第22話 人外への誘惑(2)
「待て! この泥棒め!」
「けっ、捕まってたまるかよ」
大声で叫びながら息を切らして追い駆けてくる中年の店主を嘲笑うように、ウマル・ザーヒルは礼拝堂の前の街路を走って逃げながら吐き捨てた。
彼は貧しいアラジニア人の若者である。生来粗暴で、犯罪に手を染めたいという誘惑は以前からあったが、つい先日、その背中を押されるような特別な体験をしたことで彼はとうとう強盗を決意した。買い物客で賑わう朝の市場に乱入して果物屋を襲ったウマルは、売り上げの銅貨が入った大きな壺を奪ってその場から逃走したのである。
「止まれ! 憲兵だ!」
騒ぎを聞いて駆けつけた二人のアラジニア軍の憲兵が、曲刀を構えてウマルの前に立ち塞がる。進路を塞がれて足を止めたウマルは盗んだ銅貨の入った壺を庇うようにして胸に抱えたまま、にじり寄ってくる憲兵たちと睨み合いながらじりじりと後退した。
「この野郎! 俺の金を返せってんだ!」
憲兵たちに前進を阻まれたウマルに、果物屋の店主の男が追いついてきて背中から怒声をぶつける。前後から挟まれて逃げ場を失ったウマルは、大人しく投降するよう憲兵たちに促されると不気味な高笑いを見せた。
「莫迦め。お前ら如きが、この俺を止められると思うなよ。――変身!」
肩を揺らして嗤うウマルの全身が燃えるような光に包まれ、それが次第に実体化して、甲殻類の体表を思わせるごつごつとした赤紫色の外骨格が生成される。彼の両手は巨大な鋏と化し、顔には蟹の頭部を模した禍々しい仮面が装着された。ウマルは海に生息する楚蟹の化身・カンケルゼノクに変身したのである。
「ば、ば、化け物だぁっ!」
果物屋の主人が驚いて腰を抜かし、二人の憲兵も恐るべき怪人の出現に慄いて後ずさる。左手で壺を抱えたカンケルゼノクは右手の大きな鋏を振るい、勇気を振り絞って斬りかかってきた憲兵の一人を弾き飛ばすと、続けて突っ込んできたもう片方の憲兵の胴体を挟み込んだ。
「ぐぁぁっ!」
「こんな力に目覚めちまえば、憲兵だろうがマムルークだろうがもう怖くなんかねえ。強盗も殺人もやりたい放題ってもんだぜ」
鋏が喰い込んだ両脇から血を流して悶える憲兵を冷ややかに嘲笑しながら、カンケルゼノクは右手に力を込めて彼の体を真っ二つに切断しようとする。だがその時、不意に飛んできた赤い超高熱の光の矢がカンケルゼノクの肘に命中して爆発を起こした。
「くっ、誰だ!?」
反射的に鋏を開いて憲兵を放し、白煙を噴き上げる右腕を押さえて振り向いたカンケルゼノクは、突き出した右手をこちらに向けながら指を差すように立っている赤い豹のような獣人の姿を見て息を呑んだ。レオパルドスゼノクに変身したメリッサが、指先から放った攻撃魔法の光線で遠くからカンケルゼノクを撃ったのである。
「俺みてえな力を持った奴が、他にもいたのか」
「あら、何も知らないのね。私たちの仲間は、世界中にそれなりにいるのよ」
一見して自分と同種だと分かる魔人の出現に驚くカンケルゼノクに、レオパルドスゼノクはどこか自慢げにそう言うと、口に生えている鋭い牙を剥きながら近づいていった。
「ひええっ! また怪物がぁっ!」
「怖がるのも無理はないわね。死ぬのが嫌なら早く逃げなさい」
恐怖に震えて叫ぶ果物屋の男を一瞥してそう声をかけながら、彼のすぐ目の前を通り過ぎてレオパルドスゼノクはカンケルゼノクに接近する。カンケルゼノクに殴り飛ばされて倒れていた憲兵がその間に痛みを堪えて立ち直り、錯乱する果物屋の店主と負傷した同僚を助け起こして離れた建物の陰に退避させた。
「たぁっ!」
レオパルドスゼノクは三人が避難したのを見届けると一気に加速し、疾風の如く接敵して右手の爪でカンケルゼノクを攻撃した。横薙ぎに振られたカンケルゼノクの鋏の下を潜り抜けるようにしてかわし、相手と入れ替わって思惑通りの位置関係を取ることに成功したレオパルドスゼノクは、カンケルゼノクが片手で抱えていた壺に狙い澄ました右足の一撃を当て、憲兵たちが隠れている方向へとその壺を蹴り飛ばす。
「お、俺の金……!」
「てめえ、よくも!」
咄嗟に物陰から飛び出した果物屋の店主は、自分のすぐ前に転がってきた壺とその中からこぼれ落ちた数枚の銅貨を慌てて拾うと、また素早く物陰に逃げ込んで身を隠した。激昂したカンケルゼノクは両手の鋏をレオパルドスゼノクに向け、凶暴な殺意を剥き出しにする。
