第45話 女王蜂への洗礼(2)
エスティム南地区の外れに広がる果樹園。林檎や葡萄などの果物が栽培されているその長閑な農地に、悲鳴と叫び声が響き渡っていた。
「ぐぁっ……!」
「神ザフィエルは偉大なり! 神の敵は地獄行きだ」
畑仕事をしていた農民たちを大柄なアシカを思わせる姿の魔人が襲い、舟のオールのように大きく広がった左右の手で次々と叩き殺してゆく。邪魔な障害物となる果樹園の木々をその手で乱暴に薙ぎ払いながら、ザロプスゼノクは逃げ惑うアラジニア人たちを追って殺戮を続けた。
「どうしたんだい? マルタ姉さん。殺らないのか」
「私は……」
葡萄畑の真ん中で呆然と立ち尽くしたまま動かないイルカの魔人に、ザロプスゼノクは気づいて声をかける。マルタと名を呼ばれたデルピヌスゼノクは、弟のナフションが変身しているザロプスゼノクに声を絞り出すようにして言った。
「私にはやっぱりできない。こんな……罪もない人たちを殺すなんて」
「まだ言ってるのか、姉さん……。この異教徒たちには罪があると神様が判断されたんだ。ラビの先生方もそう仰っていただろ?」
ゼノクに変身する力を持ったこのヨナシュ人の姉弟は敬虔なザフィエル教徒で、師と仰ぐヒゼキヤ派のラビからその超人的な力を神のために用いてジュシエル教徒に天罰を下せと指示された。それまで争いや暴力を非とする平和主義の教えを説いていたラビたちが急に言うことを変え、無差別殺人をするよう命じてきたので二人は戸惑ったが、弟のナフションは既に覚悟を決めている。ただ姉のマルタは、まだ迷いを捨てきれずにいた。
「神様が本当にそんな恐ろしいことを言われたのかしら。何かの間違いじゃ……」
「よしなよ姉さん。神様から権威を授かったラビの言葉を疑うのは、信仰が足りない証拠だよ」
「信仰……」
自分に信仰心が欠けているとは全く思わないマルタだが、神のためならどんなことでもできるくらいの強い信仰があると言っても人殺しをしろと命じられるというのは完全に想定外だった。殺人はいけないというのは人として当然のことだが、一方で聖典には神の命令で無力な女子供も含む異教徒を成敗したという逸話も数多く記されている。自分の理解力や判断力を大きく超えた板挟みに直面して、マルタは頭の中がひどく混乱してしまっていた。
「そこまでだ! 悪党ども」
ラシードとサディクが馬を駆けさせ、事件が起きていた果樹園に到着する。馬の鞍から同時に下りた二人は畑の中に立つ二体の魔人を見て身構え、同時に気を高めた。
「行くぜ。変身!」
「変身!」
黒い狼の魔人となったサディクが先に突撃し、それを横目で見送ったラシードも遅れて呪文を詠唱し不言色の獅子の戦士と化す。ルプスゼノクはデルピヌスゼノクに狙いを定めて殴りかかり、レオゼノクもザロプスゼノクに突進し勝負を挑んだ。
「来たな。アラジニアのマムルーク!」
巨体を活かして体当たりしてきたザロプスゼノクの大きな腹にレオゼノクは膝蹴りを突き刺し、ルプスゼノクは鋭い鉤爪でデルピヌスゼノクを続けざまに斬りつける。
「よく来たなレオゼノク。お前の肉体を切り刻んで土葬し、この農園の肥やしに変えてやる!」
「相変わらず残忍で結構なことだ。そっちのイルカさんと違ってな」
アシカのようなオール型の手で次々と平手打ちを叩き込んでくるザロプスゼノクの攻勢にレオゼノクは押されるが、対照的にデルピヌスゼノクの方は覇気がなく、ルプスゼノクの猛攻の前に防戦一方となっている。相手が戸惑い気味なのを見ても容赦することなく、攻め立て続けるルプスゼノクは掌に魔力を集めて至近距離から光弾を放った。
「きゃぁっ!」
「くたばれ。異教徒め」
勝敗の行方は早くも決していた。大きく吹っ飛んで木に激突したデルピヌスゼノクに、ルプスゼノクは止めの一撃を浴びせようと右手の爪に魔力を溜める。
「危ない! 姉さん!」
レオゼノクと戦っていたザロプスゼノクは姉の危機に気づいて振り向くと、右手を大きく振るってその先端から光線を発射した。よく耕された畑の柔らかい土に光線が当たって爆発が起こり、土煙が濛々と上がって視界を遮る。
「チッ、しまった」
「逃げられたようだな」
煙が収まった時には、ザロプスゼノクとデルピヌスゼノクの姿はどこにもなかった。あと一歩のところで取り逃がした悔しさを隠そうともせず、地面を乱暴に踏みつけて舌打ちしたルプスゼノクは黒い狼の全身装甲を消滅させてサディクの素顔に戻る。
「やはり戦い方が生ぬるいな。ラシード。あの程度の奴に手こずるほど弱いお前じゃねえだろうに、いい子ぶりやがって非情さが足りねえから無駄に苦戦するんだ」
指摘を受けたレオゼノクは自分も獅子の鎧を光の粒に分解し、ラシードの姿となって不快げに言い返す。
「お前こそ、今の敵に殺気がないのが分からなかったのか? いくら神の命令とはいえ、殺しを躊躇ってるように俺には見えたが」
「だから何だってんだ。ヨナシュ人如きに情けは無用だろ」
ラシードがヨナシュ人の出だと知っていてわざと差別的な言葉を吐いてくるサディクに、そんな挑発には付き合いきれないと言わんばかりにラシードは顔を背けて溜息をつく。ザロプスゼノクに枝から叩き落とされた林檎を一つ拾って土を払い、齧りついたラシードはまだ熟しきっていない硬い実を口の中で咀嚼しながらしばし無言で考え事をしていたが、やがて食べかけの林檎を足元に放り捨てるとおもむろに歩き出した。
「おい、どこへ行く?」
「ちょっと野暮用だ。お前なんかと一緒にいるよりも、他に会って話を聞きたい人がいる」
呼び止めようとするサディクを無視するように、馬に跨ったラシードは一人でその場を去っていった。




