第33話 誓いの乙女(2)
「行くわよ!」
宿屋の屋上で対峙するレオパルドスゼノクとガルーダゼノク。睨み合いの末、均衡を破って先に仕掛けたのはレオパルドスゼノクの方だった。接近して右足を大きく振り上げ得意の蹴りを見舞うが、ガルーダゼノクはそれを難なく受け止めて手刀を浴びせる。
「早く逃げて!」
屋上の端まで後退したレオパルドスゼノクは下を振り向き、慄きながら地上で戦いを見つめていた先ほどの母子に避難を呼びかける。隙ありと見て背後から襲いかかってきたガルーダゼノクの胸に、レオパルドスゼノクは振り返ることもなく鋭い肘打ちを突き刺して弾き返した。
「早く!」
「は……はいっ!」
泣きわめく赤ん坊を抱いた母親が逃げて行ったのを確認すると、ようやく相手に向き直ったレオパルドスゼノクは再び突っ込んできたガルーダゼノクと接近戦を開始する。あのウェパルが変身したバジリスクゼノクと同様、人間ではなく天使が怪物化したガルーダゼノクも相当の強さで、格闘を得意としているレオパルドスゼノクも苦戦を強いられる。
「どうしてあんな小さな子にひどいことを?」
赤子を標的とした残忍な悪事を厳しく責めるレオパルドスゼノクに、ガルーダゼノクは嘲笑うように答える。
「あのウェパルの奴がうちの信者たちを殺してくれたことへの復讐さ。私らの代わりにあいつを始末してくれて、お前たちには礼を言うよ」
「ウェパルへの復讐……?」
神ザフィエルの僕と名乗っていたウェパルと敵対関係にあることを窺わせるガルーダゼノクの科白に、レオパルドスゼノクは警戒しながら怪訝そうに赤い豹の仮面を歪めて思考を巡らせる。
「それに、あのザフィエル教徒の女が産んだ子供はいずれ成長してお前のようになる。その前に消すのさ。先祖から受け継がれた罪に相応しい地獄の苦しみを与えてね」
「私のように……? よく分からないわね。先祖から受け継がれた罪って何のことかしら?」
「お前のその姿のことさ。本当なら、人間みたいな下等な奉仕種族がこんな力を手にしていいはずじゃなかったんだけどね」
言うが早いか、ガルーダゼノクは掌から突風を発生させてレオパルドスゼノクを攻撃した。ゼノクの魔法で作り出された、人体に触れればたちまち肌を化膿させてしまう悪質な病原体を乗せた風が、レオパルドスゼノクの鎧の表面を蝕んで白煙を噴き上げさせる。
「くっ……こんなもの!」
両足で屋上の床を蹴って高く跳躍したレオパルドスゼノクは風が届かない上空で体を捻って空中回転すると、右の足先に魔力を集めてそのままガルーダゼノクに飛び蹴りを浴びせた。右肩に強烈な一撃を受けたガルーダゼノクは装甲から火花を散らして怯んだように数歩後ずさるが、それでも致命傷には至っていない。
「天罰の疫病は間もなくこの街で猖獗を極めることになる。お前もエスティムの異教徒たちと一緒に苦しんで死ぬがいいさ」
そう言い残して、翼を羽ばたかせたガルーダゼノクは上空へと飛び去っていった。
「さっきの風を街中に吹かせるつもりかしら。大変なことになるわね……」
バジリスクゼノクに続いて、また厄介な魔法を使って人々を襲うゼノクが現れた。この場で仕留めきれなかったのを悔やみつつ、変身を解いたメリッサはこれからこの街で起ころうとしている惨劇を想像して焦りの色を浮かべた。
「あれ? 今日はもう閉めるのか?」
エスティム城に帰還して城主のターリブらに無事を報告したラシードは休憩を取ってからすぐに軍務に復帰し、市中の見回りに出た後ハル・マリアに寄って遅めの昼食を摂っていた。他の客が全て帰り、一人で食後の紅茶を味わっていた彼は、シメオンとミリアムが早くも厨房の後片づけを始めているのに気づいて不思議そうに訊ねる。
