09.濃密な出逢い
なぜキールとエリスは親しいのか?過去話です。閑話休題。前編です。
───少し、昔話をしよう。
エリスとキールの出会いは、十年前。まだ学園に通う前のエリスが、ライルに連れられてやってきた王城で出会った。キールも学園を卒業し、さてこのまま学園に勤めるのか否か、というタイミングだった。
「やあ、ライルくん。君が小さな姫君を連れているなんて珍しいね。」
「キール先輩こそ、城にいらっしゃるのは珍しいのでは?」
「そうだね、間違いない。…姫君を紹介いただいても?」
王城のバラ園に面した回廊が、二人の初対面の場だった。ライルが少し砕けた敬語で話す相手が珍しく、エリスはライルの背中越しに、キールの様子をうかがっていた。久しぶりに会ったらしく話に花が咲きかけていた二人だったが、エリスの視線に気づいたキールが、ライルに促す。ふわふわとした雰囲気の割に、その辺は大人な対応だなとぼんやりと思ったのをエリスは今でも覚えている。
「ああ、そうですね。エリス、ご挨拶なさい。学園での私の先輩で、キール・スタインシュイン様よ。」
「…お兄さまがお世話になっております。セリウス・クラウンがむすめ、エリスと申します。」
「エリス嬢だね。ボクはキール・スタインシュイン。キールと呼んでくれ。」
「はい、キールさま。」
膝をついたキールは、エリスの視線に合わせて自己紹介をすると、そっと手を差し伸べた。どこか困ったような色を瞳に浮かべているのに気づいて、子供の扱いが分からない人なのだろうと気づいたエリスは、努めて笑顔を浮かべて握手をした。手探りながらも子供を対等なレディとして扱おうとするキールの態度に好感を覚えたのだ。良い人そう。エリスはそんな安直な感想を抱いて、キールの心遣いを子供ながらにしっかりと受け取った。
「エリス嬢は何歳だい?随分落ち着いているね。」
「六さいです。」
「今日はエリス嬢を連れて王城へは何をしに?」
「王立図書館の分室へ。エリスが読みたい本が分室預かりでしたの。」
「分室預かりの本…それをこの歳で?」
「エリスは『クラウンらしい』子なんです。」
「なるほど?」
純粋に驚くキールに対して、ライルはあきらめたような苦笑いだ。恐らくは達観しているエリスが、あまりに子供らしくない子供だと兄ながら思うところがあるのだろう。キールはライルの言いたいことも分かったらしいが、軽く肩をすくめてみせた。
「…エリス嬢は、勉強が好きかい?」
「えっと…知らないことを知れるのは、楽しいです。」
「楽しい、か。…これは教授たちが可愛がるだろうなあ。」
「そうですね、教授たちがこぞってエリスに構う未来が想像できるわ…。」
遠い目をして学園の教員たちを思い浮かべる二人に、エリスは小首をかしげていた。そしてキールとライルの想像はこの数年後、晴れて現実のものとなる。
「ところで、キール先輩は今日はどうしてこちらに?」
「ん?ああ、うん…卒業したことだし、色々と陛下から仕事を賜ってね。しばらくは王城に詰めることになりそうだよ。」
「そうでしたの。ああ、それなら先輩。一つお願いが。」
「お願い?」
「ええ、三日後から私も学園が始まります。先輩のご都合がつく日だけで構いませんので、エリスを分室まで案内いただけません?」
ライルの申し出に、きょとん、とした顔を浮かべたキールだったが、当事者のエリスは驚愕から完全に停止していた。何を言っているんだ、と言わんばかりの表情でライルを見上げ、服の裾を軽くつかむ。
「お兄さま、キールさまにご迷惑です。」
「だってエリス、まだ読み終えていないのでしょう?私もさすがに、あと頑張っても明日しか連れてきてあげられないもの。」
「わかっています。でも、それとこれは別です。」
何を言っているんだこの兄は、とおよそ六歳児とは思えない冷静さで、エリスはライルに反論する。分室保管の資料を読みたいと言ったのはエリスだが、だがそれは誰かに迷惑をかけてまでしたいことではない。ライルの学園が始まるタイミングも考えれば、今日の一回来られただけでも十分だったのだと説く。
「キールさま、お兄さまがご無理を言って失礼しました。忘れてくださいませ。」
