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第35話 誓いの乙女(4)

「もう、いい加減にしてよスザンナ! 帰りが遅いと思ったら、また道端でラビの先生方の真似事なんてして……」


 人気のない空き地の前にスザンナを連れてきたルツは、そう言って妹を叱る。体系的な神学もその他の学問も全く学んだことのない無知な服屋の娘に過ぎない妹が、一流のラビも顔負けの辻説法などという芸当ができるというのは姉にとっては驚きであり、また困ったことでもあった。


「ごめんなさい。お姉様。でも神様が、皆に教えを伝えなさいって私に……」


 しおらしく下を向いて謝るスザンナには、優れた演説をしていた先ほどまでのような凛とした声の張りは既にない。生まれつき気弱で大人しく、小さい頃から恥ずかしがり屋で人前で話すのが苦手だった内向的な妹が普段通りの性格に戻ったのを見て、ルツはどうしたものかと首を振った。


「あのね。何度も言うけど、神様は偉いラビの先生方を通じて私たちに教えを授けて下さることになってるの。あんたや私みたいな無学な庶民の女の子を通してじゃなくてね。会堂(シナゴーグ)の礼拝でもそう教わってるでしょ?」


「ええ。でも……」


「でもじゃなくて! 資格もないのに勝手に教師みたいなことしてたら、また怒られちゃうわよ」


 誰かがこちらに歩いてきたのに気づいて、二人は話を中断して同時に振り向いた。曲がり角の向こうから姿を見せたのはラシードとシメオンとミリアムである。


「いやいや、なかなか聞く価値のあるいい話だったぞ。医者の(たと)えは分かりやすくて見事だ。本当に神様が授けてくれた箴言なのかもよ。ルツ姉さん」


「サウロ……君……?」


 ラシードの顔を見て、スザンナはすぐに懐かしそうに柔らかな笑顔を浮かべる。それを見て、ラシードも嬉しげに笑いながら会釈した。


「ああ。覚えていてくれたんだな。マムルークの学校に入ることになって、十歳の時にお別れしたサウロだ。今はラシードなんていうアラジニア人の名前になっちまったけどな」


 ラシードがそう言って気さくな態度で歩み寄ると、シメオンも尊敬の眼差しをスザンナに向けながら後に続いて彼女に近づく。


「スザンナさん、お久しぶりです。あの……シメオンです!」


「シメオン君。久しぶりね。懐かしいわ」


「は、はいっ! その、小さい頃はとてもお世話になりました!」


 緊張で声を上擦らせながら直立不動の姿勢でシメオンが挨拶すると、スザンナは三歳年下の彼に優しく微笑みかけながら答える。血の繋がった兄の熱烈な崇敬ぶりにやや呆れた顔を見せながら、ミリアムも少し遅れて二人の横に並んだ。


「もう……お兄ちゃん、何硬くなってるの?」


「ふふっ、ミリアムちゃんも久しぶりね。お元気だったかしら」


「はいっ!」


 八年前、十歳の時にラシードはマムルークとなるため王都へ登ってスザンナと別れ、その後もずっと近所に住み続けていたシメオンとミリアムも大きくなってからは昔のように一緒に遊んだりする機会もなく最近では疎遠になっていた。今までにも何度かスザンナの辻説法を群衆に紛れて傍聴したことはあるシメオンたちだが、こうして面と向かって話をするのは幼い頃以来のことである。


「サウロ君、お元気そうで何よりだわ。でも今は獅子将軍(アサード・アミール)ラシード様なんて呼ばれてすっかり雲の上の人になっちゃったわね」


 妹とは対照的に快活な性格のルツが昔と同じ明るい笑顔に幾分かの遠慮を込めて言うと、ラシードはかぶりを振った。


「いや、戦場でいくら武勲を立てようが俺は俺のままですよ。昔のようにサウロと呼んで下さい。ルツ姉さん」


「ありがとう。そういう謙虚で優しいところはやっぱりサウロ君のままね」


 サウロと呼ばれていた少年時代のラシードにとっては、自分より一歳年上で昔からしっかり者のルツは頼りになる憧れの女性でもあった。マムルークの将軍に出世しても決して偉ぶらないラシードの態度に、ルツは安心してまた嬉しそうな笑みを向ける。


「でもサウロ君もシメオン君も、あまりうちの妹をおだてて乗せたりしないでね。ラビでも使徒でもないこんな一介の小娘が偉そうに神様の教えについて語ってたりしたら、世間の反発はもう凄いんだから」


 声をひそめつつ、街路の向こうにちらりと目をやってルツは言った。ラビと呼ばれるザフィエル教の権威ある指導者たちが、遠巻きにスザンナの方を見ながら陰口を叩いているのだ。中にはわざと聞こえるように大声で、


