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筋肉第39話 用務員のお爺さん

 5月最後の週の月曜日。

 校門へと続く桜並木の道を日辻山(ひつじやま) 羊子(ようこ)は歩いていた。

 歩道の脇に植えられた桜の花はほとんどが落ちている。

 羊子はふと、思い出した。

 そういえば以前、鬼木坂さんがひったくり犯を成敗したのは、この辺りだったかな。

 あの大きくて逞しい姿を思い出す。

 

 「ふふ」

 

 自然と、羊子から笑みが溢れた。

 同時に、昨日のあの痛々しい姿を思い出すと、胸を締め付けられるような切なさを感じた。

 いったい何があったのだろうか。

 いったい、誰に。

 そんな事を考えていると。

 ひゅっ。

 という音がした。

 と、同時に、羊子の真横に、大きな影が音もなく軽々と着地した。

 

 「よう」

   

 その影が、羊子に向けて逞しい笑顔を向けた。

 鬼木坂奮子だった。

 昨日まで貼られていた絆創膏や包帯は無くなっていた。

 

 「おっ、鬼木坂……さん……!」

 

 羊子の心拍数が一気に上がった。

 顔が熱い。

 いったいどこから現れたのだろう。

 空から降って来たような気がしたけど。

 

 「奮子で良いよ」

 

 ふいに、奮子が言った。

 

 「え?」

 

 「おれの呼び名」

 

 「え?……えと……奮子……さん」

 

 「おいおい、同じクラスなんだぜ? 呼び捨てで良いよ」

 

 「えと、えっと……奮子……」

    

 羊子は自分の体温が急上昇しているのを感じていた。

 今、自分は奮子の事を呼び捨てにしている。

 身体が熱い。

  

 「そんなに緊張するな」

 

 奮子が穏やかな笑みで言った。

 赤い瞳には、春の日差しのような暖かさがある。

   

 「う、うん。ごめん」

 

 羊子は思わず視線を下げた。

 

 「行こうぜ」

 

 奮子が歩き出した。

 

 「うん」

 

 羊子は視線を下げたまま歩き出した。

 奮子と並んで歩く。

 とても緊張する。

 何か話さなくてはと思う。

 そういえば、昨日まで貼られていた絆創膏や包帯が無くなっている。

 もう治ったのだろうか。

 

 「あの……怪我、大丈夫?」

 

 「ああ。もう治ったよ」

 

 「す、凄い回復力だね」

 

 「まぁな」

 

 柔らかな風が吹き抜けた。

 奮子の赤髪と、羊子の茶髪が風に揺れる。

 奮子の凛々しい横顔を見て、羊子は胸が高鳴った。

 もっとこの人の事を知りたいと思った。

 

 「あの……奮子は……どの辺に住んでいるの?」

   

 「羅生山(らしょうやま)の麓だよ」

 

 「羅生山……」

 

 羊子は瞬間的に頭の中に簡易的な地図を広げた。

 玄米市は海と山に挟まれた市である。

 市の中心部に光芒山(こうぼうやま)があり、市の北の外れに羅生山(らしょうしやま)がある。

 羅生山(らしょうやま)は標高2800メートル超える大きな山岳であり、この山が隣県との境界線のような役割を果たしている。

 そこの麓というと、確か集落があったはず。

 奮子はそこの出身という事だろうか。

 

 「まぁ正確に言うと、麓っていうか山の中なんだけどな」

 

 「そうなの?」

 

 「ああ。今度家に来るか?」

   

 「……うん……うぇっ!?」

  

 羊子は目を丸くして奮子を見た。

 奮子は涼しげに微笑みを浮かべている。

 

 「え……えと……その」

 

 羊子の頭の中が混乱していた。

 今、自分は奮子の家にお呼ばれされたのか。

 嬉しいような、恥ずかしいような。

 何を言えば良いのか分からない。

  

 「ふふ」

 

 ふいに、奮子が白い歯を見せて笑った。

 羊子の心臓が、どきりと跳ねた。

 なんと優しい笑顔である事か。

 この笑顔を、ずっと見ていたいと思った。

 

 「良いところだよな、玄米市は」

 

 突然、奮子が言った。

 

 「……え……う、うん」

  

 羊子は自分の顔が赤くなっているだろうなと思った。

 だって、顔が凄く熱いから。

 

 「海もあって山もある。発展している街は割と都会だし、市の外れにはのどかな田舎が広がっている」

 

 「……うん。そ、そうだね」

   

 羊子の胸を多幸感が満たしていた。

 このままずっと、2人で歩いていたいと思う。

 気付けば2人は学校の校門に差し掛かっていた。

 すると、羊子の視界にとある人影が映った。

 竹箒を持った作業着姿の老人である。

 老人は、次々と登校してくる生徒達とにこやかに挨拶を交わしていた。

 

 「あ……用務員のお爺さん」

 

 羊子がその老人を見ながら言った。

 羊子が知る限り、この老人の名前は誰も知らない。

 用務員のお爺さん。

 みんな、そう呼んでいる。

 

 「おはようございます」

 

 羊子が老人に向けて挨拶をした。

 

 「やぁ。おはよう」

 

 老人がにこやかに挨拶を返した。

 若々しく活力が漲っており、一切のひ弱さを感じせない老人だった。

 髪も眉毛も髭も白いが、背筋が伸びており、肌も健康的である。

 足取りもしっかりしている。

 それに、ツバを後ろ向きにする帽子の被り方が、より一層若々しさを感じさせている。

 

 「ざーす」

 

 奮子が老人に挨拶をした。

 老人がにこやかに奮子を見上げた。

 奮子の身長は195センチ。

 老人の身長は165センチである。

 

 「やぁ、おはよう」

  

 白い眉毛の下で、老人の目が細まっている。

 その老人の横を、羊子と奮子が通り過ぎようとしたその時。

 

 「調子はどうかな? 鬼木坂くん」

 

 老人の穏やかな声が、羊子の耳にも届いた。

 羊子は思わず老人を見た。

 老人は笑みを浮かべて奮子を見ていた。

 奮子も老人を見ている。

 

 「まぁまぁだな」

   

 奮子が呟くように応えながら、歩を進めた。

 

 「そうかね」

 

 そう言うと、老人は竹箒で掃除を再開し始めた。

 

 「……奮子、用務員のお爺さんと知り合いなの?」

 

 思わず、羊子は聞いていた。

 

 「まぁな」

 

 奮子は短く応えた。

 気にはなったが、羊子はそれ以上追及しなかった。

 2人はそのまま、学校の昇降口へと向かって行った。

 

 「ふふん」

 

 老人は奮子と羊子の背中を見ながら、小さく笑った。


 

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