筋肉第11話 巨大ワニ
夕方。
雨が降っている。
増水した川のすぐ横の道を、野丸 普通子は傘を差しながら歩いていた。
行き交う人々はまばらである。
普通子の視線が、ふと前方に見える小型犬に止まった。
リードに繋がれた小型犬が、下方の川面に向かって盛んにに吠えていた。
飼い主だと思われる若い女性が、犬を宥めている。
吠える飼い犬と宥める飼い主。
よく見かける光景だが、普通子はなんとなく違和感を感じた。
川面に向かって吠える犬の声に、異様な必死さが混ざっているような気がした。
なんとなく、普通子はガードレールに手をかけて、川面を覗き込んだ。
「……?」
川は雨で増水し普段よりも濁っているが、特別な様子というわけでも無い。
しかし。
ちらりと、小型犬を見る。
唸り声を混ぜながら、必死に吠えている。
もう一度、普通子は川面を見た。
すると。
川面に一瞬、何か巨大な影が映ったような気がした。
気のせいか?
そう思った瞬間。
川面が盛り上がると同時に、巨大な生物が川から飛び出して来た。
そしてその巨大生物は、吠える小型犬に向かって勢い良く突っ込んだのである。
それは、巨大なワニだった。
想像を絶する巨大さである。
路線バスと同じぐらいの大きさであった。
その巨体の全てを、陸に曝け出している。
あまりの突然の出来事に、普通子は呆然とした。
小型犬の飼い主の甲高い悲鳴が響き渡っている。
巨大ワニが顔を動かした。
ワニと普通子の眼が合った。
「……ッ!」
普通子に戦慄が疾ると同時に、頭の中が高速で回転していた。
あのワンちゃんは食べられてしまったのだろうか。
次は私が食べられてしまうのだろうか。
そんな言葉が頭の中を走り抜けている。
すると。
先程まで聞こえていた小型犬の声が、ふと聞こえた。
「!」
普通子は目を見開いた。
巨大ワニの顔の向こう側に、人影があったのである。
見覚えのあるガタイと顔だった。
「お……鬼木坂さん!?」
思わず、普通子は声に出していた。
巨大ワニの顔のすぐ横に、鬼木坂 奮子が立っていたのである。
そしてその太く逞しい腕の中に、小型犬が抱かれていた。
「ワニよ」
奮子が、穏やかな声を出した。
巨大ワニが、奮子の方を向いて、その顎を開いた。
恐ろしい牙が並んでいる。
「大変だったな。ペットとして飼われて、無責任な飼い主が排水口にでも流したんだろう。下水道で様々な物質を取り込んだ結果、身体が異常発達しちまったんだな」
奮子の声は穏やかである。
その赤い瞳にも、穏やかで優しい光が灯っている。
「お前は悪くねぇ」
奮子がそう言った瞬間。
巨大ワニが、その顎を広げたまま奮子に突っ込んだ。
その顎を、片手で小型犬を抱いたまま奮子はひらりと避けた。
避けると同時に。
人差し指を立てた左手を、真っ直ぐにワニの眉間に向かって伸ばした。
とんっ。
という音が鳴った。
奮子の人差し指と、ワニの眉間が当たる音だった。
直後。
「份!」
奮子の気合いと同時に、指先から白い閃光が放たれた。
ピシィッ。
という音が鳴った直後、ワニが白眼を向いて失神した。
「……」
普通子が唖然としながらその光景を見ていると、飼い主の女性が奮子に走り寄って行くのが見えた。
「シャンプーちゃん!」
飼い主の女性が、泣き叫びながら奮子が抱く小型犬に手を伸ばした。
「勇敢な犬だな」
そう言いながら、奮子は小型犬を飼い主に渡した。
「シャンプーちゃん! 良かった! 無事で! ありがとうございます!」
飼い主の女性は小型犬に頬擦りをしながら、奮子に礼を言った。
「後で高いドッグフードでも買ってやんな」
そう言い残し、奮子が立ち去ろうとした瞬間。
「鬼木坂! またお前か!」
遠く、男の声が聞こえた。
道の向こうから、自転車に乗った警察官が猛スピードで近付いて来ていた。
自転車を漕いでいるのは、若葉警官だった。
「よう。よく会うな」
奮子が余裕の表情を浮かべながら言った。
若葉警官は奮子の目の前で自転車から降りて、倒れている巨大ワニと奮子を交互に見て言った。
「これは……いったい……」
「気絶している内に動物園に運びな。大丈夫だ。このワニは人は襲わない」
「なんだと!?」
「この街の観光資源になるだろ」
「いや、そういう問題ではない! こんな化け物、生かしておいたら犠牲者が出る!」
「だから人は襲わねぇって言ってんだろ」
「なんでお前にそんな事が分かるんだ!」
「眼を見れば分かるさ。とにかく動物園に運べ。市長にはおれから言われたって言いな。それで済む」
「な、なに!?」
「じゃあな」
奮子が若葉警官に背を向けた瞬間。
奮子と普通子の眼が合った。
「お!」
奮子は僅かに眼を見開いた。
「あ、あの……」
普通子は僅かに声を出した。
緊張して上手く喋れない。
「あのワニが動物園に行ったら、観に行ってやってくれよ」
奮子が薄く微笑みを浮かべながら言った。
「え、えと……あの」
「同じクラスだよな。また明日、学校でな。野丸 普通子」
「!」
奮子は傘もささずに、雨の中を歩き始めた。
「あ、待てこの!」
若葉警官が奮子の背中に向かって叫んだ。
「いいから早く重機の手配をしろよ、若葉」
背中を向けながら、奮子は片手を上げて背後の若葉警官に向かって言った。
「くっ」
どこか悔しそうな顔で、若葉警官は無線に向かって何やら叫んだ。
「……」
雨の中を歩く奮子の大きな背中を、普通子は呆然と見つめていた。