第58話 天界の争乱(2)
「アドラメレク如きに手こずるとは……ようやく覚醒したとはいえ、まだまだ力を発揮しきれていないな」
火災が発生し、窓から黒煙を立ち昇らせている大きな穀物倉庫の様子を外から冷ややかに眺めつつ、灰色の鱗に身を覆われた竜人――神ジュシエルに仕える天使バラキエルは気難しげに目を細めた。
「あんたたち、まさかこんな企みをしてたなんてね」
「……アスタロトか」
不意に背後に降り立って声をかけてきた暗い桃色の鱗を持つ竜人――神ザフィエルの配下の天使アスタロトに、振り向いたバラキエルは苦笑する。中でレオゼノクらが戦っている倉庫の方に目をやりながら、アスタロトはわざとらしく溜息をついて見せた。
「十年前に私たちが始末したはずだったあの獅子の仔を、まさかあんたたちが匿って育ててたとは思わなかったわ。あの凶暴なレオゼノクを手懐けて、番犬か猟犬の代わりにでもする気?」
正気の沙汰とは思えない、と呆れて肩をすくめるアスタロトに、バラキエルはどこか自慢げに言い返した。
「いかに獰猛なライオンとて、幼い頃から育てれば飼い犬のように懐くというのは人間たちが証明している。こちらを親だと認識させてしまえば可愛いものさ」
「ライオンを猫や犬みたいにして飼ってた人間が、ある日突然噛み殺されちゃったなんて事件は珍しくないでしょ。まだ小さい内に殺処分すべきだっていうザフィエル様のご判断は正しかったのに」
十年前、ザフィエルの命令でオルトロスゼノクはまだ八歳のラシード=レオナルド・オルフィーノを襲撃し抹殺しようとした。だが運良く生きてアラジニアへ漂流していたラシードはこの国の守護神であるジュシエルの意向でマムルークとして育てられ、遂にゼノクの力に目覚めて今こうしてエスティムの平和を守るために戦っているのだ。全てはジュシエルという神の見えざる手による導きであり、それが敵対神であるザフィエルの側からすれば恐ろしく酔狂な考えに映る。
「ところで、俺たちと手を組まないか? アスタロト。力を合わせて共にロギエルを倒すのだ」
唐突なバラキエルの申し入れを、アスタロトは小馬鹿にしたように鼻で笑って一蹴した。
「手を組む? 冗談じゃないわ。遠い昔に袂を分かった私たちが、また一つになるなんてあり得ない」
遥か昔、この世界は唯一神ロギエルに支配されていた。だがロギエルに仕える天使だったジュシエルとザフィエルは謀反を企て、レオニダスという名の人間をそそのかして禁断の果実を食べさせたのだ。本来は天使たちだけが食べることを許されていた、食べた者を超越的な魔力を持つゼノクへと進化させる特殊な木の実。これを体内に取り込んだレオニダスはレオゼノクとなって見事ロギエルを撃破し滅ぼしたかに見えた。まんまと主君を倒すことに成功したジュシエルとザフィエルはそれぞれ自分たちのやり方でアラジニア人とヨナシュ人を文明化させ、彼らの守り神となって支配したのである。だが両者の盟約は長続きせず、戦いとなった結果ヨナシュ人は敗れてアラジニア人に服従を強いられるようになったのである。
「別に今更、ジュシエル教とザフィエル教を一つに再統合しようとまでは言わんがな。この聖地は今やロギエル教徒の大軍に包囲されている。血に飢えたロギエルの信奉者どもが、聖地に住むジュシエル教徒もザフィエル教徒もまとめて皆殺しにすると息巻いているのは知っているだろう。つまり、俺たちにとっては奴らは共通の敵というわけだ」
バラキエルの説明を聞いたアスタロトは、ますます不快さを露にして共闘の誘いを突っぱねる。
