頭痛を吹き飛ばせ
恵梨香が「帰ろっか」と言ったのは、家へ帰るという意味ではなかったみたいだ。
学校を出て、実際に頭が痛い奴のところへ行けばおまじないを試せるという発想に辿り着いたみたいだ。だったら、女子バレー部を見学しないで早くそうすれは良かったのに。
そうすれば俺が関野のことが好きなのもバレなかったのに――シクシク。
「だが、もし家にいなかったらどうするんだ。あと、会えないとか」
病院に行っているかもしれない。
「大丈夫。学校を休んでずっと家にいると暇を持て余している筈だから。それに、病院にだって同じ症状で毎日通う筈がないじゃない」
「そういうものかなあ……」
「筈がないじゃない」って言われても分からないぞ。
恵梨香の自転車が俺の先を行くのだが、俺が一度も走ったことがない道をどんどん進んでいく。この辺りにクラスメイトの家なんてあっただろうか。女子の家なら話しづらいなあ。
「ところで、誰の家へ向かっているんだ」
「ああ、担任の戸田先生よ」
キーっとブレーキをかけた。担任の戸田若菜先生――二十四歳、もちろん独身。
「いや、頭痛の生徒の家って言ってただろーが」
先生の家だなんて一言も聞いてないぞ!
「大丈夫よ。先生は教員社宅に一人暮らしだから」
一人暮らしの何が大丈夫だというのか。
「生徒がお見舞いに来てくれたら嬉しいものよ。きっと」
「うーん」
そんなものだろうか。フルーツとか花束とかがいるのではないだろうか。
四階建ての新しい教員社宅は、学校のプールサイドと同じ匂いがした。コンクリートの匂いなのだろうか。それとも塗料の匂いなのだろうか。どちらにせよこの匂いが新しい感じがして好きだ。
戸田と書かれた表札を探し扉のピンポンを押してしばらく待っていると、ガコッ、ガチャリと扉が開き、戸田先生によく似た黒縁メガネの女性が恐る恐る顔を出した。
いったい誰だろう? よく似ているようで顔が幼い。たぶん、妹さんか来て看病してくれていたのだろう。
「こんにちは」
もうこんばんはの時間ではないだろうか。恵梨香の後ろで俺は何も言えずにいた。妹さんとはいえ、俺達よりは年上のはずだ。
「上がっていいかしら」
いやいやいや、お邪魔だろう。
「……いいわよ。散らかっているけど」
あれ、この声って、まさか……先生、ご本人!
先生のラフな服装のせいか、凄く童顔に見える。さらに玄関は靴やサンダルやブーツで散らかり放題……。
「え、あれが戸田雪菜先生か」
思わず恵梨香の袖口を指でチョイチョイ引っ張って小声で聞いてしまった。
「メイクしてないからよ」
「え、先生ってお化粧してるんだ」
まったく気付かなかったぞ。
「聞こえているぞ野神、失礼だなあ」
「ごめんなさい」
どう失礼だったのだろうか。あとで恵梨香に聞いてみよう……。
「それより先生、シャツの下にブラぐらい付けなよ。一真が視線に困っているでしょ」
「――!」
なんてこと言うんだよ! っていうか、何も気にしていなかったのに恵梨香がそんなことを言うと滅茶苦茶意識してしまうじゃないか――!
「ああ、ごめん。ちょっとあっち向いてて」
「……」
ベッドの近くに落ちていたブラを一つ拾い上げて着ける。俺だけは玄関の方を向かされた。
他にも落ちている洗濯物がもの凄く気になってしまう……。
――まさにここは異空間だ。部屋中が部屋干しされた洗濯物と柔軟剤の香りで頭が痛くなりそうだ――。
「散らかり放題ね。先生ってズボラな性格なの」
「頭痛くてさあ、洗濯も片付けも仕事もまったく手に付かないのよ。もうこっち向いていいわよ」
髪をクシャクシャっとしながら言う。襟が伸びて緩い長袖Tシャツは……大人の魅力ってやつなのだろうか。ずっと見ていると怒られそうだが怒られない。
「今でも痛いんですか」
「ええ、前からずっと」
「じゃあ、ちょっと目を閉じてみてもらっていいですか」
「え」
「まあまあ、騙されたと思って」
先生が目を閉じると、恵梨香が俺の方を見て片目をパチパチ閉じる。
ウインクしている?
