三話
「あぁ……お嬢様。ご立派になってまぁ、この婆は嬉しゅうございますだ」
アンネが実家に戻るとまずは召使いの婆やが現れ、アンネを出迎えるとご立派になられてご立派になられてと繰り返した。
アンネはこの婆やの老け具合に驚いた。背中は曲がり、滑舌も悪く、なにより肌ツヤが悪かった。
「婆やはどこか体を悪くしているのか? 」と労るように聞いてやれば涙を流さんばかりに喜び「この婆は健康そのものでございますだよ」と言った。
健康そのものと聞いてさらに驚いた。体を病んでこれほど老け込むなら分かるが健康でありながらこんなに老け込むのか、三年という時間の長さを感じる思いであった。
「そう言えばゴンロウはどうした?」
もう一人いた老僕を思い出し、アンネは婆やに聞いてみた。すると婆やは急に難しい顔をして「あんの野郎は出ていきましただ」と話題にするのも嫌だという感じであった。
「なんかヘマでもしたのかい」
「いんや、なんも言わずに出ていってしもうたんですだよ。どこに行ったかも分からんのです」
兄の葬儀は既に終わり荼毘に付されている。
病とは聞いていたがどんな病とは知らされていなかった。確かに兄は幼少期は病弱であったが成長してからは人並みほどには健康であった。
そうだ手紙にも山歩きしていると書かれていた。それなのになぜ……。
「肺を病んでいたのです」
「肺を……」
父は政務を執るために外出していたのでまず義姉となったらフレンに挨拶をして、早速ではあるが兄について聞いたみた。どうやら兄は肺を病み、それから良くない風邪を引きそのまま亡くなったらしい。
哀れな、と思う他ない。妻を娶り息子ができてこれからだというのに無念にも他界するとは。
「……わたくしのせいでありますわ。わたくしが不束かな女でありましたから」
伏し目がちに口を開くフレンは美しいというよりもいっそ妖しかった。女のアンネから見ても押し倒してみたくなるような、蹂躪してみたくなるような疼くような欲求が首をもたげてくる。
見るな、と心で思う。この女は見てはいけない。
ただ話しているだけで心臓を握られているような感覚におそわれる。
「あぁそうだ、アンネ様にもヨアヒムを見ていただきたいわ」
「アンネ様などお止めください。兄上亡き今、もはや私達は二人きりの義理とは言え姉妹なのですから」
「嬉しいわ。……アンネ」
自然とフレンがアンネの手を取る。これが人の手かと思うほど冷たい。このまま手先から凍ってしまいそうだ。
アンネは自分の気持ちの落ち着かなさに戸惑う。この心はなんだ。嫌悪なのだろうか、心地良いものではないのは確かだ。若くして後家になったこの義姉に同情する気持ちは確かにあるのだが……。
ヨアヒムを見たアンネの第一印象はあまりにも兄に似ていない、ということだった。だがなにか見たことがあるような。そんな錯覚にも似たものをかんじた。
まだ幼児であるから顔立ちもよく分からないといえば分からないがとにかく兄の子とは思えなかった。しかしそれを口に出して言うほどアンネは不調法ではなかったし、その言葉を吐くことは躊躇われた。
「兄上によく似ていますね」
代わりにそんなことを言ってみる。どんな反応をするのか見てみたかった。
「そうかしら? わたくしはあまりそうは思えませんわ。あの人もあまり似てないようだと言っていましたし」
なんてことのない反応だった。なんの動揺も見られなかった。アンネは剣士であるからひとのそういう心の揺れ動きというものには敏感であるつもりでいたのでこれはたまたま兄には似なかっただけかと思い直した。
「この子だけが、わたくしのこれからの生きる楽しみですわ。元気にそだってね」
そう微笑みながらヨアヒムの頬をつくフレンの姿は母以外の何者でもなかった。
失礼な想像をしてしまった。アンネは密かに悔い、こころの中で謝罪した。
そのように過ごしていると父が戻り、食事を摂りながら話すことになった。
「お前はしばらくこちらに居ろ」
挨拶もそこそこに父はそんなことを言い始めた。
「なぜですか?」
正直言ってこちらに居てもやることはなかったし、なによりウィリアムのこともあったので出来れば早く役に就き動き出したかった。
「あちらの方で不幸があったらしい。とりあえず三ヶ月は差し止めるということであった」
「三ヶ月でございますか! それは長すぎる!」
思わず高い声を出すが父も不満なような様子でそういきり立つなと迷惑そうに手を振った。
「まぁ! よろしいではございませんか!」
そのように声を出したのは同席していたフレンであった。今まで一言も発さず黙々と食事をしていたが急に活き活きと話し始めた。
「アンネは今までずっと剣術修行で忙しくしていたのですからそのくらいの休養は必要ですわ」