「え、でもそうしたらエリス嬢はどうするつもりだい?」
「…?どうするもこうするも、仕方ありませんから。また次の機会まで、王都の図書館に通います。」
ごくごく当たり前に言い切った幼女を前に、キールとライルは頭を抱えた。そしてキールは悟った。ライルが親しかった先輩である自分に頼んだのは、エリスは淡々と我が儘の一つも口にせず過ごしているからだろうと。同時に、妹に良い恰好を見せたかった兄としてのライルの心情も察した。恐らくはエリスに子供らしく、甘えてほしかったに違いない。
「…エリス嬢、ボクで良ければ案内するよ。」
「え、でもご迷惑ですし…。」
「いや、そんなことはないよ。どうだろう?明日…は無理だな。明後日の午後、エリス嬢のご都合は?」
「…えっと、」
まさかこちらの予定を聞かれるとは、とエリスはまさかの事態に目を回した。明後日の午後、予定はあるといえばあるし、ないと言えばない。午前中に家庭教師が来る予定があるが、いつも昼までには予定していた課題は終わってしまうからだ。誘いをうまくあしらうことができないあたりは年相応か。困り果てたエリスは、そんな彼女を微笑ましく見つめて返事を待つキールと、まさかの方向からの援護射撃ににこにこと笑うライル二人の顔を交互に見た。そして気づく。これは遠慮したところで、逃げられない。
「えっと…、午前中、先生がいらっしゃるんです。その課題が終わっていれば、午後の予定はないです。」
「そっか。うん、それならお昼過ぎにでも迎えに行くよ。それで、エリス嬢の課題が終わっていたら一緒に来よう。どうかな?」
「ありがとう、ございます…。」
ご迷惑を、なんてこれ以上言ったら怒られそうだとエリスは瞬時に理解した。これは素直に受け取るべきタイミングだ。言いたいことは幾つかあったが全て飲み込んで、エリスは淑女の礼を取った。まだ体幹もしっかりしていないはずの幼女が披露した見事な礼に、キールは思わず、口の端を引きつらせた。これはおよそ、子供らしからぬ子供に出会ってしまった。
そしてそのキールの思いは大当たりした。約束の日、クラウン子爵家に向かえば、しっかりと礼の菓子折りまで用意した幼女が彼を迎えたのだ。予想の数倍上をいく少女、それがキールにとってのエリスの最初の印象だった。
「エリス嬢、今度からはわざわざお礼を用意しないでいいからね。ボクもどうせついでで案内するだけだから、逆に申し訳なくなってしまうんだ。」
「…ご迷惑でしたか?」
「迷惑じゃないよ、ただ、こうしてプレゼントを用意してくれるんじゃなくて、それよりもボクはエリス嬢が笑ってお礼を言ってくれるのが一番嬉しいかな。」
「…。」
大人びたエリスには分かりやすすぎる子供だましな発言だっただろうか、と黙り込んだエリスを見つめつつキールは内心冷や汗を流した。とはいえ、子供からしっかりしすぎたお礼をもらうのは、キールの精神衛生上大変よろしくなかったため、致し方ない。
「…キールさま、ありがとうございます。」
あまりに長い沈黙に、半ばキールの心が折れかけたタイミングだった。エリスはキールの服の裾を指先でつかんで、それからそっとはにかんで笑った。疲れた心に幼女の笑みが沁みる。
「えっと、じゃあ…そろそろ行こうか、エリス嬢。」
「はい、キールさま。」
とてとてと歩くエリスを、キールは子供に慣れないながらエスコートして屋敷の前に待たせていた馬車へ乗り込む。クラウン家の周りは大型馬車で通れる道が限られており、多少遠回りになってしまう。本来なら十分足らずで着くところを倍近くかかって王城にたどり着いた。エリスの用のある王立図書館分室は、一般に門戸を開いた図書館に置いておくにははばかられる資料が主に保管されている。宮廷魔術師の研究資料なども含まれるため、城の門をくぐることのできる身分の者以外に開示されていないのだ。
「エリス嬢は分室で何を読んでいるんだい?」
「…魔力安定剤の多用による副反応に関する研究資料です。以前に、お兄さまが倒れられて。過労だと聞きましたが…。」
「エリス嬢はその見立てに疑問を抱いたんだね。」
「はい。…おかしいでしょうか?」
