19.此処では守れないから
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キールがクラウンの屋敷を訪れるより少し時間は巻戻り、時刻は明け方。目覚めたエリスの視界に広がったのは、王城の医務室でも、学園の寮でもなく、クラウン家の自室の天井だった。柔らかいリネンの感触が心地よく、しばらくぼんやりと微睡む。恐らくライルなりに連れ帰られたのだろう事は想像できた。窓の外はまだ暗く、僅かに日がさし始めたタイミングとくれば、今起き上がったところで誰かを呼ぶわけにもいかない。
思えば無為にぼんやりとした時間を過ごすのはいつぶりだろうかと考え、それからエリスは思考を放棄した。思い出せない記憶を辿るのは労力の無駄だ。思考するだけの体力が戻ったのなら、考えるべきことは幾らでもある。例えばキールとの婚約のこと。家格も、魔族としての釣り合いも問題はない。クラウン家は子爵家だが歴史もあるうえ、キールは次男だ。問題はキールの寿命に関してで、それもエリスが眷属になれば解決する。―――眷属になることに、ローリヤが反発さえしなければ、丸く収まる。その点においてはローリヤがどう感じるかが読めないが、エリスの体内にはもうキールの魔力が混じっている。反発されたとて押し通さざるを得ない。
集中し切れず、あちらこちらに飛ぶ思考でどうにかそこまで考えをまとめたところで、静かに扉をノックする音がした。
「失礼します、お嬢様。」
「…パベリー、おはようございます。」
「! お嬢様、目が覚めて…!?」
エリスが眠っていると思っていたらしく静かに入室してきたパベリーは、既に目覚めていたエリスに気が付くと慌ててエリスに駆け寄った。怠い体をパベリーに支えられ起き上がると、くらりとした目眩がエリスを襲った。軽いそれを、目をきつく瞑ってやり過ごす。慌てて差し出された水を含み、ようやくエリスはひと心地つくことができた。
「ありがとう、パベリー。」
「いえ。…お嬢様、目が覚めて早々に申し訳ございませんが、ライル様より、お目覚めになられたらお会いしたいとご伝言を承っております。お呼びしてよろしいでしょうか?」
「お兄様はもう起きておいでなの?」
「はい。そろそろお嬢様がお気づきになられるのではと…。」
「そう、分かりました。お兄様にお会いします。」
エリスの魔力の戻りまで加味して、意識を取り戻す頃を想定するなど、よほど話したいことがあるらしい。急ぐが吉だろうと判断し、エリスはパベリーにそのままライルを呼びに向かってもらった。兄を呼びつけるなどとも思ったが、本調子には程遠いため致し方ないと判断した。
パベリーが部屋を退室する前に、わざと温めに淹れてもらったミルクティーを、ソファーまで移動して飲む。恐らくライルは、仮にエリスがベッドの上でも気にしないだろうが、早くに話したいという内容がまさか体調伺い程度だとは思っていない。本腰を入れて聞く必要のある話題ならば、服装は部屋着に申し訳程度の羽織で許してほしいが、せめてしっかりと体を起こして聞くべきだと思った。
エリスが紅茶を飲み切るよりも早く、部屋にノック音が響く。ひょこりと顔を覗かせたライルは、ある意味予想通りソファーに座り自分を待っていた妹に、少しばかり顔を顰めた。
「エリス、入るわよ。」
「お兄様、おはようございます。」
「…寝ていても良かったのよ。体調はどう?気持ち悪さや怠さは?」
「倦怠感はありますが、ただ座っているだけならば問題ありません。それより、わたくしを運んでくださったと聞きました。ありがとうございます。」
「そんなの兄として当然のことでしょう。」
軽く頭を下げるエリスに、ライルはわざと尊大な態度で鼻を鳴らして見せる。不遜に見せるそれがライルの照れ隠しだと知っているエリスは、くすくすと笑いながら温まった紅茶で唇を潤した。
「お話があると伺いました。大切なお話かと思っておりましたが…、」
