第53話 影に伸びる影(1)
九年前――アレクシオス帝暦一二〇五年。
「おいヨナシュ人。偉そうに道の真ん中歩いてんじゃねえよ」
「えっ……?」
二階がトマス家の四人家族の住居となっている、ハル・マリアの店のすぐ傍には小川が流れている。河原には毎年春になると美しい花が咲き乱れ、一面の花畑となることで有名だった。よく晴れたある日の午後、その近所の河原から家へ帰ろうと街路を歩いていたまだ五歳のミリアムは、年上のアラジニア人の男の子たち三人から急に罵声を浴びせられ、絡まれて取り囲まれてしまう。
「生意気なんだよ。ヨナシュ人の癖に」
自らの国を持たず、異教徒のアラジニア人が支配するこの国に少数民族として暮らすヨナシュ人は絶えず卑しまれ差別を受ける弱い存在である。道の真ん中を堂々と歩いていたという、言いがかりとしか思えないような因縁をつけられたミリアムは男児たちに突き飛ばされ、持っていた小さな手提げ鞄を奪い取られてしまった。
「おっ、見ろよ。美味そうなビスケットが入ってるぞ!」
「本当だ。みんなで食べようぜ」
鞄の中に手を突っ込んで中身を漁った男児たちは、何枚かの焼き菓子が入った袋を見つけて歓声を上げる。
「どれどれ、他にもっとないのかよ」
「やめて! お願い、返して!」
河原で食べたおやつの残りなど、ミリアムにとってはどうでも良かった。あの鞄の中にはもっと大切な物が入っている。それを取られたり、触られたりするのだけは絶対に嫌だった。
「やめてって言ってるでしょ!」
鞄の中を乱暴に弄り回していた大柄な男児に、立ち上がったミリアムは思い切り体をぶつけて転倒させ、彼が持っていた鞄を引っ手繰るようにして取り返した。思わぬ反撃を受けて転んだ男児が激怒し、その仲間たちもからかうようなふざけた笑顔を一変させて怖い顔になる。
「お前、ふざけんじゃねえぞ!」
「ぶちのめすぞ。こら!」
「ううっ……!」
考えるより先につい体が動いてしまったミリアムだったが、体の大きな年上の男子たちと殴り合いの喧嘩などをできるような腕力や胆力は彼女にはない。取り返した鞄を胸に抱えて必死に庇いながら、再び突き飛ばされて倒れたミリアムは痛みと恐怖のあまり泣き出してしまった。
「おい、お前たち!」
「……サウロお兄ちゃん!」
妹の泣き声を聞いて、路地の向こうから息を切らして走って来たのはミリアムより四つ年上の九歳――記憶を失くしているため、確かなことは分からずあくまで推定年齢だが――のサウロだった。ヨナシュ人ともアラジニア人とも異なる、アレクジェリア大陸系の人種を思わせる白い肌を持つ彼の紫色の瞳は、仲のいい義妹を傷つけられたことに対する強い怒りに燃えている。
「何だ? やるかこの野郎!」
「ぶっ殺すぞ!」
大柄の男児が威嚇するように大股で歩いて来てサウロに迫る。義兄が胸倉を掴まれ、頬をまともに拳で殴られたのを見てミリアムは思わず目を背けた。だが次の瞬間、切れた唇から血を流しながらまるで獣のように咆えたサウロはその男児の顔面を狙って殴り返し、怯んだところにもう一発、今度は上から頭を叩いて前のめりに倒れ込ませたのである。
「くっ、てめえ!」
「ウォォォッ!!」
激昂して飛びかかってきた二人目の男児の腹を蹴りつけ、続けて組みついてきた三人目を引っ張って転ばせ地面に叩きつける。それは腕白な子供の喧嘩などという牧歌的な言葉が似合うような生ぬるいものではなく、まるで獰猛なライオンの狩りのように激しく残酷な戦い方だった。
「覚えてろよ。ヨナシュ野郎!」
