第48話 女王蜂への洗礼(5)
見たくもない現実から逃避するかのように、メリッサは薄暗い雑木林の中をレオゼノクから離れる方向へとぼとぼと歩いていた。幼い頃に憧れ、死んでしまったと思われてからもずっと未練を消せずにいたあの内気で心優しかったレオナルド・オルフィーノはもういないのかも知れない。憮然とした表情が今にも泣き顔に変わってしまいそうなのを、メリッサはうつむいて拳を握り締めながら必死に堪えた。
「レオ様……」
エスティムの市街地の中にある雑木林はさほど広くはない。外の明るい光はすぐに前方に見えてきた。だがメリッサが林から出ようとしていちょうどその時、背後からスザンナの大きな悲鳴が聞こえてきたのである。
「またあの娘か……参ったな」
ラシードがこの国に来てから巡り合った恋人だとしたら、当然メリッサにとってスザンナは心証の良い相手ではない。だがそれでも、例え誰であれ危機に陥っている人を見捨てて去るのは彼女の誇りと騎士道精神が許さなかった。しばしの逡巡の後、メリッサは再び踵を返して林の奥へと全力疾走していたのである。
「本当に迷惑かけてくれるわね。――変身!」
呪文を唱えて跳躍したメリッサは真紅の外骨格を瞬時に纏い、レオパルドスゼノクの姿となって悲鳴が聞こえた付近の場所に着地を決める。立ち止まって周囲を見回した彼女は、茂みの陰から出てきた見覚えのあるガルーダの魔人の姿を目にして素早く戦闘の構えを取った。
「ぐっ……ううっ……あの……小娘……め」
「えっ……?」
よろめきながら姿を見せたガルーダゼノクは既に致命傷を負っており、全身から煙を噴き上げながら足を引きずってこちらへ近づいてくる。やがて力尽きてうつ伏せに倒れたガルーダゼノクの体内の魔力が暴発し、彼女は周囲の木々を爆風で焼き払いながら爆死を遂げた。
「誰が、こんな……」
レオゼノクとプルモーゼノクはここから離れた場所でまだ戦闘中らしく、ガルーダゼノクが二人のどちらかに倒されたとは考えにくい。腕をかざして爆風を凌いだレオパルドスゼノクは次の瞬間、ガルーダゼノクの後を追って同じ木の陰から姿を現わした、青い蜂のような魔人の姿を見て息を呑んだ。
「口ほどにもない……この程度の魔力で、私を倒せると思ったか」
生気や感情を感じさせない、冷たく無機質で抑揚に欠けた女の声。無惨に爆散したガルーダゼノクの翼の破片を踏み潰して砕きながら、その蜜蜂の魔人は哂った。
「何者かしら?」
まるで自分など眼中にないとでも言うように、いつまで経ってもこちらを一瞥しようともしない相手に苛立ったレオパルドスゼノクは鋭い声でそう問いかける。ようやく彼女の方へゆっくりと顔を向け、青い蜂の怪人は先ほどと同じ冷淡な声で静かに己の名を告げた。
「我は神ザフィエルの使徒、アピスゼノク」
「ご丁寧にどうも。私は唯一神ロギエルに仕える戦士、レオパルドスゼノクよ」
わざと敵対する神の名を出して名乗ったレオパルドスゼノクを、アピスゼノクは緑色に光る二つの大きな複眼でじっと見据えた。やっと自分と戦う気になったらしい相手の様子を見て小さく鼻を鳴らすと、レオパルドスゼノクはスザンナの行方について訊ねる。
「ここで青いドレスを着た女の人を見なかったかしら? まさか殺したりはしてないでしょうね」
質問を無視するように押し黙ったまま、アピスゼノクは左手を包んでいた外骨格を青白い光の粒子に変えて変形させる。アピスゼノクの手の甲から前方へ突き出すように、蜂の毒針を思わせる太く鋭い一本の凶器【メルキゼデク】が伸びて降り注ぐ木漏れ日に輝いた。
「面白そうじゃない。かかって来なさいよ」
右手の鉤爪を見せて挑発するようにレオパルドスゼノクが言うと、アピスゼノクは空を見上げ、それから小さく顎を引いてうなずく。かかって来いという自分の言葉に首肯したのではないと、レオパルドスゼノクはすぐに悟った。自分には聞こえない何者かの声を、目の前の敵は聞いているのだ。
