17.地獄で抱き合いましょう
前世の記憶を思い出してから、エリスはずっと諦めの中で生きていた。理想を押し付ける母、柔らかな棘が隠れた親の庇護下にいなければ成長できない自分。前世を思い出す前までは、子供らしい癇癪で何度全てを投げ出そうとしたことか。母の理想のため、幼いエリスには理不尽極まりなく思えることも多々あった。けれど、結局エリスは投げ出さずに全てを飲み込んだ。
他者に比べ恵まれた環境で生きている自覚があった。人より多い魔力量や、知識を吸収するのを厭わない自身の性質と、遅くはない思考の回転。見目も非常に良いわけではないもののそれなり。生家は爵位こそ低いが歴史ある一族で、父は王城での役持ち。恵まれている自覚が、前世の価値観が、エリスにその場で踏ん張って一人立つことを促した。
実際問題、エリスは上手くやっていた。本来エリスに何かを言える大人―――つまりは両親はエリスと接することが少なく、たまに接すれば手の掛からない幼子だった。侍女や家令など、近くで日々見守っていた者達だけが、エリスの歪さに気が付いていた。表面上、必要に応じて子供らしい無邪気な言動を見せるものの、歳の割にあまりに物分りが良すぎる。また、何かに執着することもなく、必要だからという理由がなければ何も求めない。あまりにも子供らしからぬエリスだったが、それでも機械的なわけでも、高圧的な訳でもない。ただただ子供らしさが欠落しきったエリスを、家族ではない使用人達は見守ることしか出来なかった。
そうして完結していたエリスの異常性に気がつき、初めて手を差し伸べた大人が、キールである。
「キール様は、随分前…わたくしが小さな頃、わたくしはわたくしの好きなように生きていいのだと仰ってくださいました。覚えていらっしゃいますか?」
吐息のような小さい声で、問う。それを言われたのは、出会って間もない頃。家庭教師として接する中で、親の目を気にしながら、親の理想の範疇を超えてしまいそうになる自分を抑圧して生きるエリスに気付いたキールが何度も伝えた言葉だ。好きなように生きればいい。研究だって、気になるものがあれば幾らでも突き詰めて良いし、無理に分かりやすい令嬢らしさの枠に自分を当てはめなくていい。声を上げて笑ったって、多少お転婆にしたって、構わないのだと。
「え…ああ、うん。覚えているよ。」
「覚えていらっしゃいました?では…今回の件、わたくしが勝手をしたことは事実ですが、絶対に謝りません。」
にこり、満面の笑みであるはずなのに凍えきった表情を浮かべたエリスに、キールは目を瞠った。エリスとは長い付き合いであったし、それなりに───他の人間に比べても深い関係性である自負がある。だがここまで怒るエリスを目にするのは初めてだったからだ。エリスは母親から、どんなに理不尽な要求を突きつけられても、溜息を吐いて、諦めを前面に出しながらも粛々とそれをこなしていた。分かりやすく、怒りを表現したことなど一度もなかった。
「キール様が魔力暴走を起こしていることは、向かってる途中で気づきました。わたくしにそれを止める術がないことだって十分に分かっていました。怪我をするであろうことも、勿論。けれど、キール様をあのまま…一人にはしたくなかった。わたくしのただの我儘です。」
「エリス、嬢…。」
「心配したいのにさせてももらえない。一方的に庇護されるだけなんて、わたくしは真っ平です。わたくしは、わたくしにできることをします。あの時、あの場でできたわたくしの最善を取りました。それに後悔もなければ、キール様へ謝るつもりもありません。」
言いたいことは言い切った、とエリスは大きく息を吐いた。ぎっと鋭い眼差しで、キールを睨むようにして見上げる。初めて見る好戦的なエリスに慄いていたキールだったが、よくよく見れば、エリスの首筋には汗が滲んでいる。息を切らさないのは意識してのことらしいが、本来であればまだ病室から外に出ていいほど回復していないエリスを思えば、ここまで平然として見せているのは、ひとえに怒りの感情で一種の興奮状態に陥っているからだろうというのは想像に難くなかった。
「…エリス嬢、話を…聞いてくれるかい?」
「………聞くだけでしたら。」