手加減のない猛攻を受けてたちまち薙ぎ倒されてしまった三人は捨て台詞を残して逃げていった。肩で荒い息をしながら、それを無言で見送ったサウロは唇から滴り落ちてきた血を手の甲で拭う。
「サウロお兄……ちゃん……?」
普段は大人しく、内向的で心優しいサウロがまさに怒り狂ったという表現が相応しいほど我を忘れて他者に暴力を振るっていた。見るからに逆上し興奮していたサウロはやがて落ち着きを取り戻し、妹の方へ振り返る。
「大丈夫か? ミリアム」
その声には既に怖さはなく、穏和で控え目ないつものサウロに戻っている。立ち上がって服についた土埃を手で払ったミリアムはすぐに義兄の傍に駆け寄った。
「ありがとう。お兄ちゃん。思い切り殴られちゃって、痛かったでしょ?」
「いや、平気だよ。でも女の子が年上の男なんかにかかって行くもんじゃないぞ。アラジニア人とは揉め事を起こすなって、父さんにもしつこく言われてるんだし」
明らかに相手の側に非があるとはいえ、アラジニア人に暴力を振るってしまったからには自分も義父にきつく叱られるだろうなと苦笑いしてサウロは言った。
「うん。そうだけど……」
「変な奴らに絡まれたら、鞄なんか捨ててさっさと逃げちゃえばいいんだよ」
そんなに大事だったのか、とサウロが訊くと、ミリアムは恥ずかしそうに顔を赤らめながら小さくうなずいた。
「鞄は別にいいんだけどね。失くしても、お父さんがまた新しいのを買ってくれるだろうし。でも中に入ってる物は絶対取られたくなかったの。だってお兄ちゃんにあげようとしてた物だったんだもん」
「僕に……?」
「うん。あの……サウロお兄ちゃん。いつもありがとう」
ミリアムが鞄の中から取り出したのは、河原で摘んだ色とりどりの花をいくつも編み合わせて作った美しい花輪の首飾りだった。
「ミリアム……」
この日は、ヨナシュ人の謝恩祭の日。いつも世話になっている身近な人に感謝の贈り物をするという風習がある祭日である。大好きな義兄のためにミリアムは河原で綺麗な花を集め、手作りの花輪をこしらえて家に持ち帰ろうとしていたのだ。
「ありがとう……ミリアム」
心を込めて作られた花輪をそっと首に掛けてもらうと、サウロは嬉しそうに笑い、それから急に涙ぐんで片手で目尻を押さえた。
「やだ、お兄ちゃん、泣かないでよ」
「ごめん……でも」
涙はどうしても止まらなかった。遭難する前の記憶を全て失い、右も左も分からないまま見知らぬ異国で生きることになったサウロは自分の本当の家族を知らない。だが、今はそれでもいいとサウロは思った。自分には、こんなに可愛い素敵な妹がいるのだから。そんな気持ちになれたのは、この時が初めてだった。
(この妹のことは、自分が絶対に守らないとな)
幼いサウロはこの時、そう心に誓ったのである。
「サウロお兄ちゃんの子供の頃……?」
サディクの苦情のつけ方は横暴でひどかったが、料理が値上がりして客の財布に負担をかけてしまっている問題は何とかしなければいけないのも確かだ。今日も食材を切らして昼過ぎまでで営業終了となったハル・マリアを出たミリアムは、より安くパンの材料の小麦粉を買える仕入れ先を探して知り合いの商人の元へ向かっていた。
「そう。小さい頃、ラシード将軍ってどんな子だったのか知りたくて。ミリアムちゃんのお家で一緒に育ったんでしょ?」
商談に向かうミリアムについて来たメリッサは、並んで一緒に街路を歩きながらそう訊ねる。昔のラシードをよく知っているはずのミリアムに、この国に流れ着いてからの彼の人となりや成長の過程を聞けば少しは心の整理がついたり、彼について新たに何かを理解できたりするかも知れない。そう考えてメリッサは思い切って行動に出たのだ。
