04.波乱含みの幕開け
長いようで短かった社交シーズンも終わり、エリスは学園に戻った。パベリーら幼い頃から気心の知れた使用人達と過ごす日々は穏やかで、エリスも居心地が良いと感じるのだが、如何せんそれ以外が問題だ。しかも今年は極めつけと言わんばかりにドレスの問題があった。だからプレタポルテで、それか母と叔母の好みだけ反映した誰の為か分からないドレスだけで良かったのだ。エリスは嘆息する。
王家での夜会以降、ローリヤは部屋で臥せってしまった。本人は海から長く遠ざかっているために起きている魔力の波だと、しばらくすれば落ち着くと主張して部屋にこもっているが、ローリヤの魔力は傍から見て別段乱れてはいなかった。つまるところ、娘である自分と顔を合わせたくないのだろうとエリスは結論付け、誰よりも早い学園への戻りをセリウスに申し出た。
「エリス嬢、早いね。」
「スタインシュイン先生こそ。」
「まあね。…ところでそれ、毎回言ってるけど、家名で呼ぶのやめない?エリス嬢なら良いんだけどなあ。」
学園に戻り荷解きを終えたエリスがいの一番に向かったのは養護教諭であるキールが詰めている、所謂医務室だ。カラリと引き戸が音を立てれば、分かっていたと言わんばかりのキールがエリスを迎え入れる。学園内は建前としては外界と分断されており、ここでは皆平等とされる。その為エリスも弁え、教職員であるキールを家名で呼ぶようにするのだが、キールは毎度毎度それを拒む。キールを名前で呼ぶ者は多くなく、また地位も限られた者ばかりのため、目立ちたくないエリスとしては家名で通したいのだが、面と向かって落ち込まれてはどうしようもない。これで面倒事に巻き込まれたらキールを全面的に批難してやる、と何度目か分からない決意を胸の内で唱えて、エリスは溜め息を吐いた。
「分かりました、キール先生。これでよろしいですか?」
「うん、それがいいな。」
「……はい。」
溜め息を目の前で吐かれたというのに、キールはご機嫌と言わんばかりの満面の笑みだ。エリスはもう一つ溜め息を吐いて、仕事に取り掛かる。
「キール先生、わたくしは薬剤の在庫を確認して参りますので、何かありましたらお声がけ下さい。」
「分かった。よろしくね、エリス嬢。」
「はい。」
医務室の奥の薬棚の薬剤を、チェックリストに沿って確認していく。在庫数が一定以下のものは発注ないしは精製しなくてはならない。基本的なものは薬学の授業で高学年の学生達が作った物を流用できるが、そうもいかないものも多い。学園からエスカレーター方式で所属できる研究院があり、そこに依頼が必要なものも多く、そうしたものは月に一度、取り纏めたものを学園長の決済を通した上で提出せねばならない。在庫管理はいつの間にかエリス専属の仕事となっていたため、まずは、とそこからエリスは手を付け始めた。
「……今回はだいぶ発注せねばなりませんね。」
「本当だねえ。休み前の分もあるからだろうね。」
「ええ。一部はわたくしが調合できますが…。」
几帳面な性格ゆえか、エリスは薬剤の調合が得意だ。尤も研究院に進めるほどの熱量も、研究意欲もないため、単に調合が得意、なだけではある。だがそれでもキールの補佐として活動する中ではなかなかに重要なスキルなため、エリス自身、そのスキルだけは磨いておかねばと常日頃鍛錬を欠かさない。
「エリス嬢の調合スキルは安定しているからね。できうる範囲で構わないからお願いするよ。足りない分と、あとは…ああ、魔力安定剤もか……厄介なのは全て発注しよう。いつもより余計に頼んでおいてくれるかな。」
「かしこまりました。過去の在庫数と合わない分は、理由として例の件を書いておけばよろしいですか?」
「そう…だね。濁して、お願いできるかな。」
「勿論です。」
