はじまり
世には、多種多様の生き物が暮らしている。
人間、動物、虫、目に見えない小さな生物まで。そのほとんどが、己の、命という砂の落ちていく砂時計を持ち、最後の砂が落ちきるまでその生を全うする。
これは、摂理。自然という物が存在し続ける限り、決して朽ちることの無い掟なのだ。
言ってしまえば、生き物は皆寿命という足枷を、この世に生を受けた時点で嵌められているのだ。
強固な鎖で繋がれた命は、足掻こうともその摂理から逃れることは出来ない。
されど、世には多種多様の生き物が暮らしている。
その足枷を、嵌められなかった者は。
一体どこへ向かい、何になると言うのか。
生物の輪廻を超えた物は、その先どう生きていくのか。
それは、言葉通り神すらも知る余地のない。
なぜならば、自然の摂理からの逸脱は。
禁忌以外の何でも無いのだから。
その魔女は、死という物から最もかけ離れた存在。
されど、誰よりも死を望む。
悠久の時を生きる魔女は、死を望む。
――
雨が滴る昼下がり。
傘もささずに全身を濡らした少年は、足元に溜まった水溜まりに写る自分の顔を見て鼻を鳴らして一言呟いた。
「ひっでえ顔」
ここ数日間、自分を眺める機会なんて無かった。
「………………」
静寂。
聞こえるのは、雨が屋根を伝い大地に滴る静かな演奏曲のみ。
派手でも無く、静か過ぎる訳でもない。
最高の鎮魂歌じゃないか。
ようやく、この腐った世界に別れを告げる事が出来る。
「さようなら、クソッタレな世界」
最後の言葉が、悪態なんかでいい物だろうか、と胸の内で思ったがそれ以外に言葉が見つからず、思わず苦笑が漏れる。
大きく、宙に向けて一歩を踏み出す。
その一歩は、どこにも触れること無く重量に引かれ、体もろとも大地に誘う。
死ぬ間際、時がゆっくりに感じる、なんて聞くけどそんな事は無い。体が自由落下を行う時間はほんの一瞬で、一度瞬きをすれば雨に濡れた大地は文字通り目と鼻の先程の距離にあった。
っ――――――――。
――――――――――――するよ。
誰かの声が聞こえたような気がした。
走馬灯だろうか?そんなものが死に際に聞こえるほど、この世界に恩は感じていなかったのだが……。
刹那、視界が真っ黒に染まり全身から感覚と思考が消滅する。
嗚呼、こんなにも。死というのはこんなにも一瞬なのか。刹那の出来事なのか。
痛みすら、まともに感じていない。
これなら、もっと早く……。
――
カラン、ドアの縁に括り付けてある幾つかの鈴が互いにぶつかり合って、ドアが開かれた事を音で知らせる。
「お疲れ様です、戻りました」
「どうもー」
店の奥、煤けたカウンターテーブルの奥から気だるげな声が聞こえる。と、同時に手だけがカウンターから頭を出し、色白いその手が左右に振れた。
「全く、客商売なんですから真面目にやって下さいよ」
「んん?あー、君か。君なら良いじゃないか、客でも無いんだし」
店に入ってきた男が呆れたかのように小さくため息を吐くと、今度はカウンターから頭が生えた。
色の抜けた真っ白な髪の毛を掻き分け、瑠璃色の目が顕になる。
「俺だから良かったんですよ。それが客だったらって話で……」
「細かいこと気にしてたら長生きできないよー。早死しちゃうよー」
「それをあなたが言いますか……」
彼はガックリと項垂れ、びしょびしょに濡れた外套を脱いだ。
「うっわ、びっしょびしょじゃん。雨降ってたの?外で絞ってきてよ?」
「……………………」
彼は薄目でカウンター越しに頭の出ている白髪を睨み付けた。
「…………俺は、今すぐこの外套をあなたの頭の上で絞りに行ってもいいんですよ」
「…………おっかないこと言うね。風邪でも引いたらシャレになんないよ?」
「シャレにならないようにしましょうか?」
無言のせめぎ合いが始まる。
「……」
「……」
やがて、数秒の後に白髪が折れた。
「分かった分かった。ほら、こっち来て。ちゃっちゃと乾かしてあげるから」
「分かればいいんですよ」
男は、びしょ濡れの外套を小脇に抱え、カウンターの奥でだらしなくひっくり返っている白髪の元へ足を運んだ。
「ほら、体出して」
「はい」
色白で細い指がニョキっと突き出され、一歩前に出た男の体に人差し指が触れる。
「最初から素直にそうしていてくれれば……っ!?」
刹那、人差し指が男の顔面へと向けられ、そこへ高圧の水流が放出される。
「………………」
「あっはっはっはっ……!!その顔!!そう簡単に僕が君の体を乾かすと思った!?思ったよね!?」
「………………」
腹を抱えてカウンター内を転げ回る白髪。しかし、ふと男に視線を戻すと彼が無言で拳を握り締め、わなわなとそれを震わせているのを見て、ヒュッと背筋に悪寒が走った。
