3 オレは彼女を知りたいのだ
エレノアに事業の一端を任せてからというもの、驚くほど軌道に乗っていた。
「これで、オレもようやく自立できるな。もう父上の顔色を伺わなくて良いのはすばらしいことだ」
結婚してひと月が経っていた。処刑まで、あと二ヶ月だ。
オレは未だ、彼女と関係がない。関係というものはつまり夫婦のあれこれだ。信じられないし、馬鹿みたいだが、手さえ握っていないのだ。この、女たらしのオレがである。
触れてしまえば、たちまち彼女を失ってしまうのではないかという恐れがあった。この心地の良い関係を、崩してしまうのではないか。
このごろ、誰にも向けられなくなった信頼を、彼女はオレに、抱いてくれているように思える。
彼女とオレは一種のルームメイトで、共同経営者だった。
オレはある意味で、彼女を認めつつあった。 彼女にしても、前より表情が豊かになったように思える。
「誤解なきよう言っておくが、オレがこうなったのは、王家を追われてからだからな」
書斎の机で数字と格闘しているエレノアを、ソファーからぼんやり見つめていたオレだが、ふと言いたくなったのだ。
「こう、とは?」
「酒と女とギャンブルに依存する堕落しきった人間だ」
エレノアがふと口元を緩めたため、オレの機嫌は俄然良くなる。
「それまでは、容姿端麗、頭脳明晰、人当たりも良い完璧な人間だった」
女遊びも派手にはしなかったし、評判は良く、次期王になると誰もが疑っておらず、よもや人妻とただれた関係になるなどと考えもしなかった。オレの本性を知るのは家族だけだったのだ。
立ち上がり、エレノアがいる机の上に手をついた。彼女の澄んだ瞳が向けられる。
「君にはオレが最低の男に見えるだろうが」
「いいえ、そうは思いませんわ」
「オレは本当は、本当は――」
言いかけて、だが続きの言葉が出なかった。
オレという人間は、本当はなんだ?
空っぽの虚無を満たすための欺瞞にはとうに気がついていた。
気がついていたが目を反らしていた。改めて自分を見つめたのは、エレノアの存在のせいだ。
彼女はあまりにもそっけなく、オレの自信を粉々に砕け散らせたのだから。よもや、今までの生き方が間違っていたのではないかと思えるほどに。
「あなたは、立派な方ですわ」
エレノアは笑い、オレの手に触れた。
どういうわけか、オレは飛び上がった。
――嘘だろ!
彼女の触れた場所だけ輝いているようだ。
心臓が痛い。
エレノアが不思議そうな顔をしている。
情けなくて泣きそうだ。
こんなこんなこんな。
こんな感情が。
こんなに熱い感情が、オレの中にあったなんて。
気がつけば、エレノアの前にかがみ込み、結婚式以来初めて、キスをしていた。
*
馬車に揺られ数時間、オレが久しぶりに城を訪れたのは、妹に会うためだった。
「何しに来たの?」
歓迎するでもなく不審がる女こそ、我が最愛の妹シャーリーンだ。
オレの妹だけあって見た目だけはいいが、誰に似たのか高飛車で、ナルシストの上にプライドが高いため、未だに婚約の話もない。
ウィリアムと父上と顔を合わせたくなく、あまりつかわれていない部屋でオレ達は向き合う。
「エレノアはどんな娘だ」
シャーリーンは眉を顰める。
「美人よ」
「それは知ってる」
「頭がいいわ」
「まあ……そうだろう。知っている」
「一体なんなの? 気味が悪いわ。また悪巧みでもしてるんじゃないの?」
本気で嫌そうに妹は言ったが、オレはエレノアのことを聞き出すためにここにいるのだ。
死の期限も刻々と迫っている。
オレは焦っていた。
キスをした後、彼女は何も言わず書斎を出て行ってしまった。これではオレばかりが彼女に気があるようで癪に障る。だが、未だ彼女がウィリアムに未練があるならば、断ち切らなくてはならない。オレの命のために。
「お前は彼女と同年代だろう、糞野郎と婚約していた彼女とも面識があったはずだ」
そうね、と考え込んだ後でシャーリーンは言った。
「自分の感情はあまり見せないし、何を考えているか分からないわ。友達はあまり多くないと思う。彼女のこと、かわいげがないと言う人もいたかしら。わたしも正直、苦手だったわ」
その意見には大いに納得だ。
納得だが、それはあまりにも彼女の表面しか見ていない意見だ。本当の彼女には、結構かわいげがあるように思うからだ。