「ロギエルが自分に逆らう者を許さないなんて、初めから分かってたことでしょ。その傲慢さが嫌で、私たちはレオニダスをけしかけてあいつを倒した。でもどうやら、完全には潰しきれなかったみたいね」
「ああ。この世界のどこかで奴は息を潜めながら人間どもを操っている。今回の聖地奪回の戦争は、奴が西の大陸で増やした己の信者らを動かして始めたとしか考えられない」
遂に恐れていたことが起きてしまったと、バラキエルは遠く西の空を見つめて奥歯を噛む。一度は滅び去ったはずのロギエルが復活し、反乱を起こした自分たちを討伐するために信徒たちの大軍を差し向けてきたのだとすれば、この戦争は単にアラジニアという国家の運命のみならず、ジュシエル教とザフィエル教、そしてその神や天使たちの存亡をも賭けた天と地の両方の次元での壮絶な殲滅戦となるだろう。
「だから今だけはよりを戻そうと言ってるんだ。これまでのことは水に流して、また昔のようにな」
バラキエルはそう言ったが、アスタロトはその厚顔さを軽蔑するように牙を剥いて頑なな態度を崩さない。
「ザフィエル様の可愛い信徒たちを散々いじめておいて、困った時だけ手助けしろなんて虫のいいことを言われてもね。こっちがどれほど恨みに思ってるか、よく知っといた方がいいわ」
「武力で改宗を強いたりせず、人頭税を取る代わりに信教の自由を認めてきたのは寛容さのつもりだったんだがな。これがロギエルだったらそうは行かないだろう」
「私たちが上に立っても、あんたたちほど甘くはないよ。元々この聖なる都市を築いたのはザフィエル様とその選民たちなんだからね。汚らわしいジュシエルの崇拝者たちには全員出て行ってもらうか、それが嫌なら死んでもらうしかない」
「そうか……そいつは残念だな」
言葉の応酬をやめて押し黙った二体の竜人の掌に、破壊魔法の光が同時に灯る。次の瞬間、バラキエルとアスタロトは至近距離から光弾を撃ち合い、互いにぶつけ合わせて爆発させた。
「やはり戦うしか道はないか。ジュシエル様がその気になりさえすれば、アラジニアの王や貴族を動かして国内のヨナシュ人どもを根絶やしにさせることもできるのだがな」
「そう簡単に行くかどうか、やってみればいいのよ。ザフィエル様のご指令一つで、ヨナシュ人たちを一斉蜂起させてこの国を引っ繰り返すことだってこっちはできるんだからね」
軽口を叩きつつ、バラキエルが放った光弾を片手で斬り払ったアスタロトは背中に生えた二枚の翼を羽ばたかせて宙に浮き、魔力を高めて全身から光を放つ。
「変身ッ!」
呪文を詠唱したアスタロトの体に光がまとわりつき、人魚を思わせる形状の全身装甲となって彼女の戦闘力を飛躍的に上昇させる。セイレーンゼノクと化したアスタロトは先ほどまでの数倍の破壊力を持つ光弾を掌から発射し、地上から自分を見上げているバラキエルを攻撃した。
「フン……変身」
嘲笑うように口元の牙を覗かせながら、バラキエルも同じ変身の呪文を唱えて湧き上がる魔光を身に纏う。凶暴な鰐に酷似した禍々しい頭部を持つ灰色の幻獣の化身・アメミットゼノクとなったバラキエルは飛んで来た光弾を右手一本で軽々と受け止め、凄まじい怪力でセイレーンゼノクの方へ押し返した。
「全く皮肉なものだ。宗派を超えて手を取り合っている人間のゼノクどもの方が、臨機応変という意味では我々よりずっと賢そうに見えるな」
倉庫の中では火災がますます広がり、レオゼノクとレオパルドスゼノクが何とかミリアムを助け出そうと苦闘を続けている。彼らの魔力を第六感で捉えて動きを追いながら、アメミットゼノクは高度を下げて接近してきたセイレーンゼノクと激しい格闘を展開した。




