筋肉第22話 礼央と奮子
鬼木坂奮子は光芒山公園から夜景を見下ろしていた。
夜風が赤髪をゆっくりと揺らしている。
公園には誰にもいない。
だが。
「ここで良いかい」
ぽつりと、鬼木坂奮子は呟いた。
ゆっくりと後ろを振り向く。
すると。
視線の先、5メートル程離れた場所に。
痩身の女が立っていた。
服装は女子高の制服である。
雄ライオンのたてがみのような茶髪が、風に揺れている。
その顔に、野性味溢れる獰猛な笑みが浮いていた。
獅子崎礼央である。
獣の眼光を光らせながら、声を出した。
「いつから気付いていたんだ?」
すると、ふっ、と、鬼木坂奮子が笑った。
「最初からだよ。そんな闘争心剥き出しじゃあ、嫌でも分かる」
「あたし、気配隠すの苦手なんだよなぁ」
礼央は呟きながら後頭部をぽりぽりとかいた。
「だろうな」
薄く微笑みを浮かべながら奮子が言った。
柔らかい夜風が、2人の間を通り抜けた。
赤髪と茶髪が、ゆらゆらと揺れている。
「獅子崎礼央」
ふいに奮子に名を呼ばれて、礼央は僅かに表情を明るくした。
「街の掃除をえらく頑張っているそうだが、気を付けないと捕まるぞ。近頃は監視カメラも増えて来ている」
それを聞いて、礼央はにぃっ、と笑った。
白い歯並びが月明かりに光った。
「知ってんのかよ」
奮子は答えなかった。
ただ、薄く微笑みを浮かべていた。
「じゃあ、あたしがどういう人間で、なぜお前の後を尾けたか分かるよな?」
「おれとやりたいんだろう」
「ああ。激しくな」
礼央の微笑みが更に獰猛さを増した。
しかしその頬は、ほんのりと紅くなっている。
興奮していた。
「今夜だけだぜ」
奮子が不敵に笑った。
「充分」
言うと同時に、礼央は真っ直ぐに疾っていた。
人間離れした瞬発力だった。
一瞬で、間合いを詰めていた。
詰めると同時に、右脚が跳ね上がっていた。
右足の爪先が、奮子の顔面に襲い掛かった。
奮子は僅かに身体を後ろに下げた。
鼻の1ミリ先を、礼央の右足が疾り抜けていった。
礼央の身体は止まらなかった。
空を切った右脚の勢いを殺さずに、そのまま右脚を地面に着地させた。
同時に身体が反転し、今度は左脚が跳ね上がり、その踵が奮子の胴体を襲った。
右回し蹴りから左後ろ蹴りの流れである。
礼央の左の踵が、奮子の腹の中心を強かに叩いた。
どごっ……!
という、鈍い打撃音が鳴り響いた。
(なんちゅう腹筋!)
礼央は衝撃を受けていた。
稽古でトラックのタイヤに拳や蹴りを放った事があったが、奮子の腹筋はその感触に似ていた。
一瞬の隙をついて、奮子は左手で礼央の左足首を掴んだ。
掴むと同時に、持ち上げた。
礼央の身体が、空中に浮き上がった。
空中にいる礼央の全身に、ぞくりと鳥肌が疾り抜けた。
奮子の左脚から凶々しい殺気を感じたからである。
この怪力野郎は、空中にいる自分に蹴りを放つつもりなのだ。
奮子の左足が跳ね上がり、礼央の顔面に接触する寸前。
礼央は両腕をクロスさせて、顔の前で固定した。
直後。
どごっ……!
という重厚な音が鳴った。
奮子の左足が礼央の腕に衝突した瞬間、礼央の両腕に凄まじい衝撃が襲い掛かった。
全身の骨に響き、肉が震えた。
蹴られた自分の腕が、自分の顔面を圧迫した。
そのまま礼央の身体は、蹴られた方向に吹っ飛んだ。
だが。
空中で礼央は猫の身のこなしで体制を変えると、両方の足の裏で、すとっ、と着地した。
着地しても勢いは止まらず、そのまま後方に一回転した。
そのまま間髪入れずに立ち上がると、一瞬の間も置かずに構えていた。
「ほう」
奮子が感嘆の声を出した。
奮子の5メートル程向こうで、礼央が構えている。
鼻血が出ていた。
だが、楽しそうに笑っている。
両眼は凶暴な光を放っていた。
「やっべぇ、楽しい」
呟いて、礼央は桃色の舌を出して、垂れて来た鼻血をペロリと舐めた。
制服のスカートから覗く太腿に、股間から流れた愛液が伝い落ちていた。
「今度はおれから行こうか」
言うと同時に、奮子が疾った。
一瞬で間合いを詰めると、左脚を思い切り跳ね上げた。
左の上段蹴りが、礼央の顔面に襲い掛かった。
驚異的な反応速度で、礼央は身体を沈めた。
頭のすぐ上を、恐ろしい蹴りが通り過ぎて行った。
礼央がすぐさま攻撃しようとした瞬間。
こおっ……!