聖女の件で学園が荒れる可能性が高いから、などと馬鹿正直には書けまい。聖女様の身を守るため、不測の事態に備えるとでも書けば良いだろう。エリスの判断は正しかったらしく、見本解答のようなエリスの申請書にキールは太鼓判と責任者印を押した。
「キール先生、調合室をお借りしても?」
「ああ、構わないよ。ついでに薬草の在庫も確認しておいてもらえるかな?」
「はい。」
他の学生達が学園に戻り始めれば、医務室に引きこもりきりになるわけにもいかない。今のうちに出来うる限り、とエリスはキールから鍵を受け取り、医務室から続き部屋になっている調合室と薬草庫に閉じこもる事を決めた。調合室に入り扉を閉めると、制服の上着は脱ぎ椅子に掛けてしまう。シャツの袖をまくり、リボンタイも邪魔だと解き、ポケットに忍ばせておいた髪紐で長い髪を括る。こうした一連の動作は、貴族の子女としては無作法に当たる。そもそもジャケットを脱ぎシャツ一枚でいるなど、はしたないとマナーの講師からは怒られかねない。だがここは調合室。入って来てもキールくらいのものだし、キールは既に不意にでるエリスの貴族の娘らしからぬ所作にも慣れている。
薬草庫から必要な薬草を持ち出し、そのついでに手早く在庫数をチェックしてからエリスは黙々と薬剤の調合を進めた。手際よりも着実性。量より質だ。淡々と、一定量の薬剤を調合しては瓶に詰め、また次の調合に取り掛かる。簡単な傷に使う傷薬や止血剤を数十瓶エリスが作り終える頃には、高くにあった日が既に沈もうとしていた。
「……あら。」
どうりで部屋が段々と薄暗くもなるはずだと一人納得して、手際良く材料や器具を片付けていく。集中し過ぎると周りが目に入らなくなるのはエリス自身自覚している悪癖だった。その代わり、集中し切った後はしばらく思考がスッキリする。家での騒動諸々から思考を切り離すため、半ば意図的にエリスは調合室にこもったのだが、効果はあったらしい。絡まりすぎた思考の渦から一歩引いたような心持ちで、エリスは片付けと身なりを整えるのを同時進行しつつ息を漏らした。恐らくキールが暗くなるまで一切声をかけてこないのも、エリスの思惑を分かってのことだろう。
「ああ、エリス嬢。お疲れさま。」
「長々と申し訳ございません。一応、半月分程度は調合出来ました。薬草の在庫はこちらです。」
「うん、ありがとう。」
調合した薬剤の数量のメモと、薬草の在庫数の一覧を手渡せば、キールは満足気に頷いた。
「毎度ながらエリス嬢の集中力は凄まじいね。これだけの量の薬剤を半日で作り切ってしまうなんて。」
「むしろわたくしには集中し過ぎるという悪癖しかございません。調合できるのも基本的なものだけですし。」
「それを悪癖と取るのはエリス嬢くらいだと思うけれどね。っと、そろそろ寮に戻った方がいい。」
「長居してしまいました。明日も残りの調合に伺ってもよろしいでしょうか?」
「もちろんだよ。ああ、それよりも明日は薬剤諸々の申請に行ってもらってもいいかな。」
「かしこまりました。」
学園内を動き回るなら、学生達が戻りきる前の方が良い。キールの言外に込められた意味合いに気づき、エリスは嘆息しつつ頷いた。エリス自身も同じ意見に最終的には行き当たるからだ。
それから二言三言交わしてから、エリスは医務室を後にした。医務室は学園の中心部近くにあるため、寮まで少しばかり歩かねばならない。それも男子寮と女子寮が学園の両端に位置しているからこそなので、エリスとしてはそれに不満を唱えるつもりはない。日が沈んで、じわじわと宵闇に包まれつつある校舎の廊下はどこか陰気な空気を感じる。だがその冷たい空気は学園に充ちる魔力が起こすもので、エリスにとってはむしろ居心地が良いものだった。