「くっ……!」
刹那、アピスゼノクは無言のまま凄まじい速さで地上を疾走し、一気に間合いを詰めてレオパルドスゼノクに襲いかかった。強い魔力を帯びて輝く左手から伸びた針の一撃を、咄嗟に防御の体勢を取ったレオパルドスゼノクは顔の前にかざした右腕で防ぐ。
「やるわね」
激しい衝撃を受けて、レオパルドスゼノクは自分の身長の三倍ほどの距離まで弾き飛ばされ後退する。すかさず追撃してきたアピスゼノクが再び左手のメルキゼデクを突き出してきたのを素早い側転でかわすと、狙いを外れた針はレオパルドスゼノクの背後に生えていた杉の木を貫き、硬い幹を破壊して大穴を開けた。
「こっちよ!」
まるで密林の豹の如く、身軽に跳んだレオパルドスゼノクは振り向いたアピスゼノクに横から鉤爪の斬撃を浴びせる。顔面をまともに斬りつけられても怯む素振りさえなく、硬質で機械的な動作で反撃に出たアピスゼノクは鋭い肘打ちをレオパルドスゼノクの胸に突き刺した。
「行くわよ!」
「……覚悟するがいい」
レオパルドスゼノクの右の足先に魔力が集まって赤く輝き、アピスゼノクも左手のメルキゼデクに魔力を充填して青く発光させる。助走をつけて跳び上がったレオパルドスゼノクの必殺の飛び蹴りと、左腕を突き出したアピスゼノクの毒針の一撃が空中で激突した。
「電気地獄で死ね! レオゼノク」
その頃、プルモーゼノクは肩から伸びた無数の触手をレオゼノクの体に巻きつけ、高圧電流を流し込んで痺れさせていた。動きを拘束されて感電したレオゼノクは苦しみ、崩れて地面の落ち葉の上に片膝を突く。
「グッ……グォォォォッ!!」
激しい苦痛にあえぎながら、レオゼノクは野生のライオンのような人ならざる咆哮を林の中に響かせる。すると彼の全身から金色の魔力が炎のように立ち昇り、絡みついた触手を高熱で焼き払ってたちまち灰に変えた。
「何っ……!?」
「死ぬのはお前だ」
野獣を思わせる獰猛な叫びから一転、冷酷さを湛えた静かな声でそう告げたレオゼノクは全身から魔力を燃え立たせたまま猛然と突進し、慄くプルモーゼノクに体当たりを浴びせた。灼熱の破壊力を帯びた魔力の塊と衝突したプルモーゼノクは一瞬で肉体を厚く頑丈な海月型の装甲ごと焼き溶かされ、原子の粒となって蒸発する。
「ううっ……!」
何かに精神を支配されていたような、奇妙で恐ろしい感覚。それが去って正気に戻ったレオゼノクの装甲が消滅し、汗でびっしょりと濡れたラシードの素顔が現われる。異常な魔力の上昇による肉体への負荷を急に自覚し、よろめいた彼は木の幹に片手を突いて何とか自分の身を支えた。
「何だ……!?」
その時、遠くから大きな爆発音が響いてきたので荒い息をしながらラシードは振り向いた。疲労で重い体を引きずり、音のした方へ歩いて行った彼は爆発に呑まれて黒く焼け焦げた木々と、その中心に倒れているスザンナの姿を目にする。
「スザンナさん! 一体何があったんだ? しっかりしろ!」
「うっ……神様……」
気絶しているスザンナの体を揺さぶりながら、ラシードは必死に声をかける。その背後で茂みが揺れ、誰かの気配がしたので彼は後ろを振り返った。
「お前か。……大丈夫か?」
「さあ……」
杉の木にもたれかかって体重を預けながら、負傷しているメリッサは曖昧に答えて視線を逸らす。スザンナから手を放して歩み寄ろうとしたラシードを拒絶するかのように、彼女は傷ついた身を引きずって林の奥へと消えた。
「なるほどね。全ては神の思し召し……か」
意識を失って倒れているスザンナの様子を遠くから眺めてほくそ笑みながら、マナセも踵を返してそっとその場を去り、神ザフィエルの計り知れない叡慮を称えて祈りを捧げるのであった。