「うん、ありがとう。」
果たして自分はここまで怒りに身を任せるエリスを見たことがあっただろうかと改めて考え、キールは気づいたことがあった。エリスは自分のために動くことがあまりない。自分の預かりしる範疇で、最善の流れに行き着くであろうために、影から尽力するタイプだ。それが、キールを救うために自分の身を危険に晒した。そしてそれを自分の我儘と断じて、譲ろうとしない。
常のエリスからは想像もできない行動と発言に、キールの中にあった、『エリスを危険に晒してしまった』という焦燥感がじわり、溶けていくのを感じていた。もちろん罪悪感はある。けれどキールの思う通りであれば、エリスは、きっと。そんな思いが胸の内で首をもたげるのを感じつつ、それは表層に浮かべてはいけないと無理くり心の底に押しやって、エリスに意識して柔らかく問いかける。拗ねたようなエリスは、そっぽを向いたまま首を縦に振った。
「エリス嬢は…先祖返りの寿命について知っている?」
「…元々の魔族の寿命にほぼ等しく生きるのでは?」
車椅子に座るエリスの足元に跪いて、キールはエリスの手をそっと握る。ぴくり、と反応はあるものの、振り払われないことに安堵して、キールは話し続ける。
「うん。それが一般的に言われている。…けどね、それは全ての先祖返りに当てはまることじゃない。一部の先祖返りは…ある条件を満たさないと、ある一定の年齢前後で、魔力を溢れさせて、それに飲み込まれて死んでしまうんだ。」
ハッとしたように、エリスは顔を上げる。エリスの目に映ったのは、泣きそうに眉を下げて微笑む、キールの寂しげな表情だった。
「気付いたね?…そう、ボクがそうだ。魔力量によるけれど、吸血鬼の先祖返りはだいたい三十を過ぎた頃死ぬ。ボクもそろそろかな…と思っていたところに、アレだ。どうやらボクは自覚していた以上に魔力量が多かったみたいでね。多分、エリス嬢が来るのがあと少し遅ければ、」
「っ今は!?」
「ん?」
「今は、体調に変化は?大丈夫なのですか?」
あと少し自分の到着が遅ければ死んでいた。皆まで聞かずとも察したエリスは、自分の手を握るキールの手を握り返して、慌てて問いかける。魔力の乱れがないか、必死に確認するエリスの様子に、キールはくすぐったい気持ちになりながら笑って首を振った。
「今はもう大丈夫。エリス嬢が…エリスが血をくれたからね。」
「よかった…。」
「…いや、よくないよ。」
大丈夫、と笑うキールに、エリスが胸を撫で下ろすのと同時。キールは鋭い目でエリスを見咎めた。見たことも無い鋭い視線で自分を射抜くキールに、反射的にぴくりと肩を跳ねさせたエリスは、おやと思った。意図してエリスを呼び捨てにする、キールの意図は。それを探りたくなったものの、今はキールの話に集中すべきだとキールの目をそっと見つめ返す。
「さっき言ったね、吸血鬼の先祖返りはある条件を満たさなければ永く生きれないって。」
「はい。」
「…それが、…贄となる相手を一人決めて、その相手の血を飲み続けることだって言ったら…どうする?」
「…え…?」
「エリスの血がなければ、ボクはこの先生きられない。逆に、吸血の時にエリスもボクの魔力に毒されてしまっているから、ボク以外の誰かと婚姻関係になっても子を成すことはできないと思う。」
え、と口を開けた状態で固まるエリスに、キールは溜息を吐く。特に強い力を持つ魔族の先祖返りは、先祖返り本人の器だけでは脆すぎて長く生きられない。だから、贄とも言える伴侶を迎える必要がある。キールの場合は、永遠に血を捧げてくれる生贄――ていのいい伴侶が必要だった。
キールは自分の寿命のために、誰かを食い物にして生きる選択を、永遠に取らないつもりだった。だからこそ、教員職を辞すなど身辺整理を進めていたのだ。最期はスタインシュイン家の領地の外れで、一人静かに消えるつもりでいた。
「…今は、ボクが君の血を吸いすぎてしまったからだけど…落ち着いている。けれど、君をボクの眷属にしなければ、またボクは魔力暴走を起こすだろう。その時、眷属になっていなくても、ボクの魔力に毒されている君にも影響は出る。わかるかい?この先君が苦しまずに生きるためには、ボクのものにならなければならないんだ。」