「うん。この食糧不足で、食材の仕入れがなかなか思うようにできなくてね。野菜もパンも切らしちゃったから、今日はもう閉店することにしたんだ」
「そうか。面倒をかけるな。俺たちが苦戦してるばっかりに……」
神聖ロギエル軍によるエスティムの攻囲は既に一ヶ月以上に及び、敵軍に取り囲まれて街の外との物流を断たれた影響が民の暮らしにも徐々に出始めている。聖地を狙うアレクジェリア大陸諸国と教皇庁の野心を以前から見抜いていたエスティムには持久戦の備えは十分にあり、まだ飢餓や食糧の奪い合いが起きるほどの事態には至っていないが、このままいつまでも敵軍を撃退できずに孤立させられた状態を続けていれば、備蓄していた物資もいずれ底を突いてしまうのは時間の問題だった。
「まあ、仕方ないよ。大変なのはどこの店も同じだしね。それにせっかく時間が空いたから、午後からはスザンナさんの辻説法を聞きに行くことにしたんだ。今日はどんな話をしてくれるのか楽しみだな」
「……スザンナさん?」
シメオンの口から唐突に懐かしい名前が出てきたので、ラシードはやや驚いて顔を上げた。スザンナとはこの店の近所に住んでいるヨナシュ人の女性で、ラシードがここで育った子供の頃に仲良くしていた同い年の友達である。
「お兄ちゃん、将軍さんなのに知らないの? スザンナさん、神様の声が聞こえるって言って、皆が話を聞きに集まってきて最近とても話題になってるのよ」
「神様の声……」
幼馴染のスザンナがそんな有名人になっているとは、ラシードは全く知らなかった。ミリアムに言われて、ラシードは自分の情報不足を恥じるように頭をかく。
「それだけじゃないんだ。スザンナさん、不思議な力で病気や怪我を治したりして、とにかく凄いんだよ。もしかしたら彼女こそ予言された救世主なんじゃないかって、僕らザフィエル教徒の間ではもう大騒ぎさ」
「救世主か。そんなものがもし本当に現れたら、世界が引っ繰り返るくらいの大事件だけどな」
半ば冗談のつもりでラシードはそう言ったが、すっかりスザンナに心酔した様子で目を輝かせているシメオンはどうやら完全に本気である。世界が滅びる終末の日に、神ザフィエルが自らの選民であるヨナシュ人たちを救うために地上に遣わすという救世主。遥か昔にザフィエル教の聖典に書かれたその予言が、今まさに成就したと多くの人が信じているのだとシメオンは声を昂らせながら言うのだった。
「うん。これは大変なことだよ。兄さんも一緒にスザンナさんの説法を聞きに行ってみない? きっとためになる話をしてくれるからさ」
「あまりそういうのに熱くなるもんじゃないぞ。少し落ち着けよ」
興奮気味で誘ってくるシメオンをたしなめるようにラシードは言ったが、彼自身、この話に興味を引かれたのは確かだった。しばらく会っていなかった幼馴染が今どうしているのかは純粋に気になるし、現在のエスティムの民の心を捉えているものについて知っておくことは、もしかすると街を治める上でも必要な情報になってくるかも知れない。人々が戦禍に晒され、不安や恐れを抱えながら生活している今の状況では、特にそうした大衆の心理や思想や信仰といった事柄はよく注視しておくべきだろう。
「まあ、そうだな。どんな感じか、ちょっと見に行ってみるか」
せっかくこの街に戻ってきたからには、スザンナにも久々に会って挨拶くらいはしておきたい。まずは軽く見物だけでもしてみようと、紅茶の残りを飲み干したラシードは二人に連れられて近くの公共広場へ向かうことにした。