「…………あの、乾かすから……、ごめんって……」
流石にそれ以上はまずいと感じたのか、白髪は獰猛な犬を宥めるかのようにして再び手を彼に向かって伸ばし、そっと温風を吹きあてその濡れた体を乾かした。
「次やった時は覚悟しておいて下さいよ。俺もその時は自制できないですから」
「……ハイ」
すっかり乾いた照りのある黒髪を掻き上げながら、鋭い眼光で男は言った。
白髪はすっかり怯えた小動物のように「もうしません……」とフルフル震えながら縮こまっていた。
「で、頼んでいた物ですけど」
彼は先程までの鬼のような形相から落ち着いた表情に切り替え、外套と共に小脇に抱えていた小袋を取り出した。
「おーおー、ありがとうありがとう。丁度在庫が切れててさ」
白髪は立ち上がり、カウンターテーブルからヨタヨタと出てきてその小袋を受け取った。
彼女の身長は、差程大きくは無い。一般成人男性の平均身長ほどである彼の胸元に頭のてっぺんが当たる位である。
絹のように細く滑らかな白髪が、腰の辺りまで伸びており、その隙間からは瑠璃色の瞳が覗いている。右目は髪が掻き分けられ、そこから垣間見えているのだが左目は髪に完全に隠れていて見ることは叶わない。
一方男は、先程も述べたように彼女を胸元に置く程度の身長。低い訳でもないし、高いかと言われればまあ高いか、という位である。
艶のある黒髪を伸ばしており、後頭部でひとつに纏めている。少し鋭い目は薄らと黒に紫色が混じっていた。
彼女は小袋の封を開け中を覗いた後、おもむろに顔を袋に顔を突っ込み、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「っーーーはあっ!!キクぅぅ~~!!」
「ただの珈琲豆で何を大騒ぎしてるんですか」
「ああー!煎りたての珈琲豆の香りを分かってないな!?いやはや、これ程までに馨しい香りがこの世にあるだろうか……」
袋から顔を放し、豆をひとつつまみ上げて口に運ぶ。
「美味しい珈琲の豆はそのまま食べても美味しいからね。ううん、美味しい……、美味しい……。渋」
「見栄は張らない方が良いですよ」
「張ってないし!?これが珈琲通の楽しみ方だし!?」
そういう事言うなら珈琲淹れないぞ?と、彼女は小袋を抱えてカウンターの裏に戻り、子供のような無邪気な表情でミルの中に豆を流し入れ、ガリガリと挽く。
「カフェイン中毒で死んでも知らないですよ」
彼がそう言うと、彼女は豆を挽く手を止めボソリと呟いた。
「……。それで死ねたら、僕は本望かな」
彼の眉が、ピクリと動いた。
そしてまたガリガリと豆が弾ける音が店中に響き渡る。
男は、背もたれの無いカウンターテーブルの丸椅子に腰掛け、頬杖を着いて彼女の挽くミルをなんとなく眺めていた。
「砂糖は?要る?」
「いえ、そのままで」
そんな質素な会話が時折繰り返される、この店の日常。
外で迸る雨の音が、よりその静けさを強調しているかのようだった。
――
『ソリシエール』。それがこの店の名だ。
街の外れのジメジメとした場所でひっそりと営まれるこの店は、喫茶店の様でもあり、薬局の様でもあり、はたまたもっと恐ろしいなにかの様でもあった。
要するに、何の店か、当の本人達ですらちゃんと考えていなかったりする。
ふらっと訪れた人に珈琲を出し軽く談笑したり、薬の調合を頼まれたりと、客層も様々なのだ。しかし、場所が場所なだけあって客足はお世辞にも多いとは言えない。
まあ、店主が面倒くさがり屋なのでそこまで繁盛されてもそれはそれで困るのだろうが。
その面倒くさがり屋の店主が、白髪の少女。名をヘイゼルと言う。
絹のように美しく少しクセのある白髪を伸ばし、その髪で片目だけを隠している。その瞳は美しく深い海のような瑠璃色で、肌は日に焼けていないのか色素が薄いのか色白で若干蒼白のようでもあった。基本的には暗くて地味な服装を好んで着るが、そこに大した執着は無く、ただ汚れが目立たないから多少汚しても洗わなくて済む、というズボラな思考故だったりする。その黒い服装の上から時たま白衣のような純白の服を羽織って生活している。白衣を着るか着ないかは完全に気分だそう。
もう片方の男の名は……、不明である。その名はヘイゼルですら知らない。何か事情があるのか、名を持たないのか。そもそも基本二人でいる時間の方が長いが故、わざわざ名前を呼ぶ必要性も無く、気がつけば名を聞く事すら忘れていた、という訳である。
艶のある長い黒髪を後ろで一纏めにしていて、若干紫色の混じる鋭い目が覗いている。身長はそこそこ高く、少なくともヘイゼルよりかは遥かに高い。
黒を貴重としたスーツのような服をピシッと身につけていて、ヘイゼルに合わせて時たま白衣を着る。
