第27話 魔人たちの宗教戦争(3)
エスティム西地区・九番街。この区域は、この国の多数派で支配階層でもあるジュシエル教徒のアラジニア人たちが住民の大半を占めている。少数民族で被差別階級でもあるヨナシュ人の居住区と比べてそれなりに富裕な家が多く、文化や習俗だけでなく街の活気や清潔感などにも一見して分かる違いがあった。
「や、やめて……助けて……!」
そんなアラジニア人街の住宅地。二つの道が交差した十字路が円形の広場となっており、その中心には大きな井戸が掘られている。ここは近所に住む人々が水を汲むために集まり、互いに挨拶を交わして会話を楽しむ憩いの場である。だがその井戸を囲む広場が、今は凄惨な殺戮の舞台と化していた。
「これも天罰だ。神ザフィエルは偉大なり!」
井戸の周囲に桶と屍が散らばり、広場を覆う灰色の石畳はこぼれた水と流された血で濡れている。ヨナシュ人たちが信じるザフィエル教の神を讃えながら、深緑色のイモリのような怪人は命乞いをする婦人の喉を右手の鋭い爪で掻き切り、その命を奪った。
「何てことを……!」
カリーム、ハミーダ、ダーリヤの三人を引き連れ、ハル・マリアから馬を飛ばして駆けつけたラシードは、女性たちの死体と、勝ち誇るようにしてその中に立っている竜にも似た奇怪な魔人――サイノプスゼノクの姿を見て愕然とする。
「マムルークどもか。遅かったな。もっとも早く来たところで、お前たちにできることなど何もなかったとは思うが」
「怪物め。何のためにこんなことをした!?」
怒りに身を震わせて叫ぶように問い詰めたカリームに、肩を揺らして嘲笑いつつサイノプスゼノクは答える。
「昨日の十七番街での流血は、お前たちも当然知っているだろうな。我らの同胞に対して蛮行に及んだ愚かなジュシエルの僕どもに、真の神に代わって相応の報いを与えてやったまでのことよ」
「昨日の流血……」
それがハル・マリアの周辺で多数のヨナシュ人を殺傷したあのスースゼノクらの破壊活動を指しているということは、ラシードたちにもすぐに分かった。あの二体のゼノクはジュシエル教徒が変身したもので、彼らに被害を受けた人々の多くはザフィエル教徒だった。それで同じザフィエル教徒のゼノクが怒ってこの報復に及んだのだ。話の筋は読めるが、それでもここで次々と惨殺されたアラジニア人の婦女たちには、同じジュシエル教徒だからというだけで昨日の残虐な事件に対する責任は何もなかったはずである。
「こんなことが、あなたたちの信じる神の望みだっていうの? 罪もない人を殺された仕返しに、また罪もない人を殺すなんていう残酷な不条理の繰り返しが」
声を絞り出すようにして抗議するハミーダだったが、サイノプスゼノクは動じることなく彼女をせせら笑う。
「目には目を、歯には歯を、命には命を。それが神ザフィエルが与え給うた聖なる掟というものだ」
「ふざけるな!」
怒りの声を上げたラシードが顎を動かして指示すると、曲刀を抜いた三人の部下たちは散開してサイノプスゼノクを取り囲む。右に回ったカリームが先陣を切って斬りかかり、続いてハミーダが左から曲刀を叩き込むが、サイノプスゼノクはイモリを模した硬い鎧で二人の斬撃を受け止め、更に真後ろから背中を突き刺してきたダーリヤの一撃にも平然と耐えてしまう。
「貴様らのようなただの人間にゼノクを倒すことはできん。それが分からぬのか」
サイノプスゼノクは長い尻尾を大きく一振りし、三人をまとめて薙ぎ倒した。すかさずラシードが突進して正面から斬りつけ、倒れた部下たちを庇うように立ち塞がる。
「ゼノク、か。やはりその魔人の姿はそう呼ぶんだな」
ラシードは持っていた曲刀を足元に投げ捨てると、全身に力を込めて身構えた。魔力が急速に高まり、燃えたぎる金色の炎のような光となって彼の体から立ち昇る。
「何っ!? さては貴様もゼノクか」
「ああ。新入りさ。戦いのついでに色々教えてほしいんだが、よろしく頼むぞ」
ゼノクに覚醒したばかりでまだほとんど何も知らないラシードだが、変身の方法は調べたり教わったりするまでもなく本能的に分かっていた。短く簡潔な、それでいて無限の神聖さと忌まわしさを帯びた呪文を彼は詠唱し、魔力を爆発的に上昇させる。