シャーリーンは続ける。
「自分の従者を、いつも連れていたわ。同じ年くらいの女の子で、仲は良さそうだったかしら。彼女が、その使用人の前では良く笑っていたもの」
はて、とオレは思った。
思い返してみても――。
「そんな奴いないぞ」
「そう? じゃあ、嫁入り道具にはいれなかったのね」
見ず知らずの使用人なんてどうでもよかった。それよりも、知らなければならないことがある。
「なぜくそったれとの婚約が破棄になったんだ?」
「自分の弟なのに、知らないの?」
侮蔑するように冷たく言い放った後で、シャーリーンは言う。
「数ヶ月前、エレノアさんは突然地方に帰って、それでそのまま婚約破棄よ。彼女、しばらく姿を見せなかったんだけど、お兄様と結婚したって聞いて驚いたわ。お父様が便宜を測ったのね。
今度、連れてきてよ。久しぶりに会いたいわ。わたしだって、彼女が帰ってから会っていないんだもの」
「苦手なんだろう?」
「だけど、義理の姉になるのよ? 仲良くしなくちゃね」
シャーリーンはオレが思っているよりも大人のようだ。
「お前がオレと突然結婚したら、どんな態度になる」
「はあ? お兄様、頭が変になっちゃったの?」
薄気味が悪そうに身震いした後で、シャーリーンは言う。
「つまり、知らない男と結婚したらってことね?
そうね……まずは馬鹿にされないように、気を引き締めるかしら。容易く下に見られないために、笑わないし、ずっと気を張っていると思うわ。夫になんて、絶対に気を許さない。特にそいつが、自分よりも身分が上で、女たらしで最低の人間だったらね」
それから彼女はにこりと笑う。
「お兄様。エレノアさんのことを知りたいなら、ご自分でお聞きになったら? 奥さんでしょう?」
「馬鹿を言え」
即座に言った。
「このオレが一人の女に執着していると思われたらどうする? まるでオレが、あの女のことを好きみたいじゃないか」
ふん、と鼻を鳴らすとシャーリーンは呆れたようにため息を吐いた。
「我が兄ながら、つくづく最低だわ……」
*
「この前は悪かった。突然、キスをして」
数日後の夕食の席で、耐えきれずオレは言った。エレノアは、静かにオレを見る。――相変わらずの無表情で。
「君の笑顔がもっと見たいんだ」
言いながら、オレはこれが嘘か本心か分からなくなった。
初めはとにかく彼女の心をオレのものにしなくてはならなかった。だから口説いていた。なのに今は、本気で彼女の笑顔が見たいと思うようになってしまった。頭がおかしくなってしまったとしか思えないほどに、オレが思うことは一つだ。
エレノアが笑うと、オレは楽しい。
エレノアが幸せそうだと、オレも幸せだ。
そんなピンク色の思いを抱くと同時に即座に呪いたくなる。あり得ない。くそったれ。これがオレか? あまりにも無様だ。
エレノアは、困ったように言う。
「上手く笑えませんわ」
「夫が、オレだからか? ウィリアムなら、君は笑っていられるのか」
「いいえ、そうでは……そうではないのです」
なぜだか、彼女は泣きそうな顔になる。その表情の意味が、オレには分からない。
「ヒース様。あなたは、わたくしにはもったいないほどのお人です」
彼女の目が、見る間に赤くなる。
「いつか、わたくしは――」
だが言いかけた言葉を、彼女は飲み込み、首を横に振る。
「いいえ。なんでもありませんわ」
「言ってくれ」
「言えません」
「どうしてだ」
「どうしてもです」
「寝室に来てくれ」
「行けません」
「オレと一緒にいて欲しいんだ」
「だめです」
「なぜ。オレが嫌いか」
エレノアは黙っている。
「オレを愛していないからか」
エレノアの目には、何らかの意思が宿っている。懇願するような瞳に思えた。だがその目に宿る感情を見せまいとするように、彼女は目を伏せる。
「進んでしまえば、後戻りが、できなくなるからです」
「戻る必要があるのか」
いつものオレだったら、多少強引にでも彼女に迫っただろう。
だがそうはできなかった。彼女に失望されるのは、女を口説き落とせなかったと笑われるより恐ろしいことだった。
「あるのです」
「ウィリアムを愛しているからか?」
彼女は、寂しそうに微笑んだ。
「あなたといると、幸せになってしまいます。わたしはそれが、怖いのです」
その笑みの真意が、やはりオレには分からない。