「…ええ、そうね。大事な話よ。」
カップをテーブルに戻して、エリスは今できる精一杯で居住まいを正す。向かい合って座るライルの表情は険しい。言いにくい話ならば、とエリスは先に口火を切った。
「お兄様のお話の前に、わたくしからも一つよろしいでしょうか?」
「なぁに?私の可愛いエリス。」
「…キール様と婚約したく思います。」
エリスの言葉に、ライルは目を丸くする。否定も肯定も、相槌すらないのをいいことに、エリスは話し続けた。
「わたくしが倒れた理由を恐らくお兄様はご存じでしょう。ですから詳細は省きますが…キール様に、わたくしはわたくしの意志で血を差し上げました。結果、キール様の魔力が混ざり込んだそうで…お互いの今後のために、キール様の眷属となる必要があると判断しました。無論、キール様に無理強いされたわけではなく、わたくし自身の意志と選択です。クラウン家、ひいてはお兄様の負担にはならないかと思うのですが…、」
「ストップ、エリス。」
「はい。」
ライルが鋭い声音で押しとどめるまで、エリスは淡々と婚約について報告した。ライルは宰相補佐だ、時系列での事象はおおよそ報告が上がってきており知っている。知っていて、ライルが知りたかったのはエリスの心情だった。どう聞き出そうかと悩むライルに何を思ったか、エリスの理路整然とした説明に、ライルは思わず頭を抱えた。妹の根っこの部分は恐らく、キールと引き合わせた幼少期、研究に傾倒しがちな頃から全くと言っていいほど変わっていないらしかった。
「ええと…そうね、私の負担になるかどうかはエリスは何も気にしないでいいわ。それに、キール先輩なら何も問題はない。エリスが倒れるに至った事情も大体は報告を受けているわ。…私が聞きたかったのはね、エリス。エリス自身がどう思っているかよ。」
はあ、と大きく溜め息を吐いて、ライルはようやっとエリスとまっすぐに目を合わせた。自身のものよりも色彩の淡い、エリスの瞳。じっと見つめれば、内側で魔力が蠢いているのが感じ取れる。家に運び込んだ時よりもだいぶ回復しているらしいそれにそっと安堵しつつ、ライルはエリスから目を逸らさない。
「エリスはキール先輩をどう思っているの?眷属ともなれば、単なる婚約とは話が違うわ。一度縁を結んでしまえば、解消は不可能よ。」
「そんなの今更でしょう、お兄様。」
短絡的に決めたのではないか、と問い詰めるライルに、エリスは薄く笑う。そのシニカルな笑みは、エリスが時折見せる表情だ。だがそこに、ローリヤに向けるような冷めた感情が浮かんでいないことだけがライルの救いだった。
「解消云々の前に、わたくしに溶け込んだキール様の魔力を取り除くことはできません。一番穏便に済むのは、平和的解決は、婚約しかないとわかっていらっしゃるくせに。」
「勿論わかっているわ。でもそうじゃない、私が言いたいこと、エリスはわかっているでしょう?」
「───それは、まあ。」
はぐらかすなというライルに、エリスは折れざるを得なかった。一つ息を吐き、冷め切った紅茶を一口飲む。昔から、ライルだけはエリスに真っ直ぐ向き合おうとする。唯一家族としての情を結べた相手だと思っている。だからこそ、ライルの必死ささえ滲む態度に、エリスは目を伏せた。
「エリス、恋をしなさいって、言ったでしょう?」
「ええ、仰いました。…キール様への想いが、恋かはわかりません。けれど、」
「けれど?」
「キール様だけは失いたくないと。わたくしをわたくしたらしめるために、手を離してはいけないと…そう、思ったんです。」
「…そう。」
膝の上で両手をぎゅう、と握って、俯き気味に感情を吐露するエリスに、ライルが発せたのは素気ないくらいの一言だった。恋かはわからないとエリスは言った。けれどそれは、恋どころかもっと深い感情なのではないかと思い至ったが、それをいうのは野暮だと咄嗟に口を噤んだ結果だった。
「…今日の午後、キール先輩がいらっしゃるわ。婚約の申込み…というか手続きをしに。」
