筋肉第13話 アゲハのママ
朝陽が顔を出し始めている。
蝶野アゲハはアパートの外階段を昇っていた。
玄関の扉を開ける。
鍵は掛かっていない。
玄関に入ると、すぐに居間が見えた。
ざんばらの散らかった黒髪の、痩身の女が座っていた。
その女が振り向き、光の無い瞳でアゲハを見た。
「酒買って来な」
痩身の女は冷たくそう言っただけだった。
「ママ」
アゲハは濡れた瞳を母親に向けた。
「うるさいな。はやく買って来ておくれよ」
母親がそう言った時。
「これからはちゃんと施錠するんだぜ。ママさん」
そんな声が部屋に響いた。
母親が、ゆっくりと背後を振り向いた。
「なんだい、あんた」
母親が冷めた視線を向けた。
鬼木坂奮子がそこにいた。
窓のカーテンが揺れている。
そこから部屋に入ったらしい。
「あんたは幸せ者だな。あんなに優しい娘を持った」
鬼木坂奮子は、菩薩のような表情でアゲハの母親を見つめた。
「あん?」
母親は眉をしかめた。
「部屋は散らかっちゃいるが、ゴミ屋敷じゃねぇし、さりげなく掃除も行き届いている。あんたが飲んで寝てる時、アゲハがきっちり片付けているのさ」
「へぇ」
「アゲハが産まれたときの事を覚えているか?」
「忘れたよ」
「産まれたばかりの小さな手で、あんたの人差し指をぎゅっと握らなかったか?」
「……そんな昔の事、覚えているわけ、ない」
母親の視線が下に下がった。
直後。
鬼木坂奮子の右手が母親の額に伸びた。
人差し指を、親指に引っ掛けていた。
そして。
ピン、と、人差し指を弾いた。
デコピンである。
人差し指と額が接触した瞬間。
一瞬だけ白い閃光が疾った。
母親が吹っ飛んだ。
床をごろごろと転がって、立ちすくんでいたアゲハの足下で止まった。
「ちょ、ちょっと……!」
アゲハは驚愕の表情を浮かべた。
母親の額から血が出ていた。
「これで、大丈夫だ」
鬼木坂奮子がぽつりと呟いた。
アゲハが心配の表情を浮かべながら、母親を抱き抱えた。
「だが、すまん。怪我させちまった。これで勘弁してくれ」
鬼木坂奮子はそう言うと、封筒を机の上に置いた。
厚みがある。
アゲハが何か言おうとしたが、鬼木坂奮子はそれを制した。
「慰謝料だ」
そう言って奮子は窓に手を掛けた。
「はぁ!? ちょっと、待ちなさいよ!」
アゲハが叫んだ。
「今日は日曜日だ。ゆっくりママさんと過ごしな」
そう言うと、奮子の巨体が窓の外にひゅっと消えた。
アゲハが窓に駆け寄った。
外を見下ろしても、鬼木坂奮子の姿はどこにもなかった。
「う」
うめき声が聞こえて、アゲハは母親の方を向いた。
母親が額を抑えて上体を起こしていた。
「ママ、大丈夫?」
アゲハが駆け寄った瞬間、母親が顔を上げた。
「!?」
アゲハは目を見開いた。
母親の両の瞳が澄んでいたのである。
その両目に瞬く間に涙が浮かび始めた。
そして。
「アゲハ!」
母親は娘に抱き着いた。
突然の出来事に娘は硬直していた。
「ごめんね! アゲハ! 本当にごめんなさい!」
嗚咽混じりに、母親は叫んだ。
娘の肩に母親の熱い涙がかかる。
娘の身体が小刻みに震え始めた。
娘の両目からは、すでに涙が溢れていた。
「ごめんね! ごめんね! アゲハ! ごめんね!」
母親は娘の細い身体にしがみついて、わんわんと子供のように泣いた。
娘も嗚咽しながら、母親の細い身体を力いっぱい抱き締めた。
それからしばらく、母と娘は抱擁しながら泣いた。
ひとしきり泣いた後、料理をしようという話になり、食材を買いに近所のスーパーに2人で行った。
従業員募集中、の貼り紙が目に付いた。
店長の男が、声を掛けて来た。
母親の高校の同級生だった。
そして。
母親は、そのスーパーでパートタイムで働く事が決まった。