───王立ベーゼンド学園は十歳から十八歳までの貴族の子供たちが通う、王家直下の教育機関だ。この国で貴族の子供の社交界のデビュタントは十二歳。十歳で親は子供に家庭教師をつけるか、学園で寮生活をさせるか決めなくてはならない。学園への入学規定は魔力持ちか混魔、ないしは先祖返りの貴族位の子供であるということ。爵位のない者達は各領地ごとに魔力コントロールを学ぶ機関が置かれており、そこに属する決まりがある。
魔力を生まれつき完璧にコントロールできる者はごく稀だ。生まれ落ちた時点で魔力の有無は分かり、魔力を持つ子供は等しく、十歳まで魔力封じの呪いを国の魔術師から受けねばならない。魔力のコントロールには精神力が影響するため、幼い頃から使わせることは出来ない。
学園では基本的な勉学から魔力のコントロール、社交界でのマナーなど貴族位の子供たちに必要な知識をすべからく学ぶことが出来る。ただし集団学習にはなるため、伝統を重んじる高位貴族は家庭教師をつけ、学園に入学させないこともままある。
「ああ、準備が終わらないわ!どうして早く着こうとなんてされるのかしら!」
「どうされました?マダム。」
「あらあらエリスさん。おかえりなさい。医務室帰りかしら?」
「ええ。何かあったのですか?」
寮に戻ったエリスが目にしたのは、穏やかという言葉を体現したような人物とエリスが勝手に思っている寮母が、かつて見た事がないほどに慌てた姿だった。
「聖女様とその姉君が予定より早く寮に来たいと仰っていらっしゃるの。…こちらにも用意があるからと、先んじて日程を再三確認したというのに!」
「……ご苦労お察しいたします、マダム。」
聖女を輩出したフルール家は過去に一人も学園に子を入学させたことがない一族だ。故に学園という集団生活を行う機関が、どのように回っているのかの理解が乏しいのだろうというのは想像にかたくない。その辺は今後入学してから色々と聖女たち姉妹を起点に覚えてもらえればとは思うが、まずは入学前の準備である。急な変更に対応しきれなかった、などとは間違っても言えない。言ったら最後、フルール家をはじめとした学園に子を通わせることに懐疑的な貴族たちはぎゃーぎゃーと騒ぎ出すだろう。もしかすれば、こちらが目を回すのを狙ってやっている可能性も十二分にあるのだ、気は抜けないし失敗も許されない。
「マダム、わたくしがお手伝いできることはありますか?間に合わせ程度の対応ならわたくしでも多少はお力になれるのでは。」
「エリスさん…あなたは本当によく出来た娘さんね。お願いできるかしら?」
かわりに、成績の加点となるよう先生方にもお伝えするわ!寮母のその言葉に、エリスは笑って首を振る。別に加点目当てではないし、むしろ下手に成績が上がっても困るのだ。エリスの成績はエリスが全て考えた通りの評価を得るように、もとより調整してある。それよりも聖女絡みで学園が揺れぬようにすることが重要だ。
「お役に立てるとしたら、寮と校舎までの渡り廊下の、結界の貼り直しあたりでしょうか?備品の調達でしたら、明日医務室の分がありますからついでに伺えます。」
「それなら、備品の方をお願いできるかしら?今日のうちに申請書を用意しておくわ。」
「かしこまりました。では明日の朝、医務室に行く前にマダムのところへお邪魔しますね。」
「ええ、よろしくお願いね。ああ、そうだわ!それなら明日の朝食は一緒に頂きましょう。」
「よろしいのですか?」
「勿論よ!場所は職員用の食堂よ、場所はご存知ね?」
「はい。…そうしましたら、また明日の朝に。」
学生達と教職員が並んで食事をとる機会はほぼない。それぞれに専用の食堂があるからだ。寮母をはじめとする職員向けの食堂はマナー指導をする者がほぼほぼ食事をとる場のため、学生向けの食堂よりも良いメニューが出ると専らの噂だ。そしてそれは、噂ではなく事実である。幾度か寮母の手伝いついでにその食堂へ連れて行かれたエリスは知っている。
