隠密行動
放課後、すべての部活動が終り男子が教室で着替えを済ませるのをじっと待っていた。
最後まで着替えていた男子がカーテンを開け鞄を持って教室を出たあと、十分後くらいに一人の生徒が教室へ入ってきた。
――やっぱりだ。
狭くて古い木製の掃除ロッカーの中で息を潜めてその様子を伺う。
今日、早退した生徒の机に小さなメモ紙を入れている。掃除ロッカーに開けた小さい穴からでもよく見える。ちなみに穴は技術室でハンドドリルを借りてきて放課後にこっそり開けたのだ。明日には家からプラモデル用に買った白色のタミヤパテを持ってきて埋めておけば先生に怒られることもないだろう。
水性絵の具で似た色を塗っておけば絶対にバレない自信がある。自慢じゃないが、美術と技術の成績だけは5なのだ――。
だが、この作戦には一つ大きな欠点があった。滅茶苦茶オシッコに行きたくて、もう我慢の限界だ――。
「スー、ハー、スー、ハー」
静かに息をするのさえ辛く思えてくる。なんせ掃除ロッカーの空気は美味しくない。雑巾や箒や塵取りの空気が美味しい筈がない。マズい。
――早く教室から出て行ってくれ、もう膀胱が破裂しそうなんだ――。こんなことなら男子が着替えに戻って来る前に一度トイレを済ませておけばよかった。
悶える声も出せない。身動きもとれない。欠席者が多いからメモを入れるのに……もたついている~!
いっそうのこと……出してしまうか。いや、下だけ体操服で帰るなんてありえない――。母さんにお漏らししたからズボン洗ってなんて、言えない――!
ならば……ここで出てしまおうか。いや、掃除ロッカーにずっと隠れていたのがバレれば、変質者扱いされてしまう――。
制服の袖の部分を噛み締めて歯を食いしばる――。
カラカラ。
教室前の引き戸をそっと閉めて、その生徒は帰っていった。間一髪、助かった――。だが、今すぐに出るような失態は見せない。もう少し……せめて足音が聞こえなくなるまで待たなくては……。
階段を下りていき廊下に誰もいないのを確認すると、内股で走って男子トイレへと向かった。万事休すと思ったが、なんとか事なきを得た。
顎に立ち上がる小便の湯気が、今日だけは心地よく感じた。
「ほはー」
これぞ天国。
我慢している時は地獄。解放された時は天国。であるならば、天国へ行きたいのなら、我慢することが人生には必要なのだろうか……。
そんな馬鹿な――膀胱炎になるわい!
犯人は分かった。だが、いったいどうすればいいのだ。恵梨香とあんな別れ方をしてしまった。犯人の名を教えたとしても恵梨香が今までのように協力してくれるとは限らない。「仲間外れや喧嘩は簡単にするのに、仲良くなるのには物凄く時間が掛かる。喧嘩して仲直りなんてありえない……」恵梨香の言葉を思い出すと、なんか、終わった感に苛まれる。
いったいどうすればいいのだろうか。
「頭が痛いぜ」
「あら、一真がそんなこと言うなんて珍しい。勉強でもしてたの」
ガクッとなる。子供に向かってそれは酷いだろう。
今日も遅くなった夕食を母と二人で食べる。どんなに遅くても母は自分で料理を作ってくれる。コンビニやショッピングセンターのお惣菜に頼ろうとしないのには、何かプライドでもあるのだろう。
「俺だって悩み事の一つや二つくらいはあるのさ。……それより母さん」
「なにかしら」
前から言ってやろうと思っていたのだ。俺はまさに今、反抗期真っ只中なのを見せつけてやる――。
「この髪ゴム、母さんのだろ」
謎は全て解けた――真実はいつも一つってやつだ。
「あれ、バレた? へへへ」
あれバレたへへへじゃねーよ。いい歳こいて舌をペロッと出しても――可愛くもなんともないぞ。
「……友達に聞いたら、こうやって女の人は男の人の浮気とかを試すらしいじゃないか。危うく引っ掛かるところだったぜ」
間一髪ってやつだぜ。俺の場合は浮気じゃないがな。
母は髪ゴムを受け取るとニコニコしながらエプロンの前ポケットに仕舞う。花柄のエプロン……ずっと前に俺と兄とで誕生日プレゼントとして渡した物だ……。色もくすんで恥ずかしいから新しいのを買えよと言ってるのに……聞きよらん。
親は子供の言うことなんて、何も聞きよらん――!
