五話
アンネがゴンロウから聞いた話はこうであった。
その日オリバーは山に行くと行ってゴンロウを連れ出した。その頃のオリバーはひどく気鬱な様子で山に行く途中もろくに話もせずに思い悩んでいる顔をしていたという。山に入りしばらくするとゴンロウはオリバーに山菜や茸の採集を命じられ二人は別れた。
せっせとゴンロウが採集をしていると遠目にオリバーが尾根の鋒に佇んでいるのが見えた。危ない、とは思わなかった。オリバーもずいぶんこの山に慣れているしあのように尾根の鋒で景色を眺めることもよくやっていたからだ。
ゴンロウはオリバーから目を離し、またせっせと採集をしていると短い叫び声が聞こえた。顔を上げ、先程までオリバーが居た場所を見てもオリバーは居なかった。まさか、足を滑らしたかと慌ててそちらに走ろうとしたときオリバーが居た場所に一人の女が居るのが見えた。女の顔はよく見えなかったが黒髪を腰まで伸ばして、その髪が風に靡いていたのをよくゴンロウは覚えているそうであった。その女はじっとゴンロウが居る方を見ていた。
「それがフレンというわけか」
「へぇ、わしにはそうとしか思えなかっただです」
フレンが兄を突き落とした。なぜだ? いやそのなぜはここで考えても答えはでないだろう。
「それでお前はどうしたのだ」
「わしはおそろしくなって逃げましただ。この近くに親しくしている家があるんでまずはそこに逃げ込み今後のことを考えようと思いまして」
「訴え出ようとは思わなかったのか?」
「訴え出る! ? わしみたいなもんがいくら言っても聞いてはもらえませんだ。それに下手したらわしがオリバー様を突き落としたことにされかねませんど!」
バカ言っちゃいけねぇとばかりにゴンロウは声をあげる。それを聞いてアンネもそうだなと思う。
ゴンロウの身分は卑しい、そのようなものがいくら声を上げたところで聞く耳などもたれないだろうし実際父上とフレンには不審がある。もしフレンが兄上を突き落としたのであればゴンロウも口を封じられたかもしれない。
「それでお前は兄上の御霊を慰めるために椿を供えているのか」
「へぇ、わしはオリバー様もアンネ様もこんな小さいときから知ってますだ。特にオリバー様にはようしてもらえってゴンロウゴンロウと使ってもらい、この人のためなら命もいらぬと思っておりましただ、だども」
そこでオリバーは目から涙を溢れさせ、洟水をすすり、もう一度「だどもぉ」と震える声で言った。
「わしはオリバー様が突き落とされたとき、仇を討ってやろうとも訴えてオリバー様のご無念を晴らしてやろうども一つも考えませんでしただ。ただ背負っていた木籠を放り投げ、恐ろしさに足を縺れさせ山を走り下るのが精一杯でしただ」
「わしはオリバー様が好きでしただ。嘘偽りなく。だどもそれ以上に自分の身がかわいくて、命が惜しゅうて仕方ない。こんな爺になってもまだ生きたいと思う浅ましい男だっだんでず」
涙を流し、しわくちゃの顔をさらにしわくちゃにしてゴンロウは嗚咽している。
「よい、それが当たり前だ。お前が気に病むことはない。お前のその無念は私が引き受けよう」
「お、お嬢様」
「お前は浅ましい男などではない。本当に浅ましければ兄上のために椿など摘みはせん。そしてそのおかげで私はお前に会うことができ、話を聞けた。これは巡り合わせというものだ。後は私に任せろ」
「うっぇおぉおお……」
足元でむせび泣くこの哀れな老僕をアンネはずっと見ていた。
その後アンネは兄が突き落とされたという尾根の鋒を確認してゴンロウと別れた。ゴンロウが滞在しているという家のことも聞いた。
屋敷への帰り道アンネは考える。本当に兄を殺したのはフレンなのか。そもそも兄は本当に病ではなく転落死したのか。
葬儀を執り行えば死者の死に顔はどうしたって見るはずである。病死と転落死では遺体の状況が違うだろうにすぐ露見しそうなものだが。
道々歩いて、もうすぐ屋敷へ着くというとき婆やがなにやら荷物を抱えて歩いているのが見えた。
「持ってやろう」
いきなり声をかけたものだから婆やはびっくりして思わず荷物を落としそうになる。
すまんすまんとアンネは言いつつそれを支えてやり、気になっていたことを話し始める。
「そういえば気になっていたのだが兄上の死に顔というのはどのような感じであったのだ? 私は兄不孝なことに葬儀には出れなかったのでな。兄上がどのようなお顔をしていたのか気になる」
「お嬢様には大変申し上げにくいことだともとても苦しげなお顔でしただよ」
「それは……傷があったりして、という意味か?」
「傷? オリバー様は病で亡くなられたから傷などないんじゃないども」
「まぁそれはそうだな」
これは当てが外れたかという思いであったが思いもよらぬことを婆やは言い始めた。
「まぁわしらもオリバー様も死に顔は拝見できなかったでども。あの優しいオリバー様がそんなおそろしゅうて苦しげな顔見たくないですだ」
アンネはその場に立ち止まった。見ていない?
アンネが立ち止まったことに気が付かず、ずんずん先を行く婆やの後ろ姿を見てアンネも慌てて歩き出す。
「見ていない? 先程は見たような口振りではなかったか」
「はて、そうでしただ? わしらは見ておりませんだ。御主人様がオリバーのあのような顔は見せたくないというて、誰にも見せませんでしたに。わしらが気が付いた頃にはもうオリバー様は棺の中で。その棺も釘が打ってあったくらいですだども」
「そ、そうか。兄上は何時頃亡くなられたんだ」
「へぇ、それもようとは分かりませんだに。なんせ朝起きて仕事に取り掛かろうとしたときに御主人様が皆集めてオリバー様が亡くなったことを季がされたんに」
「というわけなら兄上が亡くなったのは深夜、というわけか」
「そういうわけでしょうに。あぁお嬢様、ここまででようございますだ。ほんに助かりましただありがとうごぜぇます」
婆やは屋敷の裏に歩いていった。
アンネはこれほどあのとき病になっていた自分を恨んだことない。そう思ったがもしやあの手紙が来たときにはもう一切が終わっていたのかもしれない。
そうに違いない、ここから剣の都まではどう馬を飛ばしても二日。私が万全の状態で馬を飛ばしてもさっさと葬儀を終わらせ荼毘に付せば到底間に合わない。
もしそうなら父上もフレンに協力していることになる。私が考えている通りにすべてがフレンと父上の共謀であるなら杜撰すぎる。どこで綻びが出てもおかしくはない。
素人の私がちょっとした幸運と聞き込みとも言えない世間話でおかしいと思うほどなのだ。
アンネは屋敷を見上げる。この幼少期から過ごしてきたこの屋敷がなにやら伏魔殿に見えてくるようだった。