「どうして?」
「…お医者さまの診断に、間違いはないと。あるはずがないものを調べるなんて…と、お母さまが。」
「おかしくないさ。」
話しながらどんどんとうつむいていくエリスに、キールは敢えて強い口調で断定した。驚いたのか、思わず足を止めたエリスの前に、しゃがみ込んで視線を合わせる。柔らかい紅茶色の髪を指先で梳いてやれば、エリスは猫のように、そっと目を細めた。
「エリス嬢のように疑問を持った人間が調べ続けてきたことで、世界の様々な研究は進んできたんだ。だから疑問を持つことはおかしくないし、それを調べることは誰にも咎められることじゃない。勿論エリス嬢の母君にもだ。」
「キールさま、」
「良ければエリス嬢がどうして疑問を持ったのか…ボクにも教えてくれるかな?一応これでも、人体工学を専攻していたんだ。」
「っ、かしこまりました。」
真剣な声音から少し茶化した声に切り替えて、ついでにウィンクもつけてみる。キールの精一杯のふざけた様子に、気遣われたのを察したのだろう。エリスは眉を下げて笑った。
歳に似合わず、周りの評価をひどく気に掛ける子供だとキールは思った。母親からの全否定の話を聞き、そしてキールはライルの間違いに気づいた。エリスは『クラウンらしい娘』なのではない、否定され『クラウンらしさ』に押し込められたのだ。いくら貴族子女と言えど、ここまで達観している子供は少ない。大人顔負けの気遣いも、おそらくは身近な親からの否定により、幼いだけでいられなかったからこそ。
にこやかに会話を続けながらも、少しばかり目の前の少女がキールには哀れに思えた。年相応を否定された少女。他愛ない話も振って掘り下げていけば、やはり彼女は常日頃から母親に価値観を否定されているようだった。だが芯は強い子らしい。それぞれの価値観を切り分けて理解はしている。とはいえ割り切る前に傷つけられた感情が、彼女を構成しているベースとなっているらしかった。
「なるほど、ライルくんが体調を崩したタイミングと、魔力安定剤を摂取したタイミングに相関性があった、と…。」
「はい。でもそもそも、魔力安定剤を多用しなければならないほどの状態であれば、安定剤のせいなのか、そもそもなのか…切り分ける必要性があるかなと。」
「そうだね、魔力安定剤も近年開発されたばかりの新薬だ。気づかれていない副反応があってもおかしくない。」
「キールさまもそう思われますか?」
「うん。ボクはあまり飲まずに来たけれど、だからこそね。本来飲まないでもどうにかなるはずなんだ。しかも即効性がある。効きすぎている可能性もあるね。」
「やっぱり…。」
恐らく一通りの研究資料は読み込んでいるのだろう。エリスの見解はキールも確かにと思うものが多くあり、年齢差も忘れて二人は話し込んだ。話が盛り上がりすぎて、せっかく目的地である分室に着いたというのに、中に入らず入り口で話し続けたほどだ。
「…お二人とも、入り口でそう話し込まれては邪魔です。」
十分程話し込んでいると、分室の扉が静かに開いた。あ、とキールが思わず声を出せば、扉を開けた主はじろりとキールを一瞥する。
「あっ、す、すみません!」
「エリス様、先日頼まれていた資料はもうまとめてございます。」
「ありがとうございます、マチルダさま。」
分室預かりの司書、マチルダは分厚い眼鏡に無表情のまま、それでもキールに向けるより幾分も柔らかい声音でエリスに話しかけた。叱られたことで慌てていたエリスも、マチルダの声にふんわりと笑みを浮かべる。
「マチルダ嬢、ボクも同席して良いかな?」
「…スタインシュイン様でしたら構いませんが…何の御用でしょうか。」
「今日はエリス嬢の付き添いでね。エリス嬢の調べているもの…ボクも興味があるんだ。」
「…承知しました。」
キールのことを胡散臭そうにじろりと眺めてから、マチルダはちらりとエリスを見やった。エリスの表情にキールへの嫌悪感などがないことを確認したうえで許諾するマチルダの姿に、たった一回の来訪でエリスはどこまでマチルダと打ち解けたのだろうと内心で驚愕していた。
「どうぞ、ただし分室内ではお静かに。議論されたいのでしたら別室をご用意いたします。」
