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第60話 終末を告げる月光(1)

 サラマンドラゼノクが倒され、小麦の不正な買い占めをしていたアル・ドサリ家の一族郎党がまとめて捕縛されたその日の夜――息抜きと称して一人で城下に出たラシードは、エスティム南地区の四番街を流れる川に架かった石橋の上で転落防止用の柵に背中を預け、夜風に吹かれて一人静かに涼んでいた。


「ごめん! 待った?」


 どこで買ったのか、普段の赤い長衣(アバヤ)ではなく袖のない桃色のドレスを着てきたメリッサが明るい声で駆け寄る。苦笑いしつつ、ラシードは反動をつけて橋の柵から背を離した。


「いや、今来たところさ。……って、逢引じゃないんだぞ。阿呆みたいな台詞を言わせるな」


「いいじゃない。似たようなものでしょ。あなたが選んだ待ち合わせ場所もなかなか素敵な雰囲気だし」


 橋の真ん中に立ってエスティムの街の夜景をぐるりと見渡しつつ、楽しげにメリッサは言った。


「そんな冗談はどうでもいい。早速だが話を聞かせてもらえないか。こっちは昼間からずっと気が気でないんだ」


 サラマンドラゼノクが倒された後、ラシードは記憶を失う前の自分のことを知っているというメリッサと話をする約束をしてここに来たのだった。あの時はミリアムやハミーダたちも一緒にいたため、内容によっては彼女らに聞かれてしまうと支障が出る恐れもある。そのためラシードはあの場でメリッサにすぐに説明を求めたりはせず、逸る気持ちを抑えつつ時を改めて二人だけで密会することにしたのである。


「やだ」


 おどけた声で、メリッサは子供のように言った。


「お腹が空いたわ。一緒に何か食べてからがいい。奢ってよ」


「お前なあ……」


 天真爛漫な態度で食事に誘うメリッサに、呆れたようにラシードは溜息をつく。とは言え、これは無碍に断ってしまうとメリッサは話をしてくれなくなりそうだし、ラシードも小腹が空いているのは確かである。


「しょうがないな。何が食べたい?」


「やった! えっとね。この国にしかないような珍しいもの。ヨナシュ料理はもう食べたから、今度はアラジニア料理がいいわ」


「珍しいものか……じゃあコウモリの踊り食いなんてどうだ? アラジニアの奥地の方では昔からある伝統料理らしいぞ」


 意趣返しのようにラシードがふざけて言うと、メリッサは怒って口を尖らせる。


「気持ち悪い。人里離れた奥地の生き物をよく焼かずに食べるなんて、未知の病原体まで一緒に呑み込んで変な病気になりそうだわ。そういう下手物(げてもの)じゃなくて、普通の」


「分かった分かった。だったらケバブでも食べに行くか。要するに肉の串焼きだ」


「賛成! さあ行きましょ」


 ラシードの太い筋肉質な腕に抱きつくようにして、メリッサは彼に体を寄せながら軽い足取りで一緒に歩き出す。繁華街の賑わいの中へ、二人はまるで恋人同士の如く乗り出していった。




 エスティムの繁華街は戦時下にも関わらずそれなりに人出が多く、比較的裕福な層に属する市民たちが食事処や酒場、あるいは社交場や賭博場や娼館などを訪れて思い思いに楽しい一夜を過ごしている。そんな様子を上空から見下ろして忌々しげに歯ぎしりしつつ、ヨナシュ人の守護神ザフィエルに仕える天使アスタロトは月光を反射して輝く鋭い手の爪を下界に向けてかざした。


「ザフィエル様の臣民を迫害しながら享楽に溺れる愚かなジュシエル教徒たち……天罰として血と炎の味を思い知らせてやりなさい。神に仕えし可愛い選民よ」


 そう言ってアスタロトは、通行人の中に紛れ込んで街路を歩いていた一人のヨナシュ人の男に思念波を送る。するとその男は立ち止まり、何かに取り憑かれたかのように虚ろな目をして人混みの中で魔力を高め始めた。彼の体から光が煙のように立ち昇り、徐々に勢いを増してゆく。


「アラジニア人たちが珍味として食べている海胆(うに)の化身・エキヌスゼノクが、この(けが)れた街にはびこる異教徒に鉄槌を下すわ。まるで乱獲された仲間の恨みを晴らすかのようにね」


 アスタロトの狂おしい高笑いが夜空に響く中、大路の真ん中に立ち止まっていたザフィエル教徒の男は体内から発生した紺色の光に包まれ、驚いて遠巻きに取り囲む人々の目の前でエキヌスゼノクへと変身する。集まった大勢の野次馬たちのどよめきが悲鳴に変わったのは、その直後のことであった。


「月光の色がいつもと違う……やっぱり急がなきゃいけないようね」


 聖地を照らす今夜の月は、光と闇が左右均等に綺麗に分かたれた半月である。その色が淡く紫がかっているのを見て、それまで楽しげな素振りをしていたアスタロトは急に陰気に声を低めた。


「予言された紫月の日――魔王の仔が目覚める終末の時まで、もう時間がないわ」

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