筋肉第32話 奮子
街の雑路を歩きながら、奮子は自分を尾行している何者かの気配を探っていた。
15分程前に高校の昇降口を出た時から、尾行されている気配には気付いていた。
玄米女子高等学校の関係者である事は明らかである。
奮子は歩きながら、背後の感覚を研ぎ澄ませて行く。
すると。
尾行者の気配が、ほんの僅かに変化したのを感じた。
奮子が気付いた事に、尾行者も気付いたようである。
「……」
奮子は薄く笑った。
自分が気付いた事に、尾行者は気付いた。
それでも尚、相手は追い掛けて来る。
そして、背中に感じる敵意。
間違いない。
尾行者は、自分との戦闘を望んでいる。
奮子の向かう先は、徐々に徐々に人が少なくなって来る。
それにも構わず、尾行者は追って来る。
やがて、解体工事中の建物の工事現場にやって来た。
作業員は1人もおらず、立ち入り禁止の養生がなされている。
その区画内に堂々と侵入し、工事現場の敷地内で、奮子は歩みを止めた。
そして、後ろをゆっくりと振り向こうとしたまさにその瞬間。
「2人っきりですね。鬼木坂奮子さん」
奮子のすぐ背後で、声がした。
声の主が背中に密着しているのではと感じられる程、近い距離から聞こえて来た。
声がすると同時に、奮子は振り向き様に裏拳を放っていた。
「ぬんっ」
奮子の右の裏拳は何もない空間を切っていた。
裏拳が通り過ぎた軌道のすぐ下に、赤いシルクハットの先があった。
そしてその赤いシルクハットを被った何者かは、身を屈めたまま瞬時に後ろに跳躍して奮子との距離を取った。
奮子はたった今新たに現れた敵を見つめた。
赤いシルクハット。
道化師の面。
赤いロングコート。
赤い手袋。
赤いハイヒール。
「現れたな。赤帽子か」
奮子が僅かに上ずった声で言った。
口元がどこか嬉しそうな形になっている。
あそこまで接近されるとは。
間違いない。
強敵だ。
そう思ったら、自然と笑みが浮かんだのである。
「はい。どうぞよろしく。鬼木坂奮子さん」
赤帽子は右の掌を自分の腹部に当てて、丁寧にお辞儀をした。
「獅子崎礼央から聞いたぜ。お前の口からおれの名前が出たそうだが、お前は誰なんだい」
ふいに奮子が言った。
「ふふ。仮面取りましょうか」
「そうして貰えると助かるんだがな」
「自力で取ってください」
そう言って、赤帽子は僅かに腰を落とした。
その赤い全身から闘気が迸った。
奮子も僅かに腰を落として、赤帽子を見つめた。
奮子と赤帽子。
両者の間の空気が、瞬時に張り詰めた。
「鬼木坂奮子さん」
「なんだ?」
「貴女、本当に素敵ですよ」
「……」
奮子は無言で赤帽子を見つめた。
何か違和感を感じたのである。
赤帽子が発している雰囲気や気配は明らかに初対面の人間のものなのだが、その中に間近で嗅いだ事のある匂いが仄かに香った気がした。
奮子は赤帽子の姿を観察した。
体格は細身。
身長は170センチ程。
しかし高さのあるハイヒールを履いている為、実際の身長はもっと低いはず。
赤いシルクハットをしっかり被っている為に、髪の毛は見えない。
無論、道化師の面によって素顔は分からず、変声器が備えられているのか声も分からない。
「そんなに見ないでくださいよ。鬼木坂奮子さん。恥ずかしいじゃないですか」
赤帽子の声に、どこか嬉しそうな響きがあった。
「お前、会ったことあるよな」
「さぁどうでしょう」
「同じクラスじゃねぇか?」
「もしそうなら素敵ですねぇ」
「ふん。まぁいい」
奮子は薄く笑って、右手で軽く前髪をかき上げた。
「まずその面を外そうか」
呟くと同時に、奮子は赤帽子に向かって突っ込んだ。
「うふふ。私、今、凄くドキドキしています」
奮子と赤帽子の身体が激突した。
大気を震わす衝撃波が迸り、すぐ近くにいた立ち入り禁止用のカラーコーンが吹き飛んだ。