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筋肉第12話 クズ

 蝶野(ちょうの) アゲハは黒いセダンの後部座席に座っていた。

 手を紐で縛られ、口をガムテープで塞がれている。

 隣に座る名も知らぬ男が、身体を触って来る。

 運転している男が、上機嫌そうに口笛を吹いている。

 

 蝶野アゲハは、大して怯えていなかった。

 いつかこんな日が来ると思っていた。

 それが、たまたま今日だったのだ。

 

 1時間前の事。

 蝶野アゲハは、登録している出会い系サイトでメールのやり取りをした男と会うことにした。

 小遣い稼ぎの為だ。

 メールで、車内で口で奉仕するだけで3万円払うと言われた。

 太っ腹な客だ。

 今日はラッキーだと思った。

 もう今更、自分の身体は綺麗とも思っていなかった。

 

 蝶野アゲハがこのような事で小遣い稼ぎをするようになったのは、中学2年の頃からだった。

 とにかく、金に困っていた。

 友人からこのような小遣い稼ぎの方法を教えて貰って、試しにやってみた。

 思いの外、簡単に稼げる事が分かった。

 それから、金が欲しくなると自分の身体を使って金を稼いだ。

 

 自分は高校には進学しないと決めていた。

 だが、中学3年の冬に、学校からアパートに帰ると、黒いスーツを着てサングラスをした数人の男が母親と何やら話していた。

 どういうやりとりがあったのか知らないが、春から玄米女子高等学校に入学する事が勝手に決められていた。

 入学金や学費はどうなっているのが気にはなったが、何も心配しなくて良いとスーツ姿の男に言われた。


 中学を卒業したらフルタイムで働こうと思っていたアゲハにとって、急な高校進学は衝撃だった。

 余計な事をしてくれた、と思うと同時に、嬉しさを感じている自分もいた。

 働くと決めていたが、心の隅では高校に通ってみたいとも思っていたから。

 

 そして、この春に玄米女子高等学校に入学した。

 スーツ姿の男が言った通り、学費などを請求された事は無い。

 だが、やはり、日々の生活の金、又は遊ぶ為の金は無かった。

 今日は、高校に入学してから、最初の小遣い稼ぎであった。

 

 アゲハは初めてこの小遣い稼ぎをしたあの日から、病気になる事や事件に巻き込まれる事は覚悟していた。

 簡単にお金を稼ぐんだからそのぐらいの代償は当たり前だと思った。

 いつか事件に巻き込まれたら、酷い事をされる前に自ら命を断とう。

 そう思って、バッグや制服のポケットなどに、カッターナイフの刃をいつも忍ばせていた。

 

 そして、ついさっき。

 待ち合わせ場所の駐車場に行くと、メールで言われた通りの黒いセダンが止まっていた。

 近付くと、運転席から笑顔を浮かべた男が降りて来た。

 後部座席でやって欲しいな、と言われた。

 アゲハは後部座席に乗り込んだ。

 男が、隣に座った。

 直後。

 いきなり運転席の扉が開くと、別の男が乗り込んで来た。

 同時に、隣に座った男がガムテープでアゲハの口を塞ぎ、慣れた手付きで両手を縛り上げた。

 すぐに、車が発進された。

 

 驚いたのは一瞬だった。

 アゲハの心はすぐに冷めた。

 ああ、とうとう来たか、と思っただけだった。

 なにも驚く事は無い。

 心配する事も無い。

 車が止まったら、手を縛っている紐は外されるかも知れない。

 そしたら、忍ばせたカッターナイフの刃で、自分の喉を切り裂く。

 苦しいのは数分だろう。

 その数分を耐えれば、やっとこの世界から解放される。

 やっとこの人生を終えることが出来る。

  

 今、隣に座る男が自分の頬や首筋に臭い息を吐いて何か言っているが、何も感じないし何も聞こえなかった。

 

 そして、車が止まった。

 男が、乱暴にアゲハを外に引っ張り出した。

 どうやら林の中らしい。

 人気は無い。

 

