私の胸に広がって温めた。彼女にそっくりだ。


「おーい! ○○さん、ちょっとこっちに来てください! この植物どうしたらいいですか?」

 

 20代の元気な同僚、佐藤くんが呼んでいる。


「あぁ! すぐ行くよー!」


 春は心地よい季節だ。人にとっても植物にとっても。生きることに希望を膨らませながら、芽吹く息吹き。あたたかな優しい風が吹いてくる。


 『風立ちぬ、いざ生きめやも。』


 忘れていないよ。君との約束。











最後まで読んでいただきありがとうございました。

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