筋肉第1話 飲酒運転
勅使河原 天音は胸を躍らせながら店内に並ぶシャープペンを選んでいた。
隣には親友の恩那ユキがいる。
2人は背丈や体格もほとんど一緒で、髪の長さも同じショートカット。
少しウェーブのかかった茶髪の天音に対して、ユキはストレートな黒髪である。
家が近所で、小さい頃からいつも2人で遊んでいた。
保育園、小学校、中学校も一緒で常に同じクラス、そして合格した高校も同じだった。
玄米女子高等学校。
明日は、その入学式だった。
今日は2人で小さな文房具屋に来ていた。
結局2人はお揃いの筆記用具を買い、店員から品物の入った紙袋を受け取ると、明日から始まる高校生活への期待に2人の胸は膨らんだ。
ふと横を向くと、お互いの眼が合う。
すると、どちらからともなく微笑みを浮かべ合い、お互いの愛情が視線上を行き来する。
2人は幸せそうな表情で店の外に出た。
扉を出てすぐに、交差点があった。
信号機の灯りが赤から青に変わるのを待つ。
他愛も無い話をしながら、天音は親友の頬を見つめた。
ユキの肌は雪のように白い。
その肌を春の陽射しが照らしている。
天音は、思わずその頬に触れたくなった。
静かに手を上げた瞬間。
天音の身体が、ぴたりと止まった。
ユキが眼を大きく見開いて、天音の後方を凝視していたからである。
直後、複数の悲鳴が聞こえた。
続けて鳴り響く甲高い摩擦音と衝突音。
尋常ならざる戦慄が天音の背中を疾り抜けた。
反射的に、天音は後ろを振り向いた。
一台の自動車が、猛スピードでこちらに突っ込んで来ていた。
車体を他の車にぶつけながら、速度を緩めず迫って来る。
まるで天音とユキに狙いを済ませた猛獣のようである。
天音は眼を見開いた。
驚きと混乱で身体が動かない。
しかし頭の中は高速で回転していた。
今まで生きてきた15年間の様々な思い出が、凄まじい速度で駆け抜けて行く。
一番流れて来るのは、隣に立つユキの笑顔。
2人で過ごした楽しく幸せな瞬間が、次々と浮かんでは消えて行く。
頭の中に映像は流れるがしかし、後悔する時間も祈る時間も無い。
本能的に、天音は眼をぎゅっと瞑った。
直後。
「オラァッ!」
怒鳴り声が聞こえた。
同時に、重量のある物同士がぶつかり合ったかのような衝撃音が鳴り響き、金属がひしゃげる音とガラスが割れる音が聞こえた。
一瞬の後、複数の急ブレーキの音と街を行き交う人々の悲鳴と騒めきの音。
天音は、薄く眼を開けた。
目の前には、襲い掛かって来た自動車の姿が消えていた。
代わりに、誰かが背中を向けて一本の脚で立っていた。
地面に着いているのは、右脚らしい。
左脚が、真横に水平に伸びている。
その靴の裏から、湯気が立ち昇っていた。
「……!?」
天音は何が起きたのか分からなかった。
とりあえず目の前に立っている何者かの身体を見つめる。
背中が、広くて大きい。
黒いTシャツの上から、身体付きが岩のようにごつごつしているのが見て取れる。
視線を上に移すと、大きな背中の上の方に、少しウェーブのかかったショートの赤い髪の後頭部が見えた。
プロレスラー?
天音の頭に最初に思い浮かんだ言葉がそれだった。
ふいに、その赤髪がふわりと揺れて、その大きな人間が天音の方に顔を向けて、声を出した。
「大丈夫かい? お嬢ちゃん」
「!?」
天音はぎょっとした。
凄まじい衝撃が疾り抜けると同時に、奇妙な恐怖も湧き上がって来た。
この大きなプロレスラーのような身体をした人の顔付きは明らかに女性だった。
その声も低めではあるが、聴くとすぐに女性と分かる声である。
赤髪の女は、水平に伸ばしていた左脚をゆっくりと地に降ろして、天音を見下ろした。
天音の後ろで、ユキも硬直している。
この赤髪の女から放たれる威圧感で、2人は動けなかった。
赤髪の女の身長は、195センチを超えていた。
服の上から見える身体のラインが、極めて屈強である。
半袖のTシャツから覗く腕は岩の彫刻のようである。
半ズボンから覗くその巨体を支える両脚が、丸太のように太く逞しい。
そして、緩くウェーブしたショートカットの赤い髪。
前髪の下にある凛々しい眉毛。
その下にある、宝石のような大きな赤い瞳。
通った鼻筋。
優しそうな、やや厚めの唇。
頑丈そうでありながら形の整った顎。
艶やかな肌。
顔の全体から、ほのかに妖艶な色気が漂っている。
「怪我が無くて良かったぜ」
落ち着きのある声で、その赤髪の女が言った。
「えと……あの……あ、ありがとう……ございます」
天音は、かろうじてそれだけ言えた。
赤髪の女はにっと笑った。
白く逞しい歯並びが、きらりと光った。