 運転していた男が、三脚を立てて、そこにビデオカメラをセットした。

 これから始める事を録画し、その動画を裏サイトに流して金を稼ぐのだろう。

 そう考えた時、アゲハは少し悪戯を思い付いた。

 手が自由になって、カッターナイフの刃で自分の首を切ったら、溢れ出る血飛沫をカメラの画面に当ててやろう。

 この男達はどんな顔をするだろうか。

 死ぬ前の、最後の楽しみが出来た。

 

 「さて、ぶいぶい言わせてやるべ」

 

 1人の男が言って、ズボンのベルトをかちゃかちゃと外した。

 

 「パーティータイムだ」

 

 もう1人の男も、ズボンのベルトを緩め出した。

 その時。

 

 「死ねクズ共」

 

 そんな声が、はっきりと、アゲハの耳に届いた。

 アゲハの眼が、丸く見開かれた。

 2人の男が、同時に後ろを振り向いた。

 直後。

 ごっ……!

 という音が鳴った。

 まず、1人の男の身体が「く」の字に折れて、吹っ飛んだ。

 背中から樹に激突すると同時に、口から大量の血を吐いた。

 更にその後。

 どごっ……!

 という音が鳴った。

 もう1人の男の身体も「く」の字に曲がって吹っ飛んだ。

 背中から樹に激突し、口から赤い血液が噴き出した。

 

 2人の男は樹の根本で、背中を樹に預けて座るような格好で動かなくなった。

 ひゅっ、ひゅっ、と呼吸はしている。

 しかし口からは常に血液が流れており、両眼から涙が流れていた。

 身体が小刻みに痙攣していた。

 

 2人の男の目の前に、巨体が立っていた。

 蝶野アゲハは、その巨体を見て、眼を見開いた。

 クラスメイトの、鬼木坂奮子だ。

 いったい、どうして、ここに。

 

 鬼木坂奮子が、アゲハを見下ろした。

 温もりのある赤い視線だった。

 ゆっくりと近付いて来て、アゲハの口を塞いでいたガムテープを一気に剥がした。

 両手を縛っていた紐を、指で摘んで引きちぎった。

 

 「……」


 奮子は無言だった。

 

 「……」

 

 アゲハも無言で、立ち上がった。


 しばらく、2人は無言で見つめ合った。

 男達の、ひゅ、ひゅ、という弱い呼吸音だけが鳴っている。

 

 「噂は、聞いていたよ。あんたが、正義のヒーローみたいな事をしているって」

 

 先に声を出したのはアゲハだった。

 

 「正義……ね」

 

 ぽつりと言って、奮子は樹の根元にいる男達に視線を這わせた。

 

 「あの男達には、それぞれ1発ずつ蹴りを入れた。内臓破裂を起こしている。もうすぐ死ぬ」

 

 淡々と、奮子が言う。

 さぁ、と、柔らかい夜風がアゲハの巻き髪を揺らした。

 

 「この国の法律じゃ、おれは犯罪者だ。正義じゃない」

 

 「自己満でやってるってわけ?」

 

 「ああ。その通りだよ」

 

 奮子がアゲハを見つめた。

 奮子の赤い瞳には、聖母のような優しい光が灯っていた。

 アゲハは不快だった。

 そういう優しい眼差しを向けられる事が嫌いだった。

 

 「別に、助けてくれなくても良かったのに」

 

 アゲハが冷たく言い放った。

  

 「今、助けなかったら、お前は自分の喉を切っていただろ」

 

 アゲハは僅かに動揺した。

 どうして知っているのだろう。

 カッターナイフの刃が、ちらりと見えたのだろうか。

 そうだとしても、どうして喉を切るとピンポイントで分かったのか。

 

 「あたしが死んだら、あんたに迷惑がかかるの?」

  

 アゲハは平静を装いながら聞いた。

 

 「ああ。迷惑だ。おれを悲しくさせる」

 

