筋肉第5話 露出狂
日辻山 羊子は夜の住宅街を歩いていた。
学校帰りである。
ふと、前方から誰かが近付いて来ている事に気付いた。
黒いロングコートを着ている。
男のようだ。
じっとこちらを見つめている。
顔からして、歳は40代だろうか。
羊子は不穏な空気を感じて、足を止めた。
すると、男は両手でロングコートの前を掴んだ。
鼻の穴を大きく広げて、にいっ、と笑った。
羊子の全身に、ぞくりと鳥肌が立った。
直後。
ばっ、
という音と共に、男がロングコートの前を勢いよく開いた。
同時に。
「おっと」
聞いた事のある声が聞こえると同時に、羊子の視界が真っ暗になった。
大きくて暖かいもので、顔の上を優しく圧迫されているらしい。
自分の身体のすぐ側に、誰かがいる。
暖かい体温を感じる。
「おい、おっさん」
耳元で声が聞こえた。
羊子の身体が、ぴくりと震えた。
この声は!
「お、鬼木坂さん!?」
羊子の心臓がとくんと跳ねた。
鬼木坂奮子だ。
今、鬼木坂奮子が自分の身体に密着し、あの大きく逞しい掌で自分の眼を塞いでくれているのだと認識した。
「いきなり裸体を見せつけられた女の子は大抵は驚いた表情をする。その反応を楽しんでるんだろうが、やられた方はトラウマもんだ。この先の人生で恋人が出来た時、そのトラウマがいろいろと弊害になる事もある。そういう事を考えた事はあるか? おっさん」
自分のすぐ側で鬼木坂奮子の声がする。
熱い体温を感じる。
なんて暖かいのだろう。
自分の眼を覆っているこの掌は、なんと頼もしいのだろう。
自分の心臓の音が、激しく高鳴っている。
「な、なんだ君は……」
緊張した男の声が聞こえる。
「女子高生だよ。見て分かんだろ。早くその粗末なもんをしまえ」
「く、なんで君に命令されねばならんのだ。私だって、日々様々な重圧に耐えているんだ。これは私にとって大切なストレス発散方法なんだ」
「自分が爽快な気分になりゃ、他人を泣かせても良いのか?」
「そうだ。私は大企業で重要な役職について働いて社会に大きく貢献している。息抜きぐらい、多少ハメを外しても良いだろう」
「てめぇがどれだけ立派な仕事をしてようが、無関係の罪なき女を怖がらせて良いわけねぇだろ」
「私は女の子には指一本触れていない。ただ驚いた顔が見たいだけなんだ」
「それだけでも心に傷を負う女はいるんだよ。身体には触れなくとも女の魂に傷を付ける。優秀な頭があんならそれを理解しろ」
「分かる。君の言っている事は分かる。だが、私は露出をすることによって更に仕事のパフォーマンスがあがるんだ。私が仕事を頑張る事によって社会は潤うんだ。その為に心が傷つく女が多少出ても、それは仕方ない。どんな製品にも必ずロスはある」
「へぇ」
視界を塞がれながら、羊子は鬼木坂奮子の声が僅かに上ずったのを感じた。
声に、感心したような響きがあった。
「あんたはあんたなりの信念を持って仕事と露出をしているわけか」
「ああ。私は私の仕事に信念と誇りを持っている。その質を上げる為に、この露出は必要なんだ。私を通報するか? してみたまえ。私が逮捕されれば、私の会社は信用を失い株価も暴落し、社会にとっては本当に大きな損失になる。私の家族も路頭に迷う。何人かの女の子が路上で私の裸を見るだけで、その経済危機が回避されるんだ」
「あんたに信念があるようにおれにも信念がある。おれは女達を守る。今はこの日辻山羊子を守り抜く。その為にあんたの会社や家族がどうなろうと知ったこっちゃねぇ」
びくりと、羊子は震えた。
今の言葉に、胸がいっぱいになった。
感激が込み上げて来る。
鬼木坂奮子の声が心地良く、暖かい。
「信念と信念のぶつかり合いは、必ずどちらかが敗北する。おれに勝つ自信はあるか? おっさん」
「……」