がらり、と開けられた扉の向こうは、しけった紙の匂いが満ちている。マチルダに先導され、エリスの求めていた資料の山のもとにたどり着き、キールは思わず目を見開いた。およそ六歳の少女が読むには骨が折れるだろう難解な研究資料から、何故これを見つけてきたのだろうと訝しげにならざるを得ないほど珍しい資料まで並んでいる。
「マチルダさま、ありがとうございます!」
小さな体で椅子にどうにかよじ登って、エリスは迷わず資料に手を伸ばした。そして黙々と読みふける。机の脇に幼い字で何事か書きなぐられた羊皮紙が積まれており、エリスは大人顔負けの速度で資料を読みながら、何事かを新しい羊皮紙に書き付けては山に追加していった。
「エリス嬢、こっちのメモ見せてもらっても良いかい?」
「はい、っあ、でも殴り書きで!」
「うん、大丈夫。借りるよ?」
「はい。」
エリスのメモ書きはおよそ少女が書いたとは思えない内容だった。考え方に何か癖があるようで、およそ魔力や薬学の専門家が書いたものとは思えない。ただ固定概念に縛られない考え方で、理路整然と仮説が並べられたメモは、キールからして非常に興味深いものだった。
この時点で、エリスが夢を見始めて既に三年ほど経っていた。エリスの自己や考え方には前世の知識が多く含まれており、それにより年齢より限りなく大人びた少女となっていたのだ。キールからすれば斬新な切り口から考え出された仮説たちも、エリスに馴染んだ前世の価値観がベースとなっている。固定概念に縛られていないのも道理だった。
「エリス嬢、君の仮説は当たりかもしれない。」
「え?」
エリスが目の前の資料を一山片づけたところで、キールは机から身を乗り出して言った。あまりにキラキラした笑顔に、思わずエリスは停止する。
「あの、キールさま…?」
「魔力安定剤の副反応、確かにこれはあり得る。そしておそらく…仮説の範囲だけれどライルくんの体調不良もこれだ。魔力安定剤は、言ってしまえば体力の前借みたいなものだったってことだ。無理に細胞を活性化させて、体内で暴走している魔力を力技で押さえつける。細胞活性剤の効果に近いことに気づいたのは素晴らしいと思う。」
一息でここまで話して、その先はおそらくまだキールも整理している途中だったのだろう。これは?この資料があれば足りる、などとブツブツ言いながらエリスのメモと資料を交互にめくる。そんなキールに、エリスはおずおずといったていで声をかけた。
「あの、」
「ん?何だい?」
「えっと、あの…、」
「エリス嬢、これは大発見だよ!」
「本当、ですか?」
「もちろん!こうしちゃいられない、エリス嬢、このメモは持ち出していいものかな?よし、じゃあこれを持ってアンカース卿のところへ行こう!」
「えっ!?」
キールは興奮した面持ちで、エリスが読み漁った資料をすさまじいスピードで片付けると、そのままエリスをエリスのメモ書きごとまとめて横炊きにした。マチルダに申し訳程度に礼を言うと、分室を慌ただしく飛び出していく。キールの腕の中から、マチルダへ礼を叫ぶのがエリスの精一杯だった。
「アンカース卿!」
「…何があった?」
横抱きにされたままアンカース宮廷魔術師長の元に運ばれたエリスは、ようやく彼の研究室にたどり着いた時には目を回していた。
落ち着くまで休んでいるようにと、ふかふかの長椅子に座らされたエリスは、用意された果実水をちびちび飲む。エリスを休ませると同時に、キールとアンカースは先ほどのエリスのメモをもとに何やら話し込み始めたのだ。話していくうちにアンカースの表情が楽しげなものになっていくのを、エリスは果実水の甘さに集中することで視界から排除した。
「…これは、空恐ろしい。」
「それはわかるさ。けれどこの内容を発表しないのも恐ろしいことでは?」
「違いない。悩ましいことだな。」
エリスの仮説。それは今後さらなる検証は必要ではあるものの、概ね誤りではないだろうと思えるものだった。故にキールは大慌てでアンカースの元にエリスを連れてきた。この面倒でかつエリスにとって好ましくない未来を排除してやるために、可能性がある者のところへ縋りに行ったのだ。
