第26話 魔人たちの宗教戦争(2)
ハル・マリアにほど近い、エスティム西地区の十八番街にあるザフィエル教の会堂。ヨナシュ人たちが信じる神ザフィエルの教えが人々に説かれるこの場所では、集まった信者らの前で年老いた導師が聖典の一節を朗読していた。
「主なる神ザフィエルは言われた。我は汝らヨナシュ人を選民として守護し、信仰ある限り汝らをこの世界のどの民族よりも栄えさせるであろうと」
自分たちは神であるザフィエルに選ばれた特別な民族なのだという選民思想は、古代からザフィエル教を民族宗教として信じ続けてきたヨナシュ人たちの信仰の柱となっている。だが戦乱によって祖国を失い、こうして世界中に散り散りになって異国のジュシエル教徒やロギエル教徒らの支配下に置かれている現在の彼らの状況は、この神による約束が叶えられているとはどう考えても言い難いものであった。
「これは裏を返せば、例え選民と言えども信仰がなくば神のご加護は得られないということでもある。祈りなさい。そして神から与えられた戒律を固く守りなさい。信仰をもっと強め、神に忠誠を尽くすのだ。さすれば、神は必ずや我らヨナシュ人に再び目を向けて下さり、昔のような豊かな繁栄を取り戻させて下さるであろう」
会堂に集まっていたヨナシュ人の老若男女が、ラビの言葉に感銘を受けたようにうなずいて祈りを捧げ始める。やがて群衆の一番後ろで説法を聴いていた一人の若者が、彼らを冷たく嘲笑うかのように口元を歪めて静かに席を立った。
「無知で無学な庶民どもには、神もラビの先生方も深遠なる真理のほんのひと欠片しか明かされぬ。事ここに及んで、ただ静かに祈っているだけで状況が好転などするはずがなかろうに」
ザフィエル教にもいくつかの宗派や門閥があるが、この会堂の主であるラビのヒゼキヤ・ベン・アハブを中心とするヒゼキヤ派は特に厳格で権威主義的な教理を掲げ、聖典の戒律を厳しく当てはめるよう信徒たちに説くことで知られていた。下賤の民はただ偉いラビの教えに従って律法の決まり通りに生きてさえいればいい――皮肉げに冷笑したヒゼキヤの弟子であるその青年、ジムリ・ベン・ロトは説法の邪魔にならないようそっと外へ出ると、瞑目して天に祈りを捧げ始める。
「……心得ました。神よ。報復は必ず」
無言のまま祈っていたジムリは顔を上げると、鋭い眼光をたぎらせた目で誓いを立てるようにそう言い、会堂の裏門を出てジュシエル教徒のアラジニア人たちが住む街区へと早足で向かっていった。
「……よし、できたぞ」
エスティム西地区・十七番街にある料理店ハル・マリア。昏睡から覚めたラシードは部下のハミーダとダーリヤを連れてこの店を訪れ、昨日の戦いで壊されたままになっていた店の玄関の扉を新しい物に取り換えていた。釘を刺して扉をしっかりと入口の壁に固定すると、ラシードは完成した木戸を何度も開け閉めして動かし具合を確かめる。
「ありがとうサウロ兄さん。完璧だよ」
「でも、わざわざお兄ちゃんが自分で大工仕事なんてしなくていいのに。それにお兄ちゃんがぶつかって壊れちゃったからお兄ちゃんのせいっていうのも、何か違うと思うし」
名のあるマムルークの将軍が自ら鋸と金槌を振るって店の扉を新調してくれたとあって、いくら血の繋がった実の兄も同然の義兄と言えどもさすがに恐縮してしまうシメオンとミリアムだったが、ラシードは楽しく一汗かいたというように闊達に笑う。
「いや、でも昨日のあの化け物たちに弁償しろなんて言っても無理だろ。それにこういうのは、小さい頃からよく父さんの手伝いをしていて得意だったしな」
店とその周囲を散々に巻き込んで破壊した超人的な怪物同士の戦闘の翌日とあって、店長のシメオンはこの日のハル・マリアをやむなく臨時休業とし、妹のミリアムと共に店の修理や後片づけの作業に追われていた。無惨に全壊してしまった玄関の扉についてはラシードがすぐに私費で新品を用意して自ら取りつけ作業をしてくれたので、店の修理代をどう工面しようか悩んでいた二人としては大変助かった次第である。
「いくら繁盛してると言っても、決して経営が楽なわけでもないだろ? 死んだ父さんが開いた、俺にとっても愛着のある店なんだ。これくらいは手伝わせてくれよ」