「…つまり、は…わたくしはキール様に嫁ぐ、必要が…?」
「そうだね、それが一番穏便だ。どうしてエリス、君は…自分の可能性を自分で潰してしまったんだ。」
ようやく事態を噛み砕いたエリスの頬が、赤くなったり青くなったりを繰り返す。キールのことを憎からず思っている自覚がエリスにはある。つい先日も婚約問題で家と揉めたばかりだ。キールであれば自分を思いやってくれ、伴侶としてエリスからすれば申し分ない相手である。だが、キールからすれば?キールにもし想う相手がいたとして、エリスが伴侶になる以外の道を、キールから奪ってしまったのでは、と絶望的な感情がエリスの胸の内で渦巻いているのは、長い付き合いであるキールからすれば一目瞭然だった。
「エリス、君に添い遂げたいと想う相手は?」
「え、あ…いえ、」
「そう。…ボクはね、ずーっと一人で生きて、一人で死ぬことを決めて生きてきたんだ。終の住処だってもう用意してあった。」
「…はい。」
「そんなボクだから、あんまり人と深く関わっても、皆より早く死んでしまう。だから…あまり人に深入りするつもりはなかったんだ。なかったんだよ…君と出会うまで。」
え、と困惑の声を漏らすことは、エリスにはできなかった。気付いた時には、もう暖かな腕に抱き締められていたからだ。
細い体を抱き締めて、キールは出会った頃のエリスを思い出す。あまりにも不器用に生きている少女だと思った。人生の期限が見えている己以上に、生きにくそうだと。笑っていても笑っていない。それに気づいてしまっては、もうダメだった。これは恋慕ではないだろうけれど。
「参ったなあ…ボクの最期の願いは、君が心穏やかに…自分を殺さずに生きてくれる未来を、手に入れてくれることだったのに。」
「キールさま…?」
「……十以上歳が離れていても、混魔と先祖返りの寿命から考えれば多少の年齢差だ。君とボクが仮に婚約したとして何もおかしくはない。魔力量も釣り合うしね。けど…生まれてからずっと静かに消えることを目標にしてきたボクが、君を幸せにできるとは到底思えないんだ。」
エリスを包み込むような体勢から、ずるずると床に膝をついてキールはエリスの細い肩口に額を預ける。はあ、と重たく吐き出された溜息がエリスの首筋を撫でた。慣れない感覚にぞわりとエリスの肌が粟立つ。
「キール様、」
「ん?」
「わたくし、幸せにしていただきたいなんて思っていません。」
何を言おう。何を伝えよう。エリスは珍しく混乱していた。
どうやらキールはエリスを娶ること自体に忌避感はないらしい。そして、抱き締められているエリスも、師弟関係を超えた接触に、慣れないと挙動不審にこそなれど嫌悪感はない。むしろ同世代は精神年齢のためか幼く感じることが多かった事もあり、キールはエリスにとって唯一と言っていいほど限りなく素に近い感情をさらけ出せる相手だ。それが甘い感情を秘めているかは、エリス自身分かっていない。けれど、と思う。
「わたくしに諦めだけで生きるなと指し示した貴方だけは、諦めたくない。」
「…!」
「貴方が生きるためならば、わたくしのこの先の人生…いいえ、魔力も、血液の全てだって捧げましょう。」
ぶわり、枯渇していたはずの魔力がエリスの胸の内から湧き上がり、エリスの髪を揺らす。
「―――わたくしに諦め以外を提示したくせに、もがいて生きることを教えたくせに、キール様だけ諦めるなんて絶対に許さない!」
今にも倒れそうに白かったエリスの頬に血液が通う。魔力で爛々と光る桃色の瞳に、キールは息を止めた。エリスから甘い匂いがする。酒精のような、ひどく甘ったるい香り。
嗚呼、と思う。もう、この少女を逃がしてやれない。
「……ボクと地獄に落ちてくれる?」
「…わたくしにとって、とうに今世は地獄です。」
前世も生きづらいと思う時は多々あった。けれど、記憶は美化されただけかもしれないが、今世程ではなかったはずだ。前世を思えば、今世の生きづらいこと。地獄と例えたとて、誰にも後ろ指さされまい。泣き笑いのように問いかけるキールに、鼻で笑って返事をし―――限界を超えたエリスの体は、再び意識を失った。