「…まずは、彼女を紹介してもらっても?」
「ああ、そうか。エリス嬢、もう動けるかい?」
「っ、はい。えっと…セリウス・クラウンがむすめ、エリスと申します。突然おじゃまして、申し訳ございません。」
「宮廷魔術師長の任を頂いている、アンカースだ。クラウン子爵の娘と言えば、確かまだ六歳ではなかったか?」
「はい、そうです…?」
「やはりな。娘が嬢と同い年だ。近いうち遊んでやってくれ。」
「わたくしでよろしければ、喜んで。」
アンカースは内心、キールの持ってきた仮説を立てたのが目の前の、自身の娘と同い年の少女だとは思いたくもなかった。思わず一瞬、遠い目をして現実逃避を図った程度には。けれどそれを許さないと言わんばかりのキールからの圧、もとい魔力に気圧されて踏みとどまった。
「…端的に言おう、エリス嬢。君はこの研究を発表したいか?」
「研究だなんて、」
「これは研究だ。…本来は、どんな研究にも発見者の名前が書かれるべき。だが、魔力安定剤は王家預かりで開発した薬だ。これは王家主導で開発した薬の今後を決めるかもしれない内容…エリス嬢の名前が入って研究が続けば、君の将来は間違いなく研究所預かりだろうし、またそも安定剤の開発者たちから良く思われはしない。身の危険が伴う。」
齢六歳の少女が、王家主導の研究成果を覆す。どれほどに危険なことか、アンカースは淡々と説いた。王家の威信に関わることはもちろんだが、それ以上にエリスの身に降りかかるものが大きすぎる。下手をすれば王家へ仇なすものと見なされる可能性もあれば、そこまでの研究ができるならばと早くから囲い込もうとする研究者も出てくるだろう。だがもちろん、名声を彼女が求めるならば、止められはしないというアンカースの説明に、エリスは両手で持ったままだったグラスを傍のローテーブルに置いた。
「わたくしは名声を求めません。」
「…これが重要な発見だとしても?」
「はい。これはただ、お兄さまの体調不良の原因を知りたくて調べた結果。そもそもわたくしは、研究者ではありません。」
親子ほど年上の、しかも決して柔和な顔立ちではないアンカースの目をしっかりと見つめて、エリスは淡々と述べた。心配げに先ほどまで話していたアンカースは、エリスの子供らしからぬ落ち着きにスッと目を細めた。キールは短くはない付き合いの為知っているが、アンカースのその表情は、対象に興味を抱いた時のそれだ。そんなことをつゆほども知らないエリスは、アンカースの表情に何を思ったのか。少女が浮かべるのに似合わない、どこかニヒルな笑みを浮かべた。
「もしよろしければ、アンカースさまのお名前で発表していただけませんか?」
「ほう?エリス嬢はこの世紀の発見を、初対面の人間にただ研究結果を譲ると?」
「はい。それに、わたくしはただ発見しただけです。アンカースさまなら、調査までしてくださるのでは?」
「…初対面の人間に対しては、ずいぶん大きな信頼だな。」
「いいえ?」
エリスを挑発するように、アンカースはひじ掛けに大仰に体重を預けた。斜に構えたアンカースの姿にも、エリスは一切態度を変えない。
「キールさまの信頼する宮廷魔術師長さま。…十分な理由です。」
お願いします、とエリスは頭を下げた。内心、エリスは胃が痛く冷や汗をかいていた。自身の前世の記憶───『えなじーどりんく』とやらに魔力安定剤が近しいと気づいたのがそもそもの始まりだった。えなじーどりんくは多用すると、心臓に負荷がかかり、幼少期に多飲して亡くなった例もある飲み物だったと記憶している。もしエリスの仮説通り、えなじーどりんくと魔力安定剤が近い効力を持つのであれば。
魔力安定剤は、使用する魔力量が増える青年期頃に飲む機会の多い薬剤だ。ライルは体質に合わないといって、飲んだ後しばらく心拍が早くなると伏せることが何度かあった。開発されたばかりの薬剤であれば、副作用に関しても研究は発展途上だろうと見込んで、ライルの症状がエリスの仮説通りに安定剤由来なのか調べただけのこと。