 奮子が言うと、ふん、とアゲハは鼻で笑った。

 

 「よく言う。あんたがあたしの何を知るの。友達でも無いのに」

 

 「クラスメイトだ」

 

 「ほんとに自己満ね。ヒーローをしている自分に酔ってる。気持ち悪い」

 

 「どう思われても良い。おれは今日、お前を助ける事が出来て良かったと心から思ってる」

 

 「あたしは他の子みたいに良い子じゃないのよ。売りだって中二からやってるの。今日助かっても、また明日やるわ」

 

 「もっと自分を大切にしろ」

 

 「なんでよ。あたしなんて、生きていようが死んでいようがどっちでも良いのよ。世間にとってはね」

   

 「お前は」


 「むしろあたしは、死んだ方が良い人間なのよ」

 

 「お前は何も悪くない」

 

 鬼木坂奮子のはっきりとした声が、アゲハの腹にずしんと響いた。

 一瞬、アゲハの瞳が揺れた。

 だが。

 アゲハは敵意を剥き出した。

 

 「そういう言葉、もううんざりなのよ」

 

 「お前は、何一つ悪くねぇんだよ。蝶野アゲハ」

 

 鬼木坂奮子の真剣な眼差しが、アゲハの眼を射抜いた。

 瞬間、アゲハの頭の中を、走馬灯のように過去の思い出がよぎり始めた。

   

 物心ついた時から、父親はいなかった。

 母と2人で、狭いアパートに暮らしていた。

 母は夜に仕事に行くため、いつも1人でぬいぐるみを抱きながら眠っていた。

 

 小4の頃。

 今日から父親だよ、と言う男を、母が連れて来た。

 嬉しかった。

 たくさん甘えた。

 母が留守で、父親とアパートで2人きりになった。

 突然、父親が自分を押し倒して来た。

 自分に馬乗りになって、自分の頬に、いきり立つ股間を押し付けて来た。

 とにかく、びっくりした。

 口を開けて叫びながら、顔をめちゃくちゃに振った。

 自分の歯が、父親の肉棒を掠めたらしい。

 父親は悲鳴を上げて、うずくまった。

 しばらくして、父親が顔を上げた。

 ぞっとした。

 血走った眼で睨んでいた。

 怖かった。

 身体が勝手に動いていた。

 裸足で、外に出た。

 泣きながら走っていると、知らないおばさんに呼び止められた。

 次々と大人達が集まって来て、何やらいろいろ聞かれた。

 やがて、おまわりさんもやって来た。

 父親が、おまわりさんに連れて行かれた。

 

 次の日から、母は豹変した。

 よく怒鳴り、よく暴力を振るうようになった。

 

 自分が中学に上がってからは、母は一日中アパートで酒を飲むようになった。

 とにかくお金が無かった。

 学校に黙って、新聞配達のバイトをした。

 稼いだお金は、母の酒代に消えていった。

 

 そして、自分の身体を使う小遣い稼ぎを覚えた。

 なんて割の良い仕事なのだろうかと思った。

 女に生まれて良かったと思った。

 

 たまに、優しい言葉をかけてくる奴がいる。

 優しい言葉が嫌いだった。

 優しい言葉を投げて来る奴は、その言葉を吐いている自分に酔っているだけだ。

 そんな言葉はいらない。

 本当にあんたが優しいなら、金を恵んでくれと思った。

 

 臭いオヤジに抱かれている時。

 強くならなきゃと思った。

 弱いと、母のように何かに依存して潰れてしまう。

 強かに生きなきゃと思った。

 誰にも頼らない。

 一人で生きていかなきゃ。

 

 街中や学校で、楽しそうに笑う同年代の女の子を見る。

 幸せそうだ。

 売春のばの字も知らなさそうだ。

 暖かい家庭で、優しい両親から大切に育てられて来たのだろう。

 羨ましいとは思うが、憎しみは抱かない。

 暖かい家庭に生まれる子もいれば、あたしのような子もいる。

 そういう運命なのだ。

 不公平なのは、至極当然なのだ。

 それで良い。

 