「兄さんは相変わらず優しいな。助かるよ」
ラシードの厚意に素直に感謝することにしたシメオンは、穏和で優しげな笑顔を急に曇らせ、昨日からずっと気になっていたことを義兄に訊ねた。
「ねえ兄さん、昨日のあのライオンみたいな怪人の姿は一体何なの? それに、暴れていたあの蜘蛛や猪みたいな奴らといい、僕らのために戦ってくれた赤い豹みたいな女の人といい……」
「何なのと訊かれてもな。俺にもよく分からないさ。ただあの蜘蛛のような怪人によれば、俺たちのあの姿はどうやらゼノクと呼ぶらしい」
「ゼノク……?」
シメオンやミリアムにとっても、今までに耳にしたことのない名である。謎めいた不気味さを帯びたその響きに一体いかなる意味が込められているのかは、誰にも分からなかった。
「なあミリアム。ゼノクになった兄さんのこと、怖かったか?」
義妹の目を見ながら不安げにラシードが訊ねると、ミリアムは兄の不安を吹き飛ばすかのように明るい笑顔を見せて答えた。
「ううん。サウロお兄ちゃん、凄く強くて格好良かったよ。私たちのこと、ちゃんと助けてくれたし、見かけは確かに魔物みたいで怖かったけど悪者なんかじゃないよ」
「そうか……良かった」
ラシードにとっては小さい頃から大切にしてきた可愛い妹である。例えゼノクになってもミリアムが自分を恐れたり避けようとしたりはしていないのを確かめて、彼は安堵したように表情を緩めた。
「あの豹のゼノクになった女の人に訊けば、何か分かるかも知れませんね。彼女は明らかに、あの力をかなり前から使い慣れている様子でしたし」
レオパルドスゼノクとなって戦っていたメリッサについてハミーダが口にすると、ラシードも同意してうなずいた。
「そうだな。あいつ、俺に何か大事なことを言いたそうにしてたしな。レオ様、とかよく分からない名前で俺のことを呼んでたが」
そもそもメリッサは敵である神聖ロギエル軍の将であり、この街の内情を探っている密偵でもあるらしいのだが、今のところラシードが詳しい説明を求めることができそうな相手は彼女しかいないのも事実だった。自分のことをレオ様と呼んでいた理由も気になるし、ラシードとしてももう一度彼女に会って話をしてみたい心境なのは確かである。メリッサの話題が出ると、客席の椅子に腰掛けてシメオンが出してくれたハーブ茶を飲んでいたダーリヤが真剣な顔で言った。
「いずれにしても、その女性を放置しておくわけには行きませんね。戦のことを考えれば、彼女が探った情報をアレクジェリア軍の陣に持ち帰る前に捕らえなければまずいことになります」
昨日の事件の際には城にいたためメリッサとはまだ直接会っていないダーリヤにはどうにも事情を把握しかねる女だが、過去に彼女とラシードとの間に何があったにせよ、今は自分たちと戦争している神聖ロギエル軍の一員であるからには敵と判断する以外にないだろう。そうした現実は、無論ラシードもよく理解していた。
「この首飾りが気になっていたようだが、どうなんだろうな。これが何なのかは、実は俺にも分からないんだが」
首に掛けていた金色の宝石の首飾りを見つめてラシードは言った。彼自身は意識が朦朧としていたのでよく覚えていないが、傍にいたカリームとハミーダの目撃証言によれば、レオゼノクへの変身の際にこの琥珀のような小さな石が眩しい光を放ち、何らかの力を発揮してラシードのゼノク化を促したようだったという。
「そもそもこの石は何なんだろうな。琥珀ともどこか違うし、ルビーやサファイアでもないようだし……」
記憶を失う前からラシードが身につけていたこの装身具についても、メリッサは何かを知っている様子だった。敵の斥候として拘束したついでに、これの正体も聞き出してやろうか。彼がそんなことを考えていたその時、街の見回りに出ていたカリームが大急ぎで馬を駆けさせてきて、扉を開けたまま店の入口で話し込んでいたラシードたちの前に跪いた。
「大変です。ラシード隊長。西の九番街に、また魔物が……!」
「何だと……!」
再び出現したゼノクらしき怪人が民を次々と襲っている。ラシードはすぐに部下たちを引き連れ、カリームに案内されて事件現場に急行した。