エリスからすればその程度の認識だったのだが、こと自体は予想外に大事になってしまった。エリスとしては目立つのは本意ではない。無論、前世の知識を活かせば、研究員になることも容易いだろう。だがこの世界の研究員といえば、前世でいうところの『ぶらっくきぎょう』そのものだ。巨額の富は得るが、激務と共に変人奇人と呼ばれる覚悟もしなければならない。咄嗟に脳内で算盤をはじいたエリスは、とどのつまりうまいことアンカースに押し付ける手段を選んだに過ぎなかった。
「…なるほどな。分かった、これは宮廷魔術師団預かりとして発表する。」
「ありがとうございます。」
「エリス嬢、こちらへ。契約だ。立会人は貴殿が務めるだろう?」
「勿論だとも。飲んでくれてありがとう、アンカース卿。」
「何、礼には及ばん。」
はて、契約とは。ぽかんとするエリスを呼び寄せて、アンカースはさらさらと羊皮紙に魔力で文字を書き入れていく。契約条件らしい。状況をエリスが把握できていないと気づいていたキールは、苦笑いを浮かべながら説明した。
「本来、宮廷魔術師団の研究成果は王家にのみ提出され、それが国中に広められるべきと王が判断なさったものだけが世間一般に知れ渡るんだ。このまま宮廷魔術師団預かりで調査が進めば、エリス嬢がこの先の研究結果を知ることはかなり難しくなる。それに、知らないうちに発表されるかもしれないだろう?」
「左様。だからこその契約だ。エリス嬢の研究を譲り受ける代わりに、我々が調べた結果は何らかの方法でエリス嬢に伝えよう。また、情報の発表時期などの情報も然りだ。」
「えっと、」
「エリス嬢、これは正当な権利だ。受け取りなさい。」
「…はい。」
混じりけのない魔力で書かれた契約書は、文字が不可思議にきらめいている。インクで書かれたのではないことが一目でわかるものだった。アンカースに促されるまま契約書を黙々と読んだエリスは、最後まできっちりと読み込んでうえで問題ないと、一つ頷いた。契約書はエリスの年齢に合わせてか、仰々しい見た目の割に、分かりやすい言葉だけで書かれていたため、事細かな確認も必要なかった。
「…サインはどうすれば?」
「ああ、それはだな。我々三人の一滴ずつの血液だ。」
「サインよりも強力な契約だね。指先に針を刺すんだけれど…やめておくかい?ボクは一応立会人だけれど、エリス嬢の年齢なら代理人にもなれるよ。」
「大丈夫です。ありがとうございます、キールさま。」
見本と言って、アンカース、キールの順に契約書に血を垂らした。エリスも二人にならい、契約用の針で左人差し指の先に傷をつけ、染み出した血を契約書に落とす。すぅ、と羊皮紙に吸い込まれた血液は、一瞬きらりと光ったのち、複雑な文様を描き出した。
「…これは?」
「魔血証だ。魔力を持つものが、血液で契約を交わした時に現れる。…エリス嬢のは随分複雑だな。」
アンカースとキールの文様に比べて、エリスの魔血証は随分複雑だった。混魔ほど複雑な文様になりやすいのかもしれない、とエリスはぼんやりとそれを眺めた。
「さて、これを陛下に提出して来よう。エリス嬢、王城に来るときは気軽に訪ねてこい。歓迎するぞ。」
「え、あ、ありがとうございます!」
契約書となった羊皮紙をくるりと巻くとアンカースはスッと立ち上がった。唇の端でニヤリと一つ笑みをこぼして、颯爽と部屋を出ていく。出ていく前に、エリスの手を取って、甲にキスを落とすのも忘れない。普段されることのないレディ扱いに、エリスは一瞬で目を回した。
「…大丈夫かい?エリス嬢。」
「…あれが大人の余裕というやつですか…。」
「アンカース卿のあれかい?んーまあ、そう、かな。」
単にアンカースのからかいだ、とキールとしては言いたかったのだが、確かにそれはエリスの立場から見れば、余裕から生まれたからかい、ではある。なんとなく釈然としないものを飲み込みつつ、キールはエリスの言葉に相槌を打った。
「エリス嬢はこれからどうする?帰るのなら送っていこう、少し遅くなってしまったね。」
思いもよらない事態による緊張と衝撃で、エリスの膝は完全に抜けてしまっていた。帰るのなら、と提案されたが、それ以前に動けない。そんなエリスを見かねてか、キールは再びエリスを横抱きにすると、アンカースの研究室を後にした。