「お兄ちゃんは昔から凄く優しくて、思いやりのある人でしたよ。どこか他の国からアラジニアに来たばかりみたいで言葉が不自由なのもあって、割と無口であまり喋らなかったから素っ気ない感じはしちゃうけど、話すととても温かい人柄が分かるっていうか」
「優しい……か。乱暴だったり、怖かったりはしなかった?」
メリッサに問われると、少し考えてからミリアムは答える。
「何て言うのかな。普段は物静かで優しいんですけど、ちょっと情緒不安定って言うか二重人格みたいって言うか、嫌なことがあったりすると急に怒って愚図ったり人を叩いたりっていうのはありましたね。いきなり人が変わったみたいになるから、まだ小さい妹としては結構怖かったしお父さんにもよく叱られてた」
「そう……」
バジリスクゼノクやプルモーゼノクと戦った時にレオゼノクが見せた豹変に似た現象が、幼い頃のラシードにも起こっていたのかも知れない。メリッサが押し黙って考え込んでいると、彼女の表情を見たミリアムは誤解がないようにと急いで説明を補足した。
「あ、でも全然、悪い人なんかじゃないんですよ。私が近所の男の子たちにいじめられてた時なんて、猛烈に怒って飛んで来て凄い強さで全員やっつけてくれたんです。マムルークの学校に入ってからもそんな感じで、いじめっ子たちにかかって行って殴り合いの喧嘩ばかりしてたみたい」
「そうなんだ。喧嘩っていうのがいいかどうかはともかくとして、正義感はやっぱり強いのね」
「この前、お店でお兄ちゃんと一緒に食べてた部下の人たちがいるでしょ? ハミーダさんとカリームさん。あの二人がさっきのサディクさんって人にいじめられてて、お兄ちゃんが戦って助けてあげたのが仲良くなるきっかけだったそうです。お陰でサディクさんには恨まれちゃって、今でも凄く険悪らしいけど」
「ああ、何か分かる気がする。さっきのあの人とラシード将軍が仲良しになれるとはとても思えないもの」
メリッサがそう言うと、ミリアムも釣られて笑った。隠れた気性の激しさというのは幼い頃のレオナルドからは見て取れなかった点だが、優しく気遣いのできる少年だった彼がいじめのようなむごい場面を目にすれば被害者に感情移入して激怒するというのは考えられない話でもない。
「あ、それともう一つ、あのヨナシュ人の綺麗な女の人のことだけどさ……スザンナさん、だっけ? 彼女とラシード将軍って、その……やっぱり恋人同士なの?」
「えっ……?」
スザンナについてメリッサが訊ねると、ミリアムはびっくりしたように目を点にして、それから楽しそうに笑い出す。
「お兄ちゃんがスザンナさんと? まさか。全然そんな関係じゃないですよ。確かに小さい頃はよく一緒に遊んだりして仲良しだったけど、恋愛感情はお互いないんじゃないかな。むしろスザンナさんに惚れてるのはシメオンお兄ちゃんの方だと思います」
「そうなの? 私、何か勘違いしてたみたい」
「お兄ちゃんは優しいから、基本的に誰にでも親切にしますけどね。そもそも異性にあまり興味ない人だと思うし。もちろん、これからどうなるかは分かりませんけど。マムルークの将軍ともなれば、結婚相手もいずれ探さなきゃいけないですしね」
そんな話をしている内に、二人は目的地である二十番街の外れの大きな穀物倉庫の前に着いた。そしてその敷地の門の前には、今ちょうど話題になっていたばかりのラシードが立っていたのである。
「お兄ちゃん!」
「レオ様……?」
「よう。お前たちか」
二人に気づいて振り返ったラシードは、いつも通りの朴訥とした口調でそう言いながら真昼の強い陽射しを厭うように額の汗を手で拭った。