そして、赤髪の女は横転している自動車の方に向かって歩き出した。
巨体でありながら重量を感じさせない、軽やかな足取りである。
「大丈夫!? 天音!」
ユキが後ろから天音の手を握りながら叫んだ。
「う、うん……大丈夫」
天音は反射的に手を握り返した。
しかしまだ意識は呆然状態である。
その瞳は、赤髪の女に釘付けになっていた。
ユキも、その視線の先にある赤髪の女を見つめた。
赤髪の女は、交差点の真ん中で横転しているに自動車に両手を引っ掛けていた。
そして。
「ふん」
いとも簡単に、その横転している自動車をころりと転がして、本来の姿勢に戻した。
一眼で高級車であると分かる黒光りする車体が、無残な姿になっていた。
あちこちのガラスは割れ、フレームも大きくひしゃげている。
特に車体の横っ腹が大きく凹んでいた。
「おい」
低い声を出しながら、赤髪の女は運転席のドアを外から力ずくで外した。
車体の中に右腕を突っ込み、運転手を引きずり出した。
スーツを着た男が転がり出て来た。
歳は50代ほど。
顔面が蒼白になっていた。
「酒くせぇな、おっさん」
赤髪の女がその男を見下ろした。
男は、身体を震わせながら視線を上げた。
「飲酒運転は重罪だぜ」
赤髪の女が言うと、男は怯えた様子で声を出した。
「お、おま、おま、お前……わ、私の……く、車、け、けけ、蹴っ飛ばした……か……か、かいじ……怪人……」
「あ?」
赤髪の女の瞳に、炎のような赤い怒りが宿った。
「おいおっさん、おれがあんたの車に蹴りを食らわせてなかったら、大惨事になっていた所なんだぜ。分かんねぇか?」
「い、いや、いや、わた、私の、車、いく、いく、いくら、すると、思ってるんだ」
「クズが」
赤髪の女はそう言うと、男の胸ぐらを掴み、片手で軽々と持ち上げた。
「ひいっ」
男の口から悲鳴が漏れた。
直後、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
「ふん。お巡りさんによく話しな。あんたは金持ちそうだ。しっかり損害賠償払えよ」
赤髪の女はそう言うと、手を離した。
どさりと、男は道路の上に落ちた。
赤髪の女はくるりと踵を返すと、天音とユキの前に歩いて来た。
「ひっ」
天音とユキは同時に身体を震わせて声を出した。
赤髪の女は、にこりと微笑んだ。
「じゃあな」
そう言うと赤髪の女は、ひゅっと跳躍し、建物の壁を蹴って、隣の建物の屋根に着地した。
そこから更に跳躍し、建物から建物へ飛び移って行った。
その風のような身軽な動きを、天音とユキは呆然と見つめていた。
そして、翌日。
玄米女子高等学校の1年B組のクラスで、天音とユキは2人で話していた。
また、同じクラスになった。
「今思い出しても凄かったね、昨日のあの人」
笑みを浮かべて、ユキが言う。
天音は、自分が眼を閉じていた一瞬に何が起きたのか、ユキから聞いていた。
自動車が走って来た瞬間、颯爽と現れたあの赤髪の女が車体に横蹴りを喰らわせたらしい。
その蹴りで自動車は吹っ飛んで横転したのである。
「うん。凄かったね。あの人、凄いマッチョだった。ボディービルダーとか、プロレスラーなのかな」
天音が、純粋な疑問を口にした。
直後、ガラガラと扉が開いて、眼鏡を掛けた男が入って来た。
教室内が、静まり返った。
その男は教壇に立って、教室内を見回した。
「どうも。このクラスの担任をする事になった、路利田 撮夫です」
路利田は静かな教室を見回して、不思議そうな顔をすると、用意してあった名簿欄を確認した。
「おや? 一人まだ来ていないようだな。えーっと……だれだ? 誰が来ていないんだ? 初日だから誰が誰だか分からん」
路利田がそう呟いた直後だった。
ガラガラと音を立てて、教室の扉が開いた。
のっそりと、大きな人影が入って来た。
「!?」
そのシルエットを見た天音とユキは同時に衝撃を受けていた。
「えーと、おれの席はどこかな」
昨日の、あの赤髪の大きな女だった。
あの筋骨隆々な体躯が、女子校の制服に包まれている。
スカートから覗く脚が猛々しい。
シャツは第3ボタンまで開けており、ブレザーをマントのように羽織っていた。
しかし顔だけ見れば、少し大人びた女子高生だと言っても充分通じる可憐さがある。
呆然とする教室内をぐるりと見回し、やがてその赤い瞳が天音とユキの姿を捉えた。
「おお。こりゃ面白い偶然だ。嬢ちゃん達もこの高校だったのか」
赤髪の女が、嬉しそうに笑った。
あの綺麗な歯並びが、また光った。
「おれ、鬼木坂 奮子。よろしくな」
奮子の細められた赤い視線が、天音とユキを真っ直ぐに射抜いていた。