翌朝のこと。授業が始まるまでの間は、早くに寮に戻ってきていても制服を着用する必要は本来無い。だがエリスは余程のことがない限り、学園内では制服で過ごしている。寮母と約束した朝も同じ事で、何度かノックした事のある扉を、エリスは軽く胸元のリボンを整えてからそっと押し開けた。
「おはようございます。失礼します。」
「おはようエリスさん。よく眠れたかしら?」
「ええ、マダム。」
「それは何よりだわ。さあ、エリスさんは何を召し上がるのかしら?お好きなものを選びなさいな。」
「ではお言葉に甘えて。ありがとうございます。」
既に顔見知り程度の交流はあるシェフに、ふわふわのパンケーキとスクランブルエッグ、サラダとかぼちゃのポタージュをごく少量ずつプレートにしてもらうよう頼んでみる。心得たとばかりに手際よくプレートを用意してくれたシェフは、おまけだとウィンク付きで甘い香りを漂わせるカットされた桃までつけてくれた。思いがけないおまけにエリスが目を瞬かせれば、寮母が柔らかく微笑んだ。曰く、シェフからも可愛がられているのだと。
「シェフ、ありがとうございます。」
シェフはゆるりと笑って、良いのだと首を振ってみせる。エリスはそれにお礼の気持ちを込めて、もう一度笑みを浮かべてから、寮母と連れ立って長いテーブルについた。
「今日エリスさんにお願いしたいのはこちら。」
「拝見いたします。」
ぱらりと目を通せば、急ぎ追加で必要になった備品たちエトセトラエトセトラ。全てが理由に聖女関連である旨が記載されている。医務室にこれから取りに向かう書類達も同じ状態だ。処理をする担当者たちの顔を思い浮かべ、エリスはそっと目を伏せた。ご愁傷さま、の意である。
「ではこちらはお預かりいたしますね。他にお手伝いできることはございますか?」
「申請に行ってもらえるだけで十分よ。エリスさんは医務室の方のお仕事もあるでしょう?」
「かしこまりました。では、また人手が必要になりましたら仰ってください。」
「ありがとう。」
にこやかに寮母と朝食を済ませ、エリスはその足ですぐに医務室へ向かった。キールがいようがいまいがエリスにはさして関係ない。まだ来ていないだろうと踏んで医務室に向かえば、案の定鍵が掛かっていた。鍵穴に魔力を流し込めばそれはするりと開く。
朝日は浄化の力が強い。キールは吸血鬼の先祖返りだ。自然物の中ならば日差し、特に朝日が天敵だ。無論日差しを浴びて灰になるようなことはないが、相性が悪いことだけは事実。キールが付箋をつけてデスクに置いておいた書類を回収する。
「エリス・クラウン嬢。」
医務室に再度施錠して、書類を抱えたエリスは事務室棟へと足を進めていた。その背中に、少しばかり棘のある声が掛かる。
「…わたくしにご用でしょうか?ステファン第一王子殿下。」
プラチナブロンドの髪に、煌めく金の瞳。エリスを呼び止めたのは神々しいまでの色を持つこの国の第一王子だった。ステファン・ジュド・ベーゼンド。余談だが第一王子は攻略対象ではない。そして、本来混魔であるエリスと関わりはない。エリスが怪訝な表情になるのは仕方のないことだった。それでも失礼がないようにと体ごとステファンに向き直り深々と腰を折って礼をする。
「……エリス・クラウン嬢、貴殿に話がある。」
「第一王子殿下が、わたくしに、ですか?」
きょとり、と目を丸くしたエリスを、ステファンは苦々しげな表情で見詰めた。その意図は、エリスには測れない。
「かしこまりました。……差し支えなければ、申請書類の提出だけさせて頂いてもよろしいでしょうか?預かり物でございまして。」
「構わない。申請が終わったら生徒会室に来たまえ。」
「かしこまりました。」
再度深々とエリスが礼をしているうちに、ステファンは踵を返していた。
「……嫌な予感しかしない。」
はあ、とひとつ大きなため息をこぼして、エリスは本来の目的を果たすために再び足を動かした。