夢オチ
「お前は夢で驚いたことは有るか?」
自動販売機の前でブラックの缶コーヒーのリングプルに指をかけながら智は言った。
「何言ってるんだ?」
窓際の廊下に設けられた小さな休憩エリアの長椅子に腰掛けたまま俺は言った。
「夢を見ているときに、その夢で起っていることに対して驚いた事がお前に有るのかと聞いているのさ。」
智は自動販売機の前で缶コーヒーを飲み始めた。
「まあ、有るだろ?」
「お前はそれを不思議と思った事は無いか?」
「なぜ不思議なんだ?」
「う~ん、そうだな……、夢ってお前の脳が作り出したものだろ?」
「まあそうなんだろうな。」
「じゃあ、なんで驚く必要がある? お前は鏡に映った自分に向かって『わっ』と言って自分を驚かすことが出来るのか?」
「……。」
「な? 自分で自分を驚かすことは出来ないだろ?」
「出来ないな。だから何だ?」
「とすると、夢でお前を驚かせているのは誰なんだ?」
「……。」
「更にな、自分では思いつかない様なことを、夢の登場人物が教えてくれたり提案してきてくれたりするような事は無いか?」
「稀に有る気もするな。」
「だよな……。」
智はコーヒー缶に口を付け、喉仏を柔らかく二度上下させた。
「……お前が言いたいことは何だ? 夢の中に他人の意思が入ってくる事が有るとでも言いたいのか?」
「いや、お前はまだ分かっていない。」
「何だ? 俺を馬鹿にしてるのか? 殺すぞ。」
「まぁ、聞けよ。俺が言いたいのはな、お前が夢の中の他人だと思っているのは自分自身じゃないのかってことさ。」
「何言っているか益々分からないぞ。」
智は勿体ぶった様子で、もう一度コーヒー缶に口を付けた。
「お前が自分だと考えているのは全て脳内の科学反応だろ? それは、身体の外部から取り込んだ情報と、お前の身体内部の状況と、それらを過去から蓄積している情報とを総合的に勘案して、次の情動や動作を一意的に決定しているに過ぎないと思うんだ。つまりお前の脳を含む身体というハードウェアさえ有れば、現在お前が置かれている状況から次にお前が起こすであろう情動や行動は一意的に決まるってことさ。」
「何が言いたい?」
「そこにあるお前という主観は偽物だってことだ。」
「はぁ?」
「いや、言い方を間違えたかな?
俺が思うに、主観のからくりはたった一つで良いんだ。脳と身体というハードウェアの違いと現在の環境の状況の違いさえ有れば、主観のからくりは自分が自分であると勘違いできる。あるいは自分が自分でしか無いと勘違いできる。」
「……。」
「少し話を変えてみよう。
お前は、他人の立場になってものを考える事ができるか?」
「出来ないさ。出来ればこんな事になってない。」
「それはお前のハードウェアと環境がそうさせていると思うんだ。」
「……。」
「主観のからくりは万能なんだ。それに『出来ない』と言う制約を課しているのは身体を構成しているハードウェアの欠損か、不遇な環境、及びそれらが積み上げる経験、あるいは積み上げられなかった経験だと俺は思う。」
「……。」
「お前は象を知っているか?」
「当たり前だろ。」
「ハードウェアの欠損や不遇な環境は、その象の全体像を見えなくしているんだ。まるで僅かな隙間から象を覗いている様なもんだ。その事によって、例えば象の身体は全く見えず、象の鼻しか見えないとするだろ? そうすると、鼻だけしか見れない人間にとって象の姿は、誰がなんと言っても、蛇の様な生物なんだ。」
「まぁな。」
「隙間から見えているのが象じゃなく、身の回りの世界だとするとどうだ? あるいは価値観や正義、倫理だとどうなる? ハードウェアの欠損や不遇な環境はそれを正しく見ることは出来ない。分かるか? そのハードウェアの欠損や不遇な環境が個人を作り出し、万能であるはずの主観のからくりから様々な偽物の主観を作り出していのさ。」
「お前は俺が欠陥品だと言いたいのか?」
「そうとも言える。いやいや、そう怒るなよ。ハードウェアの欠損や不遇な環境はたとえ話だ。万能な主観のからくりが付ける『眼鏡』と表現した方が良いか。これだと欠損じゃなくなるからな。この『眼鏡』は個人個人で違いがあるんだな。縦のスリットが入った眼鏡、赤く色づいた眼鏡、度が強くて遠くしか見えない眼鏡、片目が塞がっている眼鏡、まぁ色々だ。
でもな、俺がフォーカスを当てたいのは『眼鏡』の方なく、万能な主観のからくりの方なのさ。」
「からくりの方だと?」
「ああ、俺はそのからくりは万人に共通のものじゃないかと睨んでいる。つまり、俺もお前も全人類も同じ主観のからくりを使っているんだ。それなのに『眼鏡』のせいで自分が自分であると勘違いしているんだ。
繰り返すぞ? 主観のからくりは世界でたった一つなんだ。ただ、かけた『眼鏡』が違うだけなのさ。」
「……。」
「おい、大丈夫か? 話を続けるぞ?
主観には意識と無意識が有る。その意識と無意識は身体というハードウェアに支配されている。さっきの別の表現だと『眼鏡』をかけているんだ。意識と無意識は分かるよな?」
「まぁ、何となくな。」
「万能な主観のからくりに『眼鏡』がかけられている部分が意識と無意識と言ったよな。さらにその奥の『眼鏡』の影響が無い場所にも万能な主観のからくりが繋がっていると俺は睨んでいる。そして更にその向こうも万能な主観のからくりが繋がっているんだが、その向こうには何が有ると思う?」
「分からんな。」
「無数の『眼鏡』さ。そいつらは偽の他人の主観を作っているだ。つまりだ、万能な主観のからくりは無数の『眼鏡』を付けていて、それぞれの『眼鏡』が各個人の偽の主観を作っているんだ。その中の一つの『眼鏡』を付けている万能な主観のからくりの一部が、お前だ。」
「俺……。」
「俺もお前も根本は同じ自分自身、つまり同じ万能な主観のからくりの一部なのさ。そしてその万能な主観のからくりを人は『神』と呼ぶ。そしてその神は自分と勘違いしている自分自身と、他人と勘違いしている自分自身を繋いでいるんだ。他の『眼鏡』をかけている部分、つまり他人の主観と繋がることができるのが夢って訳だ。な? 面白いだろ?
だから俺はお前に聞いたんだ、『お前は夢で驚いたことは有るか』とね。」
智は缶を振って空になったことを確かめた後、それを自販機の横に置いている回収ボックスに入れた。
「そして俺は今、わりと自由に夢の中を――」
――カンカンカンカン
突然朝を知らせる聞き慣れた音が鳴り、それで俺は目が覚めた。目を開けると見慣れた刑務所の牢内の様子が見えた。
夢か……。
しかし変な夢を見たもんだ。俺が殺した智があんな難しい話を持ち出してくるとは。俺にはまったく想像できない話だ……。
それを反芻して、俺は少し驚いた。