最終話 愛の前にわたしは落ちた
ふわり、と風を肌に感じ、目が覚めました。
大きく清潔なベッドに、横たえられているようです。体を起こそうとしましたが、穏やかな手に、優しく阻まれました。
目が合うと、ヒース様が微笑みます。ずっとここにいたのでしょうか。
「ミア、やっと起きたか」
「ヒース、様」
自分の声が、しわがれていることに気がつきました。飲んだ毒のせいで、喉がただれたのかもしれません。下層の出身者が持つ体の強さだけは誇れるわたしは、どうやら生き残ってしまったようです。
そうしてようやく、自分のしでかしたことを思い出しました。ウィリアム様を殺そうとして、ヒース様を刺したのです。
彼の腹部に目を遣りますが、服の上からでは傷の様子は分かりません。
「どなたか、亡くなったのですか」
彼は喪服を着ていました。
「ウィリアムのことは残念だった。あの婚約者も、若いのに哀れなことだ」
わたしは自分の驚きを、どう表せばいいのか、分かりませんでした。ただ、復讐しようとしていた相手が死んだと聞いて、安堵が起こったのは不思議なことです。
「事故さ。乗っていた馬車が崖から転落したんだ。生き残った御者の話だと、危険だと進言したのに近道を通るように命じられたらしい。せっかちなあいつらしいよ」
ヒース様は、困ったように笑います。
「おかげでオレをまた王家に戻すよう、父上が張り切っている。今は断っているけどね」
ヒース様の手が、慰めるようにわたしの頭を撫でました。彼のブロンドの髪が、窓から差し込む光を浴びて光ります。
「エレノア・マーシーのことも、君に伝えなくてはならない」
ミアと呼ばれたときから予感はしていたことです。彼からその名が出ると言うことは、わたしの目論みは既に暴かれているということなのでしょう。
いつかここから追い出されることも、最悪の場合、死罪になることも覚悟の上でした。
ですがヒース様の口から告げられたのは、想像もしていなかったことでした。
「火傷の跡から感染し、あっという間だった。君が眠っている間に、逝ってしまったんだ」
ヒース様は、心底物憂げにそう言いました。
「嘘……」
エレノア様が死んだですって?
「嘘よ」
エレノア様が死ぬはずがない。
彼女の幸福はわたしの幸福です。
彼女の悲しみはわたしの悲しみです。
ならば彼女の死は、わたしの――。
「嘘よ!」
わたしが生きているのに、彼女が死ぬはずがない。ならなんのために、わたしは生きているというのでしょう。
わたしは体を起こし、すがるようにヒース様の体を何度も叩きました。
「ミア」
ですがヒース様の手が、わたしを包んだ瞬間、それ以上、動けなくなってしまいました。
他の誰が、こんなに優しく強く、わたしを抱きしめてくれるというのでしょう。
他の誰が、こんなにも愛おしげにわたしの名を呼んでくれるというのでしょう。
わたしは彼の腕の中で、泣き叫ぶことしかできませんでした。
「ミア、大丈夫だ。心配はいらないよ。二度と君を、死なせたりはしない――」
ヒース様は、そう言って、ひび割れたわたしの唇に口づけをしました。
ヒース様。
わたしだって、初めて見た瞬間から、お慕い申し上げております。
あなたが、どれほど恐ろしい人間か、知っていてもなお、あなたを愛しています。
そうです。
あなたは以前、自身の素行のせいで王家を追われたのだとおっしゃっていました。国中の人も、そう思っています。
ですがエレノア様は、こっそり教えてくれました。
――シャーリーン様が婚約しようとしていた方を、ヒース様は殺してしまったのよ。
シャーリーン様が婚約しようとしていた方には、他の女性がいたようです。それを知ったヒース様は、怒り狂いました。
結局その方は、酔っ払って高いところから転落し、お亡くなりになったそうです。事故として片付けられました。
ですがそれは、ヒース様が裏で工作したと、家族だけは知っていたようです。
証拠はありません。わたしと違って、上手く立ち回る方ですから、分かるような証拠を残す真似はしないのでしょう。できると思ったときにだけ、実行される方なのでしょう。
――ヒース様。疑念があるのです。
誰かが御者に金を握らせ、馬車を落とすように言ったのではありませんか?
その御者は今、どこにいるのですか? その人は、生きているのでしょうか。
エレノア様は、回復に向かわれておりました。感染症は、本当のことなのですか? 本当は、他のことが原因で、亡くなったのではないのですか?
なのに恐ろしいのは、彼がエレノア様を葬り去ったのではという疑念があってもなお、わたしはこの腕の中で、幸福を感じているということなのです。
だって彼は、叩く代わりに手を握ってくださいます。敵を葬り去ることを、他人に頼んだりもしません。
「愛しているよ」
耳元で囁かれる声は、畏怖を覚えるほどに魅力的で、わたしは涙を流しました。
「わたしも、あなたを――」
エレノア様のためにあった信念は、ヒース様を前にすると容易く揺らいでしまいます。
ごめんなさい、ごめんなさい。どうか、ゆるして――。彼と出会ってからわたしは、わたしのために生きたいと願ってしまいました。
「もう何も、考えなくていい」
ヒース様は、そっと言いました。
「愛の前では、他のあらゆることは、あまりにも無力なのだから」
道徳も誠実も、もうわたしには必要ありません。
ごめんなさい、エレノア様。
彼のいない世界で、わたしはもう、生きられないのです。
「あなたを、愛しています」
――彼の前に、わたしは落ちました。
〈おしまい〉
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