俺も目をパチパチ閉じ、ウインクして返して見せたのだが。
『違うでしょ、アホ! 先生が目を閉じているうちに頭痛を治してあげてってサインしているんでしょ。一真の能力がバレないように』
「なんだ、それならそう言ってくれればいいのに」
先生の方に手をかざし、おまじないを心の中で念じる。「痛いの痛いの飛んでいけー」って。
本当にこれで先生の頭痛が治るのだろうか。
「先生、どう? 本当に頭が痛いの」
「え、ええ……。でも、あれ、なんだろう。ちょっと頭がスッキリしてきたみたい」
目を開けると何が起こったか分からないような表情で俺達を交互に見る。
「あれ、痛くない。頭痛くなくなっているわ」
そんな馬鹿な――!
思わず自分の両手を見つめる。――これが俺に隠された能力なのか――。光ったりしなかった。効いたのかどうかも分からない。まさに……微妙な能力。
ひょっとして、逆ドッキリされているのではないだろうか……。
「でも、どうして急に頭痛が無くなったのかしら」
先生は何も知らなさそうだ。本当に頭痛が治ったのか……俺のおまじないで。
「そりゃそうよ。先生の頭痛はただの『思い込み』だったんだから」
「えー!」
「えー! そりゃないだろ!」
恵梨香の手がスッと俺の尻に伸びてきて、ギューッと抓られた。
「痛い!」
暴力反対。抓るのは立派な暴力だ――。暴力は決して立派じゃない――。
「先生は頭痛が続いたから痛覚の神経が弱っていただけよ。本当はもう治っていたのね」
「嘘みたい。あんなに痛かったのが思い込みだなんて」
「思い込みじゃないッス。ちゃんと俺――イテテテ!」
恵梨香がまた尻を抓りやがる! 俺は何も悪いことをしていない。むしろ善い行いをしたというのに――!
「これなら部屋の掃除もできるし、明日から学校にも行けるわ」
「よかった。ね、一真」
「あ、ああ。よかったな先生」
先生が学校に来られるようになれば、とりあえずは一件落着だ。口やかましい教頭が教室に来る事もなくなるだろう。
「長い間休んじゃったから、やることいっぱい溜まっているわね」
それを考えるだけでまた頭が痛くなるかもしれないぞ。とは言わない。言ってまた頭が痛くなれば……また治しに来なくてはならない。
「先生、じゃあクラス委員を決めないと」
「そうね、まだ決まってなかったから」
「だったら、女子のクラス委員は是非、わたくし、里尻恵梨香をよろしくね」
「「――!」」
まさかの立候補宣言?
「え、恵梨香って、クラス委員なんかになりたかったのかよ」
そういうキャラだったのか? 地味なキャラのはずなのに……。教室の隅っこで小説ばかり読んでいるのに……。
「進学に有利じゃない」
進学に有利って……現実の味。リアル過ぎるぞ。
「……俺はしらん」
聞かなければよかった。リアルな理由に頭が痛いぞ。
「ふーん。ところで、野神と里尻はいつからそんな関係になったのかしら。そっちの方が先生は興味あるわ」
「そんな関係って、な、なんでもないですよ俺達は」
両手を前でブンブン振る。なんせ俺は、「内角低目のくそボール」らしいですから。
「デッドボールです」
「フフフ。先生が休んでいる間に生徒はどんどん大人になっていくのよ」
大人って……なんだよ。俺はもう立派な大人だぞ――。
「あー、羨ましい。というか、早く学校へ行きたいわ。こうしちゃいられないわね。部屋の掃除をして明日の準備をしなきゃ」
先生は立ち上がると袖を腕まくりした。
「あなた達、暇でしょ。部屋の掃除を手伝いなさい」
「「――!」」
自分の部屋掃除を生徒に手伝わすのって……普通なのだろうか。
窓のサッシまで雑巾で水拭きさせられたのは……教頭に言いつけてやりたいぞ。