第46話 女王蜂への洗礼(3)
エスティム西地区・十五番街。住宅地の中にある公共広場には人だかりができていた。スザンナがここに現れ、人々に向けて辻説法を始めたからである。
「神様は怖い牢獄の看守のようではなく、優しい父親のような御方です。私たちにあれこれと細かい規則を押しつけて厳しく監視したりはせず、むしろ親が子供にそうするように、生きるのに役立つ術を教えて温かく見守っていて下さいます」
戒律を事細かに定めて平信徒らを束縛しようとするヒゼキヤ派のラビたちへの批判とも取れるスザンナの発言に、集まった人々からは賛同の歓声と、そんなことを言ってしまって大丈夫なのかという心配のざわめきが同時に起こる。ザフィエル教の指導者であるラビの教えを少しでも否定すれば、背教だと咎められて処罰の対象にもなりかねないのだ。
「けしからん。あの女は縛り上げて百叩きの刑にすべきだ!」
スザンナの話を遠巻きに聞いていたヒゼキヤ派のラビの一人、バルジライ・ベン・ウジヤはそう言って声を荒げた。ラビの中でも特に信徒たちの戒律違反にうるさく、また短気でもある年上の彼をたしなめるように、隣に立っているマナセは腕組みをしながら答える。
「そう感情的になるな。見ての通り彼女は身分の低い民たちからは大人気だ。迂闊に手荒な真似をすれば、僕らは大衆を敵に回すことになるよ」
人々の反応を見越してここは慎重であるべきだと説くマナセに、バルジライは納得が行きかねる様子で反駁した。
「マナセお坊ちゃま、お言葉ではございますが、神から民の牧者としての権威を授かったラビを無視するのみならず批判までするというのは、その権威をお与えになった神への不敬に他なりませんぞ。卑しい貧民の信徒などを恐れて、反抗する者を甘やかすべきではございませぬ」
「甘やかせとは言ってないさ」
何を勘違いしているんだ、とマナセは苦笑し、それから言った。
「百叩きで済まそうなんていう君の方が甘いよ。バルジライ。これ以上、彼女を生かしておくのは良くない」
不穏な科白をマナセが口にすると、バルジライは予期せぬご褒美を与えられて喜ぶ子供のように目を丸くする。
「……殺れ、と仰るので?」
「ああ。ただし秘密裡に、ね」
人々に聖女と崇められているスザンナを、ラビの権力を使って公然と罰するのは世間体が悪い。犯人不明の変死として処理されるようにするのが、彼らにとっては最も都合の良いやり方であった。
「私……どうして……」
辻説法を終えて群衆が帰ると、スザンナは行商のために家から持って来ていたスカーフの入った籠を手に取り、オリーブの木の陰で一人ぼんやりと立ち尽くしていた。
「神様の声が確かに聞こえる。でも、なぜこんな私が……?」
何かに憑かれたかのように、内気なスザンナは時折急に流暢になり、自分でも驚くほど機知に富んだ演説ができるようになる。天からの声が心に響くように聞こえ、普段ならとても思いつかないような言葉を自分に教えてくれる不思議な感覚。しかしその声が聞こえなくなると酔いが醒めたかのように性格も元に戻り、後にはいつもひどい疲れと脱力感だけが残るのであった。
「とにかく、スカーフを一枚でも多く売らなきゃ……」
自分は貧しくて学も権力もないただの町娘に過ぎない。何にせよ、今はとにかくスカーフを売って銭を稼がなければ生活に困ってしまうのだ。謎や悩みはひとまず置くとして、スザンナはまだ倦怠感の残る体に喝を入れると行商の続きをするために歩き出した。
「スカーフは、いかがですか……?」
ただでさえ商売下手で売り上げは芳しくなかったところに今回の戦による物資の不足と物価の高騰が重なり、困窮したこの戦時下でスカーフをわざわざ新たに買ってくれるアラジニア人は少ない。結局ただの一枚も売ることができないまま、スザンナは十五番街の端の雑木林の前まで来てしまった。