という音が鳴ると同時に、礼央は後頭部に衝撃を受けていた。
礼央は眼を見開いた。
何が起きたのか、一瞬で理解した。
奮子は空を切った上段蹴りを、空中で急停止させた。
直後、伸び切った左脚を畳んで、その踵を礼央の後頭部に打ち下ろしたのである。
その衝撃で、礼央は前のめりに倒れた。
だが。
礼央は歯を食いしばっていた。
笑っていた。
倒れる直前に、両手を伸ばして、掌でしっかりと地面を捉えた。
そのまま、逆立ちの姿勢になった。
直後、逆立ちをしながら、両脚を開いて駒のように回転した。
渦を巻く2つの脚が、立て続けに奮子に襲い掛かった。
逆立ち旋風脚である。
「やるな」
奮子も奮子で、その攻撃を避けながら片手側転をした。
くるりと側転して着地すると、礼央との距離が空いていた。
直後、礼央の回転が止まった。
しなやかな動きで、自然と立ち上がっていた。
立ち上がって、構えた。
と同時に。
右手の中に握っていた小石を、奮子の顔面に向かって投げていた。
逆立ちしている最中に、近くにあった小石を握っていたのである。
小石が空中を疾る。
同時に、礼央も疾った。
小石が顔面に向かっている以上、奮子は必ず弾くか防ぐか避けるかの動作をする。
その一瞬の隙をついて、確実に仕留めてやる。
礼央はそう考えていた。
だが。
奮子の行動は、礼央が予期しなかったものだった。
疾って来た小石に向かって、奮子は自分から額を打ち付けに行ったのである。
小石と額が接触する。
その動作が、奮子にとってそのまま踏み込みになる。
右脚を前に踏み込み、左の拳を握り、深く腰を落としていた。
そして、そのまま。
左の中段正拳突き。
奮子の左の拳が、攻撃体勢に入っていた礼央の胴体の中心にめり込んでいた。
「ぐはっ……!」
礼央は口から空気を吐き出した。
一瞬、目の前が真っ白になった。
身体が、「く」の字に折れた。
そのまま、真っ直ぐに突かれた方向に吹っ飛んで行った。
今度は、受け身を取れなかった。
背中から地面に落ちて、そのままごろごろと芝生の上を転がった。
横向きに、止まった。
片手で腹を押さえた。
呼吸が止まっている。
それでもなんとか立ち上がろうとする。
だが、身体が思うように動かない。
奮子が、無言で近付いて来る。
額から細い血が流れていた。
赤い、穏やかな瞳で倒れている礼央を見下ろした。
「強ぇな。獅子崎」
ぽつりと、呟いた。
「けっ……舐めやがって……全然本気出してねぇじゃねぇか……てめぇ」
横向きに倒れながら礼央が言った。
僅かに呼吸が戻って来た。
「最後の正拳突きは、力を込めた。失神すると思ったんだが」
失神を回避する事が出来たのは、礼央の持つ超反射神経のおかげだった。
奮子の正拳突きが放たれた瞬間。
礼央は自分から腹を引っ込めて、自ら身体を「く」の字に折っていた。
勿論、腹筋に力を入れながらである。
考えてやった事ではない。
奮子が腰を落として左拳を握った瞬間、避ける事は不可能と判断した礼央の野性の勘が、少しでもダメージを和らげようとした動きだった。
その動きが、ほんの1ミリ程、奮子の拳の入りを浅くした。
その1ミリが礼央の意識を繋ぎ止めたのである。
「もう、充分だろう」
呟いた直後。
奮子は、ほんの僅かに眼を丸くした。
倒れながらこちらを睨みつける礼央の眼から、涙が静かに流れていたからである。
「くそ」
礼央は歯を噛みながら言った。
悔しかった。
自分から喧嘩を売っておいてこのザマが、堪らなくダサかった。
立ちたくても立てないこの状況が、悔しくて堪らなかった。
そんな礼央の姿を見ながら、奮子は無表情で唇を開けた。
「じゃあな」
そう言って、背を向けた。
すぐに奮子の姿が闇に溶け始める。
やがて、足音も聞こえなくなった。
夜風が柔らかく吹き抜けた。
礼央はその場に仰向けに大の字になった。
満天の星空が眼に映る。
もう、呼吸も整った。
動こうと思えば動ける。
だが、今は星を見ていたい気分だ。
「ちくしょう」
涙はもう止まっていた。
堂々と泣いたら、気分はスッキリした。
「強過ぎんだろ。鬼木坂奮子」
星空を見ながら、1人呟いた。
「獅子崎礼央、3度目の完全敗北を喫する」
自分で呟いた直後、笑えて来た。
「ふふ」
爽やかに微笑みながら、星空を見る。
星空には、2人の女性の姿が浮いていた。
1度目の敗北と2度目の敗北を、自分に味合わせた女達。
そしてそこに、鬼木坂奮子の姿が加わった。
自分が闘いを挑んで勝てなかった3人の女達。
「……誰が一番強ぇーのかな」
柔らかい夜風が、礼央の目の前を吹き抜けて行った。