第41話 餓狼の戦士(4)
「これは……!」
倉庫の外へ飛び出したラシードは、煉瓦造りの外壁の一部に液体がかけられ、溶けて白煙を噴いているのを目にした。何者かが倉庫を破壊しようと壁を溶解させていたが、気づいたラシードが中から出て来たので途中で逃げ出したのだ。
「さっき感じたのは明らかにゼノクの魔力……やはり人間業の犯行じゃなかったか」
単にゼノクと言ってもその正体は様々なのは、これまでの戦いを通じて既にラシードも知っている通りである。犯人は人間が変身したものか、それとも天使と名乗る竜人が化けたものか。人間ならばどの国や民族に属する者で、天使であればどの神に仕える者なのか。それが分からなければ、事件の全貌は見えて来ない。
「犯人はヨナシュ人だと、サディクの奴は言ってたが……」
「その通りだ」
誰に聞かせるでもなく口を突いた独り言に、答える声がした。十歩ほど離れた自分の背後に誰かが立っている。敢えて振り返ることもなく、ラシードはその奇怪な蟲のような姿をした魔人に背を向けたまま問いかけた。
「残念ながら大正解か。昔の同胞がこんな残忍な悪事をしてるのは悲しいし情けない限りだな」
「それは面目ない。ジュシエル教などという邪教に改宗した貴様には、真の神であられるザフィエル様の正しさはもはや理解できぬようだな。サウロ・ベン・トマス……いや、レオナルド・オルフィーノ」
メリッサが言っていた自分の本名。レオナルドというそのリオルディア人風の名を口に出されて、ラシードの感情が不意に揺らぐ。ビクッと小さく肩を跳ね上がらせた彼の反応を見て取ると、黒い蟻のような姿の魔人・フォルミカゼノクは愉しそうに哂った。
「俺はラシード・アブドゥル・バキだ。サウロはガキの頃の名前だし、レオナルドとかいう奴のことは知らん」
「知らなければ、教えてやってもいいのだぞ。邪神ジュシエルへの信仰を捨て、再び我らの神に跪くならば」
「……ふざけるな」
こちらの弱みに付け込んだ卑劣な取引に応じる気などはない。跳ねつけるように、ラシードは背中越しにフォルミカゼノクの誘いを拒否した。
「無差別殺人を是とするような過激な宗派に鞍替えするわけには行かんな。それよりついさっき、お前たちの仲間のヨナシュ人が妙な皮膚病にかかっているのを見たんだが何か知らないか」
「マムルークの将軍の貴様が報されていないのか? 貴様らアラジニア人が崇める邪悪な神が、我らヨナシュ人を苦しめようと疫病の災厄を起こしているのを」
ザフィエルもジュシエルも、本当にそんな悲惨な事態を人間界に引き起こそうとするほど冷酷非情な神なのだろうか。フォルミカゼノクの話をそのまま鵜呑みにするのは、これまでどちらの宗教でも穏健派の平和主義的な教えしか学んで来なかったラシードにはひどく抵抗があった。
「異端のねじ曲がった宗教観には付き合いきれんな。人間よりも遥かに知恵と愛があるはずの神が、お前たちが考えているような醜い争いなど好んでするものか」
「そう信じたければそれでも良い。神々の世界の秘められた真実を、弱く卑小な人間が知っても気が触れてかえって不幸になるだけだ」
俺のようにな、と自分を指して肩を揺らしたフォルミカゼノクは刹那、抑えていた魔力と殺気を瞬間的に爆発させ、自分に背中を向けて立ったまま微動だにしないラシードに猛然と襲いかかった。
「――変身!」
素早く呪文を唱えて右手を上げたラシードは後ろ向きの体勢のまま、フォルミカゼノクが振り下ろしてきた鋭い爪の一撃を輝く不言色の装甲に包まれた腕で受け止める。魔力が眩しい閃光となって迸る中、ゆっくりと身を反転させて振り向いた時には彼は既に雄々しい獅子の超戦士へと変貌していた。
「レオゼノクめ。十年前に死に損なっていたというのはやはり本当だったか」
「全く憶えてないが、どうやらそのようだな」
十年前、まだ子供だったラシードは記憶を失ってこの国の海岸で倒れていたところをヨナシュ人のトマスに助けられて彼の養子となった。フォルミカゼノクの言葉から、あの直前に自分は彼ら――皮肉にも、義父となって育ててくれたトマスと同じザフィエル教の手の者――に命を狙われ、それがあの海での遭難と記憶喪失の原因となったのだ。頭の中で話の筋をまとめたレオゼノクは忌々しげに舌打ちしながら、相手の突きを防いで力一杯殴り返した。
「お前からはまだまだ興味深い話が聞けそうだ。縄について城まで来てもらうぞ」
レオゼノクは右手の鉤爪に魔力を灯らせ、フォルミカゼノクの胸を斬りつける。蟻を模した外骨格の全身装甲から火花を飛び散らせ、怯んで後退したフォルミカゼノクは掌から攻撃魔法の蟻酸を噴射して反撃した。
「くっ……!」
「生きて城へ帰れると思うか? 貴様の死は神ザフィエルのご意思だ。知らぬこととは言え、それに背いて貴様を育てた養父とやらは神に対する反逆の罪で破門だな」
鉄をも溶かす強力な蟻酸を浴びせられ、レオゼノクの左肩の装甲が白煙を噴く。魔力で生成された獅子の鎧を損傷させられてもなお、レオゼノクは燃え盛る闘志を更に高めてフォルミカゼノクに攻めかかった。
「父さんならもう死んだ。俺を助けてくれたことを罪と呼ぶのは、可愛がってもらった息子としては許せんな」
感情の昂ぶりと共に右腕を波打たせたレオゼノクは、その勢いのまま振り上がった拳をフォルミカゼノクの頬に突き刺して殴り飛ばす。次第に激しさを増してゆく戦闘の様子を倉庫の屋根の上から冷ややかに眺めている黒い狼の魔人の視線には、必死に目の前の敵と戦っている両者が気づくことはなかった。
「フン……ラシードの奴、相変わらずぬるい戦い方してやがるぜ」
退屈そうに溜息をつきながら、その狼の超戦士――ルプスゼノクは獰猛な餓狼を思わせる黒い仮面を傾け、口元から生え出た鋭い牙を夏の眩しい陽射しに煌めかせた。




