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第24話 人外への誘惑(4)

――殺せ。


――打ち砕け。


――破滅させよ。


 傖儜(そうどう)の衝動が、自分をひたすらに突き動かしている。それは禁断の果実を食べたことで体内に宿された、新たなる本能。いや、元々あった人間の忌むべき(さが)を、より激しく燃え立たせるものと言った方が正しいか。


「神に背いた反逆者め。罪をその血に刻み込まれた悪徒め」


 そう叫びながら襲いかかってきた天使の一人を、闘争心に身を任せたレオゼノクは右手の鋭い鉤爪で一撃の下に屠った。緑色の血を噴いて倒れた天使の体が炎上し、炎は楽園を美しく彩る草花の絨毯へと燃え広がってゆく。長く続いた神代(かみよ)の世紀そのものを火葬するかのように、炎は渦を巻き、全てを焼き尽くして灰燼へと帰していった。


「これでいいのよ。よくやったわ。勇者レオニダス」


 炎は禁断の果実を実らせていたセフィロトの樹に燃え移り、激しく炎上させてゆく。一面の火の海の中に立ってその様子を見つめていたレオゼノクに、エメラルドのような美しい緑色の鱗に全身を覆われた竜人が背中から声をかけた。


「これが正義よ。これこそが原初の、正しき世界への回帰なのよ。我々にとっても、あなたたち人間にとってもね」


 竜人は満足げに嗤い、人類と自分たちの双方の種族の歴史を変える大勝利の確約を祝った。このゼノクの力さえあれば、万能の主と己を誇る神すら恐れるに足りない。人々を縛りつけていた重い鎖は今や粉々に打ち砕かれ、時計の針は創世の時代よりも更に過去の原始へと押し戻されようとしている。


「ああ。これでいい。俺はこれでいいんだ……」


 楽園を焼き尽くしてゆく業火を半ば他人事のようにぼんやりと眺めつつ、レオゼノクは自らが犯した罪の呪いを泰然と受け入れた。背神の罪。ゼノクの血。それは彼の子孫たちにも時代を超えて受け継がれることになる、人類の新たな鎖とも言うべき原罪であった――




「っ……」


 悪夢を見ていた気がするが、それがどんな夢だったかは思い出せない。部屋の窓から射し込んでくる眩しい陽光に頬をくすぐられて、ラシードは寝台の上で目を覚ました。


「お目覚めになりましたか? ラシード様」


 汗でびっしょりと濡れたラシードの顔を覗き込むようにして、美しい緑色のアバヤを着た若い女性が明るい声をかけてくる。ダーリヤ・アリージュ。カリームやハミーダと同じくラシードの部隊に属するマムルークで、ラシードが信頼を置いている側近の一人である。


「うなされていたようでしたが、大丈夫ですか?」


 ここはエスティム城の中にあるラシードの私室。自分がどうしてここにいるのか、眠りから覚めたばかりのラシードはすぐには思い出せなかった。


「もう、びっくりしましたよ。ラシード様、まるでライオンみたいな怪物に変身したってハミーダたちが言うんですから」


 不言色に輝く鎧を纏った、獅子のような戦士。確かに自分はそんな姿になっていたのだと、言われて初めてラシードはあの時のことを明確に思い起こした。あれは夢だったんだと言われれば納得してしまいそうになるような、常識を超えたとんでもない怪異。だがダーリヤの反応を見るに、彼が魔人の姿になっていたのは紛れもない現実だったようである。


「蜘蛛みたいな敵の怪物が逃げた後、倒れて気を失われて、それでハミーダとカリームにこの城へ運び込まれたんだそうです。それからもう丸一日経って、今は次の日のお昼ですよ」


 そんなに長い間、昏睡していたのか。ダーリヤに手渡された手拭で顔の汗を拭きながら、ラシードは自分の身に起こったあの信じ難い超常現象を改めて頭に思い巡らして嘆息する。


「その……俺が怪物になったことは、皆は知っているのか」


 ふと不安になってラシードが訊ねると、ダーリヤは安心するよう促すように笑顔で首を横に振った。


「いえ。ハミーダとカリームが私にだけこっそり話してくれましたけど、それ以外はまだ誰にも。勝手に言ってしまっていいのかどうか、私たちにも分からなかったですし」


「俺にも分からないさ。もし言ったところで、簡単に信じてもらえるとも思えないがな」


 これは誰にも秘密にすべき事柄なのか、それとも包み隠さず公表してターリブや都にいる国王らにもきちんと報告すべき事案なのだろうか。それはラシードにも判断しかねたが、ひとまず自分が眠っている間にカリームたちが口外を保留しておいてくれたのは適切だったと言えるだろう。人間の怪物化などというこの常識外れの事象をどう扱うべきかは、慎重に熟慮した上で決めなければ周囲のどんな反応を招くか分かったものではない。


「ただ、街に怪物が出現したこと自体は、目撃者も大勢いますし隠せるものではないと判断してターリブ卿らに報告することにしました。城壁を越えて侵入したのと同一と見られる赤い豹の魔人が、暴れていた猪の魔人を殺害して蜘蛛の魔人を撃退した、と。本当は蜘蛛の方はラシード様が追い払ったとのことですが、そこは伏せてあります」


「ああ。それでいい。それなら別段おかしな話には聞こえないだろうな」


 城壁の番兵からも既に出現の報告が上がっていた豹の魔人に全てを押しつけて、辻褄を合わせておいたのはなかなか上手い説明と言えるだろう。ダーリヤの報告に、ラシードは大きくうなずいて彼女らによる処理の方法を事後承諾した。


「ラシード様の容態については、外傷はどこにもないようだったので脳震盪のようだとターリブ卿らには報告してあります。私は医術の心得もありますから、軍医の診察なども私がやるので全て無用と断りました」


 スースゼノクの牙で心臓を貫かれ、ハル・マリアの厚い木製の扉を突き破って店の床に叩きつけられたラシードは全身傷だらけだったはずだが、全て変身の際に完全に治癒している。恐らく、回復魔法が自動的に発動して傷を癒したのだろう。戦闘後に意識を失ったのは、魔力の消耗による極度の疲労が原因であった。


「俺が眠っている間に、全て完璧に対応してくれたようだな。さすがお前たちだ」


 頭の回転が速くて機転が利くダーリヤは、こういう時にはとても頼りになり安心して仕事を任せられる。自分が眠っている間に部下たちが見せてくれた有能さに感心と感謝をしつつ、大きく伸びをしたラシードは寝台から下りて立ち上がった。


「もう大丈夫なのですか? ご無理は禁物ですよ」


「ああ。すっかり元気だ。この戦時下、しかも得体の知れない化け物どもが街に出没している大変な時に、いつまでも呑気に寝てなどいられないよ」


 蜘蛛のような魔人は結局、止めを刺せずに逃がしてしまったし、その前からの懸案だった謎の連続殺人事件についても未だ解決を見ていない。彼らがあの恐るべき力でまた街の人々を襲う可能性を考えれば、このまま放置してはおけなかった。


「まずは、あいつらの店を見に行かないとな。かなり被害があったはずだから、あの後どうなったかな……」


 戦闘に巻き込まれてあちこち破壊されてしまったシメオンたちの店は、あれから一夜明けてどうなっているだろうか。心配になったラシードは、すぐにハル・マリアをもう一度訪れてみることにした。

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