「え、」
「相手がキール先輩なら、私も安心よ。一つだけ気になっていたのがエリスの気持ちだったから。流されたわけじゃあないって分かったのなら、私は二人の婚約を歓迎するだけよ。」
「お兄様…。」
「早いけれど、おめでとう。エリス。」
テーブルを回り込み、ライルはそっとエリスを抱き締める。髪を撫でられて、エリスは一瞬強張った体の力を緩めた。
「…ありがとうございます、お兄様。」
両家の婚約の手続きと王家への申請が通れば、エリスはすぐにでもキールの元へ行ってしまうだろう。というより、ライルは行かせる気でいる。花嫁修行───という名目で、一日でも早くローリヤと離してやろう。ただ普段から長期休みくらいにしか帰ってこないとはいえ、家から妹がいなくなるのは寂しい。そんな気持ちから、ライルはしばらくの間、エリスを抱きしめたままでいた。緩く梳かれる髪に、エリスが船を漕ぎ出すのは、すぐのことだった。
「…キール先輩がいらっしゃるまで寝ていなさい。お昼には起きるのよ。身支度したいでしょう?」
「…ん、…はい……。」
「おやすみ、私の可愛いエリス。」
私の可愛いエリス、とはよくライルが呼ぶ呼び名だ。ライルだけは、エリスを傷つけないと。決意とともに、ライルがエリスを慈しむ家族と思っていることを、エリスに分かりやすく伝えるために呼び始めた。その呼び名を、ライルは噛み締めるように呼んだ。腕の中、ゆっくりと眠りに落ちる妹の無防備な姿は、ここ数年見ることのなかったもの。どうやら兄として多少なり、エリスの信頼を得ることは出来ていたらしいとライルは薄く笑う。
「【夢歩く愛し子、汝の眠り、何者にも汚されぬものであれ】」
エリスの額にそっと唇を寄せて、古い守護の呪文を唱える。悪夢に魘されるエリスを宥めるため、慣れぬ古代語を覚えたのを思い出す。人魚の血を引く者は、古代語と相性がいい。古代語は現代の言葉から見れば詩的で、解釈の余地が広いためだ。それを言葉に魔力を、声に魔力を込めるのが得意な者が操ればどうなるか。
幼少期のエリスは古代語を面白いと言って解読に耽っていた。それを傍で見守っていたライルだから行き着いた。人魚の混魔の魔力を底上げするのに、古代語は絶大な威力を持つ。それこそ、苦手な類にも力を容易く操れるほど。ライルは癒しに関連する魔法を本来であればうまく使いこなせない。けれど古代語を使えば、簡単な癒しの魔法を使うことができた。幼いエリスが魘されるのを見て、学園に通いたてのライルが必死に身につけたものだ。王城でも、思うままに古代語を操る混魔を数えたら、ライルを入れても片手で足りるほどしかいない。何にもかえ難いライルの強みだ。それを得るきっかけをくれたエリスに―――だからこそ、思う。
「…私の持てる全てで、貴方を守るわ。それが、私の、兄としての矜持。」
兄らしいことをさせて頂戴ね。眠りについたエリスにそっと囁いて、ライルはふっと笑った。
エリスを横抱きにしベッドに横たえると、ライルが訪れてからずっと気を利かせて退室していたパベリーを呼び戻す。昼に来客があること、エリスの身支度をしてほしいこと。そして、そのあとエリスが家を出るための支度を急ぎで進めてほしいこと。
「お嬢様が婚約…ですか。」
「ええ。貴方もエリスについて行きたかったらそう手配するから言って頂戴。日程はこれから決めるけれど、なるべく早くに進めるつもりよ。」
「ライル様…それは、」
「ええ、あの子を守るにはそれが一番。…じゃあ、よろしくね。」
パベリーはこの家の誰よりも、エリスの家への思いを知っている。ライルの言外に含ませた思惑にもすぐに思い至り、ハッと目を見開いた。ただ明言だけはせず、ライルは静かにエリスの部屋を出た。既に書類の準備は粗方済んでいる。エリスが目覚めるまでは───とひたすら書類整理をしていたが、いい加減眠気がひどい。キールが来るまでに自分も仮眠を取るべきかと、ライルは首を回しながら自室へと足を運んだ。