「そうだな、しばらくゆっくりして。義姉さんに花嫁修業でもつけてもらえばいい」
父もそのように言い始め、後半は明らかに誂うふうであった。フレンもそれは素敵ですわと言ってやんややんやと話し合い始めた。
「勘弁してくれ」
小さな声で呟くと次はアンネが黙々と食事に取り掛かるはめになった。
久しぶりの実家で休み一夜明けた。まだ夜も明けぬうちにアンネは庭に出て木剣を振り始めた。一つ一つ型を確かめながら剣を振るう。この太平の世ではもちろんアンネも人を斬ったことがなかったがいつでも斬れる、という心構えは持っていた。
たっぷり時間をかけて鍛錬しているとふと視線を感じた。
振り返るとフレンが立っており、朝日が照らす庭先でフレンが立っているところだけ陰になっており、まるで黄泉の国からこちらを覗き込んでいるようなそんな印象をアンネに抱かせた。
「ご精が出ますね」
「いえ、お恥ずかしい」
事実恥ずかしかった。自分とさして年の変わらぬのにもう一児を設けている女の前で自分は棒振りかと途端に自らが惨めになる。
「お邪魔して悪かったかしら」
「いえ、そのようなことは」と言う他ない。
「よろしければ少しお時間をいただけないでしょうか? こちらへどうぞ」
返事も待たずにフレンはアンネの手を引いた。アンネは流されるまま抵抗できず、とりあえず木剣を適当に放り投げフレンに手を引かれるままついていった。
フレンに連れて行かれたのはオリバーの部屋であった。本棚がいくつもあり、その中にはぎっしりと本が詰まってある。
書机もよく整理されているようです雑多な感じはまったくしなかった。
「オリバー様は誰にもこの部屋に立ち入ることを許しておりませんでした。もちろん、わたくしにも……」
故人を偲ぶ女の儚い美しさとはこれほど色香に満ちるものなのかとごくりとアンネは生唾を飲み込む。
私は昨日からどうかしているぞとアンネは思わざるを得ない。まるで女に狎れぬ少年のようにフレンに感情を揺らしている。
「ですので、整理をしたいと思ってもなかなか手が出ず。出来ればアンネも一緒に手伝っていただければオリバー様もさほどお怒りにはなりますまいと思いまして」
「はぁ、そのようなものですか、ね」
今は亡き兄の言いつけをまだ守ろうとするフレンに単純に好感を抱いた。
「もちろん、私は構いませんが。義姉上はヨアヒムの世話もあるでしょうから私一人で片付けても構いませんよ」
するとフレンがアンネの言葉に少し傷ついた顔をしたのでまずいことを言ったかとアンネは焦る。
「申し訳ありません、なにか余計なことを申したようで」
「いえ、よろしいのです。実はヨアヒムの世話は乳母を呼んでその方に任せているの、わたくしは乳の出も悪いしヨアヒムもわたくしにあまり懐いてないの」
アンネはなんと言えば良いのか分からず言葉を探す、あの時分の幼子が母に懐かないなんてことがあるのかと思った。あるいは……あるいはフレンの方があまりヨアヒムを好いてないのかもしれないと想像した。
書机の上に懐かしいものがあった。千鳥の香炉が置いてあった。
三本のちょこんとした足が付いている香炉でありその蓋には小さな千鳥の細工が施されている。さる貴族の持ち物であったらしくある日父が貰ってきた。
父はこのようなものに一切関心がないので兄妹のほしいものに与えるということになり二人はこれを求め合った。
オリバーもアンネもこの千鳥の香炉に執着しアンネは兄と取っ組み合いになってもこれが欲しかった。そうなればオリバーはアンネに勝ち目はない、それがわかっていたからオリバーはアンネに取引を持ち掛けた。
「私はからだが弱く、長生きはできないだろう。それはアンネもよく知っているね? だから私が生きる短い時間この千鳥の香炉を私に貸してはくれないか? 私が死んだ後はこれはアンネのものだ。証文も書いておこう」と私が返事をする暇をあたえずさらさらと証文を書き、その証文を私に渡した。
あの証文はまだあるだろうか。どこかにはしまっているはずだ。私がすっかり忘れていたこの千鳥の香炉をいつも兄は書机の上に置いて眺めていたのか……。
「いかがなされたの?」
「えぇあの千鳥の香炉が……」
「あぁ、あの素敵な香炉ですか。そうだ、アンネがお持ちになったらどうかしらきっとオリバー様も喜ぶわ」
そう言われて思わずアンネは千鳥の香炉へ手が伸びた。
これは私の物だ。兄と約束した。証文も探せば見つかるだろう。だが、そこまで考えてやめた、伸ばした指先で香炉の蓋に付いている千鳥の細工を撫でただけにしておいた。
「いえ、千鳥はここに居たいそうです。私が頂くのはよしておきましょう」
千鳥は兄の書机の上にあるべきだ。アンネはそう思った。