「スザンナさん、どう見ても商人って柄じゃないしな。人には向き不向きってものがある」
サディクと別れた後、スザンナを探して付近を馬で回っていたラシードは、強い陽射しが降り注ぐ路上で暗くうつむいている彼女の姿を見つけて声をかけようとした。だがラシードが手綱を引いて馬を前進させかけたその時、スザンナは急に持っていた籠を落とし、目眩を起こしたように頭を押さえながら地面に膝を突いてしまう。
「スザンナさん!」
「ううっ……神様……」
咄嗟に馬から飛び降りて駆け寄ったラシードはスザンナを支えて助け起こした。スザンナは顔を汗でびっしょりと濡らし、目を瞑りながらうわ言のように神を呼び求めている。
「しっかりしろ。スザンナさん。落ち着くんだ」
「サウロ……君……」
「この暑さだ。気分が悪くなるのも無理はない」
炎天下を行商のために歩き回ったせいで熱中症になってしまったのだろう。そう思ったラシードはスザンナを抱き上げて木陰へ連れて行き、懐から取り出した手拭で彼女の額の汗を拭いた。
「神様……私に……何を……うっ」
「スザンナさん……」
朦朧とした意識のまま、スザンナは神に向かって呟きながら苦しげに呻き続ける。日射病による精神の乱れが幻覚症状を起こさせているのか、それとも本当に彼女が自分たちの神であるザフィエルと交信しているのかはラシードには分かりかねた。
「今はとにかく自分の体が第一だ。具合が良くなるよう、神に祈ろう」
何かを掴もうとするかのように前へ伸ばされたスザンナの右手を握り、ゆっくりと膝の上へ下ろしたラシードはそう言って彼女の気持ちを何とか鎮めようとする。その様子を雑木林の茂みからこっそりと窺っていたもう一人の女性の気配には、彼は全く気づいていなかった。
「何? あの人……もしかしてレオ様の恋人?」
暑さとは別の理由で目眩を起こして卒倒しそうになる。湧き上がってくる苛立ちを止めようもなく、林の中に身を隠していたメリッサは太い無花果の木の幹にもたれかかって溜息をついた。
「せっかく勇気出して会いに来たのに、何よ……」
この国で十年も過ごしていれば、新たな人間関係は当然それなりに築いているだろうし恋人ができていても何もおかしくはない。頭ではそう分かっていても、メリッサは不快感が胸に煮え立つのを抑えられなかった。ラシードともう一度しっかり話をしようと意を決して会いに来たというのに、幼い日に交わした自分との婚約はすっかり忘れられて他の女性とこんな展開になっているのはどうにも納得が行かない。
「確か、あっちに井戸があったはずだ。水を汲んでくるから待っていてくれ」
スザンナが落ち着いたのを見たラシードは、彼女を日陰に置いて近くにある井戸へと早足で歩いて行く。彼の後を追おうとメリッサも動き出しかけたその時、ぐったりと脱力して座り込んでいたスザンナが不意に顔を上げ、背中を預けていた木の幹にしがみつくようにして立ち上がった。
「ちょっと、まだ動いちゃ駄目なんじゃないの……?」
熱中症がそんな短い時間の休息だけで良くなるとは思えない。メリッサが心配して見つめる中、スザンナはふらふらとした足取りで木の下を離れ、彼女が隠れている雑木林の中へと入ってきた。
「あっ、スザンナさん!」
近所の住民に借りてきた小さな陶磁の器に冷たい井戸水を入れ、戻って来たラシードが驚いて追い駆ける。まるで夢遊病者のような虚ろな目をしながら、メリッサが隠れている茂みのすぐ前を通ってスザンナは林の奥へと踏み込んでいった。
「神様……私は……ううっ」
「待ってくれ! スザンナさん!」
そっちへ行くのは危険だ。慌てて後を追うラシードが自分のすぐ傍を通り過ぎるのを息を殺して見送ったメリッサは、薄暗い林の奥に渦巻いている不気味な瘴気を感じてごくりと唾を呑んだ。