「せっかく手に入れた、人間を超えた凄まじい力だ。これが一体何なのかは知らねえが、この力さえあれば俺は強盗だけで一生食っていける。何なら、貴族や大富豪から金を奪って億万長者ってのも夢じゃねえな」
身勝手で短絡的な思考そのものだ。唾棄するように小さく舌打ちしたレオパルドスゼノクは長いナイフのような鉤爪で、カンケルゼノクの武器である大型の鋏と切り結んで押し合った。
「この力について詳しく知らないのは、私も同じだけどね。どうせ強くなったのなら、もう少し気高い志のために自分を役立てたいものだわ」
「例えば、俺を倒すこととか、か? やれるもんならやってみろ」
「ええ。そうさせてもらいましょうか」
言うが早いかレオパルドスゼノクが蹴り上げた右足を、カンケルゼノクは左手の鋏で挟み込んで捕まえる。片足を上げた体勢のまま動けなくなったレオパルドスゼノクの足首を切り落とそうと、カンケルゼノクは鋏に力を込めた。
「くっ……!」
「さあ、もうすぐ足がもげるぜ」
鉄をも斬断する切れ味抜群の鋏が外骨格の装甲に喰い込み、レオパルドスゼノクの右の足首から火花が散る。だが痛みに耐えたレオパルドスゼノクはもう一本の足で地面を強く蹴って身を宙に浮かせると、勢いよく振り上がった左足の爪でカンケルゼノクの体を下腹部から顔面にかけて斬り裂きながら軽やかに宙返りした。
「てめえ……!」
「あなたみたいな卑しい泥棒風情にやられるわけには行かないのよ。この私はね!」
挟んでいた相手の右足を放し、よろめいて後ろへ数歩下がったカンケルゼノクに、華麗な空中回転を披露して着地したレオパルドスゼノクは魔力を帯びた必殺の飛び蹴りを浴びせて一気に勝負を決めようとする。だが彼女の右足に充填された魔力が眩しい赤色の光を放ち始めたその時、突如として横から飛んできた黒い光の刃が両者を同時に襲った。
「ぐぁっ!?」
「うっ!」
レオパルドスゼノクとカンケルゼノクの装甲に、飛来した闇色の錐のようなその刃が突き刺さって爆発を起こす。衝撃で二人は弾き飛ばされ、共に倒れて街路の石畳の上を転がった。
「これは……毒だわ!」
「何だと」
光の刃が当たった胸の装甲の表面に、黒い液体が付着しているのを見てレオパルドスゼノクはぞっとした。もし外骨格を貫いて肉に達していれば即死しかねない、蛇のものに似た猛毒である。標的に命中して破裂した光の刃が、瞬時に毒液へと変わったのだ。
「光熱で突き刺してから、できた傷口に毒を塗り込むという術かしらね。恐ろしい魔法だわ」
「畜生、どこにいやがる!」
しばらく周囲を見回していたレオパルドスゼノクとカンケルゼノクは、やがて敵の気配を感じ取って同時に同じ方向へと視線を向けた。街路に面した小さな空き地に積み上げられている、大人の背丈の二倍ほどの高さの石材の山。その後ろに、薄気味の悪い瘴気のような魔力を帯びた何者かが潜んでいる。
「たぁっ!」
空き地に向かって駆け出したレオパルドスゼノクは跳躍すると、蹴りの一振りで石材の山をまるで積み木のように蹴り崩した。綺麗な直方体の形に切り揃えられて積まれていた無数の重い石がまとめて吹っ飛び、その陰に隠れていた向こう側の景色が露になる。ところが、そこに確かにいたはずの敵の姿はどこにもなかったのである。
「逃げられたわね。一体何者だったのかしら」
自分やカンケルゼノク、また昨日戦ったスースゼノクやアラーネアゼノクらともどこか異質な、底冷えを誘われるような不気味な魔力を帯びた敵だった。奇襲を浴びせてきた相手の姿を目にすることもできずに取り逃がしてしまい、レオパルドスゼノクは悔しそうに歯噛みする。
「残念だったな。それじゃ、こっちも逃げさせてもらうぜ。あばよ」
「あっ! ちょっと!」
レオパルドスゼノクが自分の傍から離れた隙に、カンケルゼノクはそう言い残すと踵を返し、素早く裏小路へと逃げ込んで姿を消してしまった。
「全く、困った奴だわ」
盗まれた銭も無事取り返せたわけだし、自分にとっては必ずしも倒す必要性のある相手ではなかっただけに、敢えて追う気にもなれなかったレオパルドスゼノクは呆れたように溜息をつきながらそのままカンケルゼノクを見送った。
「お、お前は何者だ……!」
「ラシード将軍はまだ戻ってないの? だったら話すことは何もないわ」
アラジニア軍の憲兵隊など相手にしてはいられない。物陰から出て来て曲刀を向け、震える声で問いかけてきたその兵士に、レオパルドスゼノクはあしらうようにそう言い捨てると大きな煉瓦造りの商店の屋上にひらりと飛び乗り、その向こうへ下りて行方を眩ませたのであった。