「あんたはさっき、自分が逮捕されれば家族が路頭に迷うと言ったな」
「ああ」
「その時、あんたの家族はどういう表情をするか想像出来るか? 初めて奥さんと会った時の事は覚えているか?」
「ああ。覚えているとも」
露出狂の男は、過去を振り返った。
初めて妻と出会ったのは大学生の時だった。
一目惚れだった。
猛烈なアプローチの末、交際する事が出来た。
大学を卒業して会社に勤めて3年後、妻の実家に挨拶に行った。
結婚の許しを貰った時、妻を一生守ると誓った。
2年後、長女が生まれた。
それから3年後、長男が生まれた。
それから更に3年後、次女が生まれた。
幸せだった。
妻と子供達をより幸せにしたいと思った。
がむしゃらに仕事を頑張った。
気付けば、同期を置き去りにして出世していた。
スピード出世はしたものの、重圧と責任に何度も押し潰されそうになった。
もうダメだと思った。
そんなある日。
とぼとぼと歩いている時、目の前にいた女子高生だと思われる子が、急に顔を赤らめてそそくさと立ち去って行った。
なんだろうと思った。
その時に、気付いた。
自分のズボンのチャックが全開だった。
恥ずかしいとは思わなかった。
不思議な高揚感を感じた。
それから、その高揚感が癖になった。
日を追うごとに、露出する部分をどんどん過激にして行った。
自分の素肌を見た女子高生達が、なんとも言えぬ表情で逃げる。
時には罵倒して来る。
たまらなかった。
睡眠よりも、体力と精神力が回復する気がした。
仕事のパフォーマンスも大変素晴らしいものになり、自分の企画が会社を大きく発展させた。
だが。
もし。
自分が捕まったら。
自分を慕ってくれている部下達は、どうなる。
あいつらにも、守るべき家族がいる。
そして、私の妻と子供達。
どうなる。
どんな顔をする。
どんな人生が待ち受ける。
あの時。
妻の両親から、娘を頼む、と言われた時。
なにがあっても守ると、誓ったのではなかったか。
長女が小学生の頃、パパのお嫁さんになりたい、という作文を人前で読んでくれて、涙が止まらなくなった。
長男が中学生で反抗期真っ最中だった時、ある日を境に急に猛勉強するようになった。
どうしたのかと聞いたら、俺も親父のようになりたい、と言った。
現在女子高生の次女は、ついこの間、手作りの弁当を照れ臭そうに渡して来た。
不慣れな料理を一生懸命作ったのだと、妻から聞いた。
私が、露出狂だと、家族が知ったら。
私が、逮捕されたら。
家族は……。
「うっ……すまなかった。そこの、きみ。日辻山さん……と、いったか。本当にすまなかった」
「え?」
羊子は困惑した。
男の声が、涙声になっていた。
「そこの、マッチョなきみ。もう二度としないと、約束する。どうか、見逃して貰えまいか」
「いいぜ。さっさと消えな」
「ありがとう。目が覚めたよ。ほんとうに、ありがとう」
「仕事、頑張んな。家族の為に」
「ああ」
革靴の音が、遠くに消えていくのを感じた。
男が去って行ったのだろう。
「鬼木坂さん。ありがとう」
羊子は、自分の眼を覆っている大きな掌に触れた。
自分の顔から離そうとした。
早く、奮子の顔が見たかった。
「また、明日な」
そう聞こえた時。
ぱっ、と、視界が広がった。
つい今まで密着していた熱い身体が、一瞬にして自分から離れていた。
「待って……鬼木坂さん!」
羊子は、辺りを見回した。
鬼木坂奮子の姿は、どこにも見当たらなかった。
翌日。
教室で鬼木坂奮子の姿を見た時、羊子はどきっとした。
緊張する。
だが、どうしても伝えたい事がある。
「あの、鬼木坂さん」
逞しい背中に声を掛けた。
奮子が振り向いた。
「昨日は、ありがとう」
羊子は頬を赤らめて、上目遣いに言った。
すると奮子は、右手の親指を立てて、にっと、笑った。
その笑顔を見て、羊子は優しく微笑んだ。