「ふーん、じゃあ、その友達がこのあいだ来ていたのね」
……。
「……う、うん」
「女の子なんでしょ」
――!
ひょっとして、予期しない反撃に直面しているのではないだろうか……。レベルを最強にしてボスキャラを倒しに行ったら、ボスキャラもレベル最強になっていたような――魔展開!
「あ、敦だよ。敦がそう言っていたんだ。あいつは色々知っているから……」
どんなに嘘をついても、母さんにはバレているんだろうなあ……と、負けを認めざるをえなかった。
「一真、女の子の友達や彼女を家に呼んでも、お母さんは怒ったりなんかしないわ、逆に嬉しいくらいよ」
「……」
今まで女子の友達を家に呼んだりしたことは一度もなかったからか。
「でも、女の子を泣かすようなことはしちゃ駄目だからね」
「……分かっているさ」
女の子を泣かすようなことって……少し耳が痛かった。
どこまで自分が分かっているのか……それすら分からない自分は、まだまだ子供なんだろうな。ちくしょう……。
明日……恵梨香に謝ろう。
次の日の朝、登校してきた恵梨香は不愛想だった。
俺の方を見もしない。だが俺は信じている。恵梨香なら分かってくれることを――。
教室は一昨日と同じようにガラガラだった。まだ登校していない生徒もいるが、恐らく今日も大勢欠席者がいるだろう。
「なあ、恵梨香」
昨日はキツイことを言って……ごめん。なんて……言えるはずもなかった。
「……気安く名前で呼ばないで」
顔も向けず小説に目を落としたままなのだが、小説が上下左右逆なのに気付いているのだろうか。
「じゃあ、お前」
お前はやめてと言い返してくると思ったのだが――。
「……なあに」
にっこりと微笑みながらこっちを向いてくれて……安堵したというか、ちょっと待てよと口から出かけた。
「なあに」って……他の生徒もいるのに。俺とは「口も利きたくない!」って怒っていた訳じゃないのか? さっきまでの不愛想はどこ吹く風かよ――。
「ちょっと話があるから非常階段まで来てくれないか」
「……告白とかじゃないでしょうね」
やめてくれ~よ。もし、憧れの関野瑞穗が聞いていたらどうする気だよ。さらにポイントマイナスで――頭が痛いぞ。
「そんなわけねーだろ、いいから早く来いよ」
先生が来て授業が始まってしまう。
「ちょっと、やだ、手を引っ張らないでよ」
自分から手を引っ張って下さいと言わんばかりに差し出しておいて、なんだそりゃ――。クラスの視線が凄く気になったが、今だけは気にしていられなかった。
欠席者の机に入れられた昨日のメモは……昨日のうちに俺が全部ゴミ箱という名のゴミ箱に処分してやった。もちろんトイレを済ませた後にもう一度教室へ戻ってきてだ。メモにはおおよそ想像した通りのことが書かれていた。
あとは、頭痛の種を取り除くために、俺じゃなくて恵梨香の力が必要なんだ――。
「昨日、恵梨香を陥れようとしている奴が分かった。今日、放課後に話をしようと思う」
「――え、誰なのよ、わたしを陥れようとしている哀れな奴は」
――哀れな奴って言わないであげて~。これから毎日頭痛地獄を味わわせてやるって見え見えだよ。切れ長の目が今日はちょっとだけ怖いよ。
「それだけじゃない。これは俺の想像なのだが……」
恵梨香はゴクリと唾を飲みこんだ――。