「変身!」
輝く光が収束して物質化し、獰猛な獅子の仮面と鎧になってラシードの体に装着される。黄金にも似た眩い光沢を帯びた不言色の魔人。レオゼノクと化したラシードは牙を剥き、サイノプスゼノクを威嚇するように両手の爪を向けて構えた。
「あれが、ラシード様が変身した姿……!」
初めて目にするラシードのゼノク化に、ダーリヤは息を呑みつつ目を見張る。カリームとハミーダも手に汗を握る中、レオゼノクは突っ込んできたサイノプスゼノクを迎え撃ち、戦闘を開始した。
「俺も改宗者だから分かるが、いくら虐げられているからって力でやり返すのはザフィエル教の流儀じゃないはずだがな」
牽制の突きと蹴りを浴びせ、右手の爪で相手を斬り払って間合いを取り直したレオゼノクが言う。元々、どこか遠くの土地から漂流してきた異国人で、ヨナシュ人の義父の元ではザフィエル教徒として育ち、マムルークとなる際にジュシエル教に改宗したラシードにとっては、ジュシエル教を信じるアラジニア人とザフィエル教を信じるヨナシュ人との対立はどちらの言い分や心情も分かるだけに悩ましく、また残念に思えてならない問題である。ただ義父のトマスも会堂のラビも、どんなに不当な抑圧に対してであっても暴力で復讐するのは正しいことではないと幼い頃のラシードに口酸っぱく教えてきており、ラシードとしてもザフィエル教というのはそのような平和主義の宗旨だと理解していた。
「異教徒の風下に立ちながら大人しく頭を垂れている屈辱の時代は終わった。神のお告げによれば、これからは殺るか殺られるかだ」
「そんなお告げが本当だとしたら、嫌な時代になったもんだな」
相手の攻撃を受け止めて殴り返し、冷笑気味にそう言って右腕を小さく振ったレオゼノクは、自分たちの生きている世界が本当にそうした熾烈な闘争の時代に突入しつつあるということを、まだ正しく理解できてはいなかった。
「鳩を一羽下さいな」
「へい。一羽十三ジールですよ。もうすぐメシャイの感謝祭だからね。今日から安売りだ」
エスティム西地区・十一番街の外れにあるこの店では、ヨナシュ人たちがザフィエル教の生贄の儀式に用いるための鳩が売られている。買い物に来た同じ民族の若い女性に、店長のピネハス・ベン・エズラは鳥籠に入った生きのいい鳩を普段の半額で売り渡した。
「よしよし。そろそろ餌の時間だな。ちょっと待ってくれよ」
客の行列がようやく捌けたのを見計らって、ピネハスは店の床に置かれていた大きな袋から餌を取り出し、籠の中の鳩たちに順番に与えて食べさせてゆく。その最中、彼は突然手を止め、誰かに自分を呼ばれたかのように顔を上げて店の天井を見つめた。
「……畏まりました。父なる神ザフィエルよ」
気さくに接客していた先ほどまでの笑顔とは一変した恐ろしげな声と表情で、目を細めてうなずいたピネハスは店の扉を閉めて錠をかけると、何かに取り憑かれたかのように黙々と早足で歩き出す。やがて彼は、九番街の井戸の前で戦闘を繰り広げている二体のゼノクの元へとやって来た。
「ジムリの奴め。どうやら苦戦しているようだな」
レオゼノクと激しく戦っているサイノプスゼノクだが、魔力においても格闘技術においても劣るのは否めず、技を巧みに受け流され鋭い反撃を受けて形勢不利となっている。サイノプスゼノクが至近距離から放った攻撃魔法の光線を片腕で防いだレオゼノクは重い鉄拳を相手の脇腹に突き刺し、この一撃を転機に攻守は完全に逆転して、怯んだサイノプスゼノクをレオゼノクが攻め立てる展開となった。
「信仰はともかく、戦士としての腕前は奴もまだまだ未熟だな。――変身!」
ピネハスは大股で歩きながら服の袖をまくり、金色の琥珀のような宝石がついた腕輪を指先で軽く叩きながら呪文を唱える。宝石から立ち昇った光はたちまち彼の全身を包み込み、それが外骨格の硬い鎧と化して、ピネハスは翼の生えた紫色の鳥人の姿に変貌した。
「神よ。我に力を……!」
鳩の魔人・コルンバゼノクとなったピネハスは呟くようにそう祈ると、レオゼノクの膝蹴りを受けて崩れるように倒れ込んだサイノプスゼノクに加勢するため、翼を振るって勢いをつけながら猛然と突進していった。




