4-12 黒八卦炉-壱
“GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!”
黒球は実にうるさく叫ぶ。悪霊とは思えない声量であるが、生きてはいないので生気は一切感じられない。
「黒八卦炉が覚醒したのですか?! 調伏前だというのに、ヒィィっ、なんて事ですか!」
黄風怪は自身の容態を忘れて地面を這って逃げ出した。
見逃したくはなかったものの、小物に割いている余裕はない。瞼を開いた黒球のコアからは、ドバドバと黒い炎が垂れ流れている。波のように地表を伝って広がる炎を避けるべく、奇岩の上へと跳び乗る。
「おっとっ、うにゃぁ」
無事着地に成功する。運んだクゥがよろけて落ちそうになったため、腰を掴んでホールドした。
「御影君、ありがとう。でも跳ぶ前に一言かけて欲しい」
「あんな馬鹿げた『魔』を感じる悪霊がいるのに、そんな余裕はない」
「悪霊? キョンシーなの、あの黒いの??」
アンデッド系モンスターと一口にいっても様々ある。ゾンビ、スピリット、グール。呼び名が違うだけで外見はほぼ同じ奴等もいるが、種類が多いのは確かである。
ただ、俺の言う悪霊は少し意味合いが異なる。ほとんど造語の域だ。
生物が死ぬと魂は黒い海へと沈んでいく。毎秒数えきれない数が死んでいく。そんなだから海の底は堆積物だらけで真っ黒だ。どんなに美しい色をした魂だろうと、大多数に混ざって見えなくなる。そうして意味喪失してしまうのだ。
輪廻転生などありはしない、酷い末路である。
けれども、意味喪失に耐えて個を保ち続ける例外も中にはいる。大多数とは異なる動きを見せるソレを俺は悪霊と呼んでいる。魂の善悪ではなく、大多数に背く性質を悪と分類した。
「キョンシーは知らないが、あれは死んでも海に沈まず現世に居残り続けた悪霊で間違いない。あれだけの『魔』の保有量だ。死んでも死にきれなかったのだろう」
「……何だか可哀相」
「俺は意味喪失する末路をより酷いと思うけどな。それはそれとして、あの黒球はヤバいぞ。百メートルは離れているのに恐ろしく熱い」
「熱い??」
汗で服の中がびっしょりとしてしまい気持ちが悪い。溶鉱炉のごとき熱量が黒球から放たれている。できればもっと後退したい。
クゥは何故か涼しい顔をしたままだが、この世界の住民は日頃から暑さに慣らされているからだろう。
「クゥ、アレの正体は分かるか?」
「うーん、さあ。妖怪は黒八卦炉って呼んでいたけど。もしかして混世魔王?」
「……いや、混世魔王ではなさそうだ。炎を吹き出しているところは似ているが、憎悪は感じられない。あいつ等は死体が動いている訳でもなさそうだしな」
クゥは首を捻っているが黄風怪は知っていた。黄昏世界では既知の存在なのだろう。
残念ながら黒八卦炉の正体を知っていそうだった黄風怪は、どこかに逃げてしまっている。黒い炎に飲み込まれた可能性も高い。妖怪など当てにせず、自力で対処するしかなさそうだ。
圧倒的な『魔』を感じる黒八卦炉は脅威だろう。ただし、幸いな点がいくつかある。
まず一つ目、危険ではあるが凶暴ではない点。叫んで炎を垂れ流しているが、それだけだ。走るタイプのゾンビではないらしい。
そして二つ目、黒八卦炉が格の低い悪霊である点だ。
どれだけ潜在能力があろうとも、俺よりも格下の悪霊であれば御するのは可能だろう。
「仮面を外さなくても、『既知スキル習得』スキルで死霊使い職の『動け死体』を使えば使役できるな。使役する事自体よりも、使役した後にどうするか悩むが。地下に戻らせるか」
「御影君。御影君」
「ん、どうした、クゥ」
「黒い球の真ん中あたりに、何か刺さっているように見えるけど分かる?」
クゥが指さす箇所に注目してみると、確かに炎の揺らぎの向こう側に何かが刺さっているように見えた。刺さっている何かも黒くて正直自信は持てない。
クゥは何故か同情しているかのような目線を向けている。炎を垂れ流す黒球に危機感を覚えるべきところを、可哀相だと言いたげな表情だ。
“GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!”
声として聞き取れない鳴き声で耳が痛いというのに、それでもクゥは黒球に刺さっている物体から目を離さない。
「取ってあげたい。できないかな」
「遠いから難しい。近づくのは熱くて無理だ」
「どうすればいいかな。そういえば、この棒って“伸びて”くれたはず……やっぱり!」
クゥの持っていた棒が突然、伸びた。
釣り竿のような構造だったとしても、数十倍の長さまで伸びる理由を説明できない。
伸びた分だけ重心が遠のく。三十メートルを超えたあたりでクゥの力では支えられなくなって前に倒れかける。体を被せるように補助に入った。
クゥの手の上から俺の手を重ねる。
「御影君、ありがとう。このまま支えてて」
「まだ伸びるのか、この棒。伸びる棒、如意棒? まさかな」
『力』的には十分であるが、伸び続ける棒はバランスが悪い。かなりクゥの体に密着して支えなければならない。満員電車状態というか満員電車だと誤認逮捕されても仕方がない状態というか、クゥがいない方が安定しそうな気もするのだが、本人が真剣なので黙っておこう。
「角度はよさそう。よーしよしよし、よし! 刺さっている何かの横からぶつけて!」
百メートルも伸びた棒の先を、クゥの指示通りに動かした。
黒球から針のようなものが抜け落ちていく。手元にも感触が伝わってくる。成功したようだ。
“GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!?”
黒球が上を向いた。炎も上方へと吹き荒れて広がっていく。
真っ赤な空が暗くなった。夜も完全に暗くなる事のない黄昏世界においては異常な事態であるのは間違いない。
「なに、なにっ?!」
未知の現象にクゥはオドオドしている。
けれども、異世界人である俺はこの現象を知っている。
「これは、夜だ。日が沈んでいる」
黄昏世界で初めて見たかもしれない星夜の中、俺達は幻を見た。
“――ぁーん。うぁーんっ、痛いよ。どうして痛いの!”
小さな女の子が泣いている。
両手の甲で溢れる涙を拭いているが、涙はまったく止まらない。
女の子が泣いている理由は、痛々しくも背中に刺さった矢であった。呪わしい色合いの黒い矢が刺さっている。
可哀相だと思った。
クゥもそう思ったのだろう。
俺とクゥは一緒に矢のシャフトを持って抜いた。
“――どうして私は痛いの?”
女の子は問うてきたが、俺には分からない。彼女の死因は分かっても、どうして死ななければならなかったのかを答える事はできない。
クゥは女の子の体を抱えて、自分の事のように悲しげな顔をする。
女の子は泣き止まらず泣き続ける。
夜の闇が波となって女の子の体を包む。波にさらわれた彼女は、黒い海へと沈んでいった。