たまにカフェとして客が来た時には嫌々エプロンを着させられたりしている。
一件寡黙な様だが、ヘイゼルの使いっ走りにされたり彼女から様々なイタズラを受けている苦労人である。
「雨止むかねぇ」
「どうでしょうね」
カップを片手に頬杖をつき、淹れたての珈琲を小さく口に含むヘイゼル。
鼻をツンと擽る香ばしい豆の香り、ねっとりと舌に重く響く苦味、全てをサラリと流していく水の味。
昔はただの苦汁としか思っていなかったが、いつからかそこに心落ち着く美味しさというものを見出したものだ。その昔がいつだったか、もう記憶の彼方に消えてしまったのだが。
「ジメジメしててやになるよ。そろそろ晴れてくれないかな」
「降らなかったら降らなかったで暑いだの涼しくなれだの煩いでしょう。天気の気のままに任せましょう」
「まあ、そう言われるとそうだね」
おもむろに立ち上がり、窓際の外を眺める。
ガラスに打ち付けられる雨飛沫。店の周りを囲う木々は雨に打たれ、その葉が大きく揺れていた。
ほんの少し窓を開け、外の匂いを嗅ぐ。大雨特有の川のような匂い。この匂いなら、数日間はこの雨が続くことだろう。
「っ、ん?」
「……どうかしましたか」
男がカップを机に置いて立ち上がり、窓際のヘイゼルの脇に止まった。
「匂い嗅いでみて。混じってる」
「……何がですか?」
ヘイゼルがゆっくりと男の方を振り返り、口端を吊り上げながら言った。
「死の匂いだ」
「俺には分かんないですよ、その匂い」
「あ、そうだった……」
ヘイゼルはバツの悪そうな顔をしつつも、口端に浮かび上がった笑みは消しきれずにいた。
「この大雨の中、行くんですか」
「んー、まあ僕ならすぐに乾かせるし。問題無いでしょ。君は休んでて、店奥のベッドで寝てても良いよ。どうせこの雨じゃ今日は誰も来ないだろうし」
そう言うと、ヘイゼルは男の乾かしたばかりの外套を白衣の上から身に纏った。
「じゃあ行ってくるー」
「お気をつけ……る必要は無かったですね。どうぞ、さっさと行ってきてください」
「どうしてそこまで愛想が無いかねぇ」
軽くため息を着きながら、ヘイゼルは店の扉を開けた。
盆を返したような雨が、その先には広がっている。彼女はフードを頭に被り、扉を締めながらその大雨の中に消えていった。
――――
「こりゃ酷い雨だ……」
久しく降っていないと思ったら、天の機嫌を損ねたような大雨。
別に雨は嫌いじゃない。雨の降る世界は、全ての音を消しさり、どこか静かで落ち着くものがある。けれど、あんまり長続きしても腹が減る|。何事も、程々がいいのだ。
「ん、近いな」
少し高い建物が並ぶ住宅街に足を踏み入れると、ツンと鼻を着く匂いがくすぐった。
死の香りだ。
ほのかに甘く、ねっとりとした鈍重な香り。場所も差程遠くは無い。かなり近くで、その香りは発生している。
「ここ、か」
匂いはここから放たれている。
体の芯の奥からゾクゾクと振るわされる馨しい匂いはここから放たれている。
「一体誰が……」
辺りを見回してみても、人影は見当たらない。路地裏にでも誰かいるものかと顔を覗かせるも、そこには人っ子一人おらず、ゴミ箱に顔を突っ込んで中を漁る黒猫が一匹いるだけであった。
「ふぅん……?これは……」
ふと首を擡げる。
雨が入らぬように目を細めて建物の上方を注視する。
「そういう事だね」
ヘイゼルは、ほんの少しだけ口角を吊り上げ、目を見開いた。
今、まさにその建物からひとつの影が、雨と共に大地に降り落ちようとしている。
「見せて貰おうか。命の終わりを」
その影の片足が空を踏み締めた。まるでそれに引っ張られるかのように身が宙を舞い、空中に投げ出される。
しかし、彼女は何もしない。ただ立ち天を仰いでその様子をじっと眺めているだけ。
まるで本当に時間がゆっくりと流れているかのように、スローモーションでその影は落下を続ける。段々と距離が近づくにつれて、その姿が明らかになっていく。
ボロボロの煤けた服に、痩せこけた顔。数日間まともに寝ていないであろう、くっきりと浮かんだ隈。
「その死の恐怖、貰ったよ」
その影が、大地と衝突する刹那。その体は慣性の法則を無視し急停止し、ふうわりとヘイゼルの腕の中に収まった。
「これは……、中々上等だね。感謝するよ」
ヘイゼルは自分の腕の中で眠る痩せこけた少年に向けて軽く笑みを浮かべ、彼の胸にそっと手を当てる。
すると比喩なしでその手は少年の胸の中に沈みこんで行き、ズブズブと沼のように腕が体の中に入っていく。
その腕が数秒後引き上げれた時、彼女の手の中には何か真っ黒な球体の形をした塊が握られていた。
ヘイゼルはその塊を一瞥し、おもむろに口の中に放り込んだ。
――