「あの女はペテン師だ。神の声が聞こえるなどと言って人々を惑わしているんだ」


「学もない服屋の娘風情が、ラビの権威を無視するとは生意気だぞ!」


 などと非難の言葉を浴びせてくる者もいる。またジュシエル教徒のアラジニア人たちも、


「あの娘が聞いているのは神の声なんかじゃない。悪魔の声だ!」


「ザフィエル教徒に魔女が現れた。ヨナシュ人たちを焚きつけて、きっと反乱を起こす気だぞ」


 とスザンナを危険視するような声を上げていた。


「色々と苦労してるようだな。スザンナさんも」


 気遣うようにラシードが言うと、スザンナは小さく苦笑してうつむいた。その表情ににじみ出たつらさが、全てを物語っている。


「ああいうのはいちいち気にする必要もないと思うが、あまりうるさいようだったら遠慮なく俺に言ってくれ。幸い、俺は今この街の治安と秩序を守る軍務に就いている身だ。民の間に騒動が起きたりしないよう、取り締まるのも仕事の内だからな」


 ラシードが話していたその時、群衆の中から不意にどよめきの声が上がった。何事かと一同が振り向いた直後、左右に分かれて道を開ける人々の間を悠々と歩きながら、紫色の古風なローブをまとった一人の若者がこちらへ近づいて来る。


「あいつは……」


「マナセさんだわ。私、あのお兄さん苦手……」


 ミリアムがそっと耳打ちするようにラシードに言うと、シメオンとルツもその横で同調するように顔をしかめる。色白で線の細いその青年の容姿は甘く端整で、異性は元より同性でさえ思わず見入ってしまうほどなのだが、知的で上品な印象の中に漂う気障(きざ)で気取った人柄がラシードにも確かに嗅ぎ取れる。マナセ・ベン・ヒゼキヤ。この街でも高名なラビであるヒゼキヤ・ベン・アハブの息子で、ラシードやスザンナと同じ十八歳のヨナシュ人だ。


「医者の喩えは確かに分かりやすいけど、だからこそ間違いにも気づきやすいんじゃないかな。医学をろくに知らない素人がいい加減な知識で治療なんてすれば、患者は治らないどころかかえって大変なことになる」


 神学をきちんと学んでいないスザンナではラビの真似事はできない。そう言いたげに、マナセは口元を皮肉っぽく歪めて微笑する。その笑顔に苛立ちを覚えたように、シメオンが横から反論の声を上げた。


「だから黙ってろって言うんですか? スザンナさんのお話は僕らみたいな無学な庶民にも分かりやすいし、間違いなく良いことを言ってますよ」


「ただ適当に耳障りのいいことを言うだけなら大した勉強は要らないさ。でも神様の御心はそんな底の浅いものじゃない」


「そんな。スザンナさんの言うことは浅くなんかないですよ!」


「よして、シメオン君。……いいのよ」


 スザンナを侮辱されたと感じて興奮気味になるシメオンを、消え入りそうな小さな声でスザンナが制止する。


「確かに私は文字の読み書きも苦手だし、あなたみたいに専門的な神学をずっと学んできたわけじゃない」


「だったら身の程をわきまえることだね。謙遜であれと神様も教えておられる。それくらいは学のない君でも知ってるだろう?」


「おいおい……」


 横で聞いていたラシードが、呆れたように口を挟んだ。


「いちいち癪に障る喋り方だな。そんな風に上から目線で挑発するのも謙遜な態度じゃないと思うんだが、聖典に通じたラビの先生の考えはどうなんだ」


「これはラシード将軍様。ご無礼を。お噂は人伝(ひとづて)に耳にしたことがありますが、まさかスザンナさんのご友人だったとは」


 明らかに慇懃無礼が感じられる口調にラシードが怒ってマナセを手打ちにしたりはしないかと、ミリアムやルツたちは心配になる。だがラシードとしてはこういう手合いには怒るよりもうんざりした気持ちが先に来てしまい、相手にするのが億劫になるのだった。


「昔はスザンナさんに色々と世話になったさ。それがマムルークになったからって威張り散らすつもりはないが、今の俺はこの街を守る将軍だ。ラビの側からすれば不愉快なのは分かるが、この戦時下にザフィエル教徒同士の内輪揉めが騒動になったりしては困るから、できるだけ穏便にしてくれないか」


「承知。以後、気をつけます。僕はね」


「僕は……? また回りくどいな。何が言いたい」


 わざとらしく意味深にうなずいてみせたマナセの真意を、ラシードは咎めるように問い質した。


「父上を初めとする学識あるラビは無知な庶民なんかと軽々しく争ったりはされない。ただ貴方たちジュシエル教徒の側から手出しをして来れば、僕らも黙ってはいないだろうということです」


「ロギエル教徒の奴らと戦をしているこの大変な時に、ヨナシュ人とまで内紛を起こすのはこっちも御免だ。籠城戦の最中だから色々と不便を強いることはあるだろうが、今は急に迫害が強まる心配はないと思うがな。と言うか、そんなことはこの俺が許さんから安心しろ」


「左様ですか。お心遣い感謝します」


 アラジニア人によるヨナシュ人への弾圧を懸念しているのかという今の指摘は恐らく的を射ていない。そう自分でも分かっていたラシードだったが、マナセは敢えて誤解を正そうとはせず、踵を返して悠然と立ち去って行った。

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