 母はよく、お前なんか産まれてこなきゃ良かった、と言っていた。

 その通りだと思う。

 あたしが存在しなかったら、母はもっと楽しい人生を送っていたと思う。

 あの父親とも、上手くいっていたのだと思う。

 あたしなんかが産まれて来ちゃって、申し訳ないと思う。

 

 今日、車の中で口を塞がれて手を縛られた時、どこか安堵している自分がいた。

 ようやく、この世とおさらば出来る。

 これでもう、誰かに迷惑を掛けなくて済むと思った。

 母も、やっと自由になれると思った。

 そう思ったのに。

 なんて余計な事をしてくれたんだ。

 鬼木坂奮子。

 自己満。

 偽善者め。

 

 「大きなお世話なんだよ。なんなんだてめ」

 

 アゲハの言葉が、途中で止まっていた。

 全身を、分厚い肉で包まれていた。

 鬼木坂奮子が、全身でアゲハの細い身体を抱き締めていた。

 

 「お前は、なにも悪くねぇんだ」

 

 奮子の穏やかな声が耳に入り、腹に落ちて行く。

 自分を包むこの大きな身体が、春の日差しのように暖かかった。

 男に抱かれている時も、こんな温もりは感じた事はなかった。

 未知の感覚だった。

 暖か過ぎて、信じられなかった。

 怖かった。

 

 「離せ!」

  

 アゲハは怒鳴った。

 奮子の巨体を突き放そうとした。

 だが、暖かい巨体はびくともしない。

 

 「離してよっ!」

 

 もう一度叫んだ時、自分の両眼から熱い涙が溢れて来た。

 不快だった。

 悔しかった。

 初めて小遣い稼ぎをしたあの日に、もう泣かないと自分に誓ったはずなのに。

 

 「お前は何も悪くねぇんだよ」

 

 鬼木坂奮子の声が腹に響く。

 同時に、大きな掌で後頭部を包まれた。

 優しく髪を撫でられた。

 男達の髪の触り方とは全然違う。

 心が暖かくなる。

 

 「あんたがあたしの何を知るっていうのよ!」

 

 アゲハは泣きながら怒鳴った。

 敵意を剥き出しにした。

 今、自分を包んでいる温もりが信じられない。

 だから、拒絶する。

 しかし、どういうわけか熱い涙が止まってくれない。

 

 「悲しみに耐えて独りで頑張って来たのを知っている。辛かったよな」

 

 耳元で奮子が穏やかに言った。

 

 「なんでそんな事言うの! あたしは好きで売りしてんの! 辛くなんてなかった!」

 

 怒鳴り叫ぶアゲハの両眼から涙が滝のように溢れていた。

 泣きながら、歯を食いしばっていた。

 大量の涙を流しつつも、その眼には闘争心が宿っていた。

 

 「もういいんだ。もう男達の相手はしなくていい」

 

 「じゃあどうすんのよ! 家賃も! 水道代もガス代も電気代も! ママのお酒代も!」

 

 「おれがママさんを説得してやる」

 

 「なにを言って」

 

 「今だけは、何も考えるな。心配しなくていい」

  

 「ママがあんたの話を聞くわけないでしょ!」

 

 「おれに任せろ」

 

 「うっ……ひっく……なにを、任せろって、言うのよ」

 

 「大丈夫だ。おれに、任せろ」

 

 「うっ……うっ」


 「お前は、おれが守る」


 アゲハは嗚咽した。

 涙が止まらなかった。

 アゲハの中で、ぴんと張り詰めていたものが決壊した。

 気がつくと、アゲハは顔を奮子の腹に埋めていた。

 両腕を、奮子の腰に回して、服をぎゅっと掴んでいた。

 

 蝶野アゲハの嗚咽の音が、しばらくその場に鳴り響いていた。

 

 

 

 

 

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